チャプター1 波間にたゆたうリフリジレータ
「花音。ここにいたんだ。探しちゃったよ。」
「あぇ? うん・・・。」
私は船縁の手すりに掛けた手の甲へ顎を乗っけたまま、恵の方を見た。
恵は、いつもの平和的かつ牧歌的な笑みを浮かべて、
「何してたの?」
と、私の隣に立つ。
「雲、見てた。」
切れ目がちな雲から所々青空がのぞくのだけれど、風が強い。本体から千切れたような湿った雲が、もわもわと浮かんでいる。
「きれいな海だよね。ちょっと波が高いけど。」
「そだね・・・。」
「ほらほら。あの雲見て。何だかチョココロネみたい。」
「コロネ、食べたい・・・。」
「船の売店で何か売ってないかな? 後で見にいこうよ。」
「うん・・。気が向いたら。」
「・・・あのさ、花音。」
「何?」
恵は手すりにつかまりながら、私を正面に見てちょっと顔を曇らせた。
「修学旅行で海外に来れるなんて、滅多にないチャンスなんだよ。普通は修学旅行っていっても、国内に行くだけなんだから。」
「うん・・・。」
だから? という質問を私は恵への視線にこめた。
「だからさ、もっと楽しもうよ。もったいないよ。」
「楽しんでるよ。十分に。」
「そんな風には見えないんですけど。」
「なんていうかさ。京都だろうと地中海だろうと、そこが見知らぬ土地だってことに、変わりはないんだし。海外に来たから楽しさ三倍、ってことにもならないじゃん。」
「うーん、まぁ、そういう考えもあるのかも知れないけど。花音はいっつもそれでしょ。」
「それって?」
「ドライっていうか、無気力っていうか。運動も勉強もやればできるのにさ、つまんなそーな顔してる。」
そうなのかな。いや、恵が言うからにはきっとそうなのだろう。
つまらない、何もかもが。そんな思いが、私の人生、といってもたかだか十七年とちょっとにすぎないわけだけれど、常に底の方にある。
勉強したって努力したって、結局世の中は変わらないし変えられない。二十歳になって選挙に行ったところで、自分の一票が世の中を動かすわけでもなし。ふてくされてもしょうがないと、一念発起して頑張ってみたところで、事故とか災害とか、そういう不可抗力で何もかもひっくり返されちゃうのを、連日のニュースが伝えているわけだし。こつこつ積み重ねた努力も、本人の責任、過失、そんなの関係なく、運命ってやつにもてあそばれて全否定される。運命なんて大仰な言い方しなくてもいい。生徒がいじめられてるのに、見て見ぬふりする教師とか、体裁ばかりを気にする大人とか、痴漢してくる男とか、作り笑いでとりもつグループの縁とか。そういう要素に本来まっすぐであるべきいろんなものが捻じ曲げられて、正直にやってるのが馬鹿馬鹿しくなる。
「こんな世界をつまんないと思って、何がいけないというのよ、恵。」
「ええ? いけないっていうか、花音、今、頭の中で長々とモノローグが展開してたでしょ。結論だけ疑問形にされても、よく分かんないよ。」
「ああ、ごめん。」
「いいよ、もう。それより、船首の方、行ってみよ。タイタニックごっこがしたい。」
つくづく。恵の笑顔を見て思うのだけれど、私みたいなひねくれ者と、よく友達やってられるなぁ。修学旅行で地中海クルーズなんて、テンション上がりまくりなはずの船上にあって、ぼんやりコロネ雲を眺めてるだけの奴と、友達でいてくれる。細かいことを考えない性格ゆえなのかも知れないけれど、やっぱりこれはありがたいことよね。きっと。私がひねくれきらず、社会からの逃避、つまりは引きこもりとなるのを防いでいる、最後の砦が恵なのだった。
「分かったわよ、恵。タイタニックじゃ縁起悪いから、サスケハナごっこにしよう。」
「サスケハナ? って、何? 武士?」
「ペリーよ。」
「ペリーがサスケなの? そのサスケ・・なんとかごっこって、どうやるの?」
「私が松蔭やるから、恵はペリーね。んで、私が船に乗せてくれーって懇願するから、恵は、No, you can’t. って、頑として断るの。」
「・・・楽しいの、それ?」
「楽しい・・はず。」
「やっぱり、タイタニックの方がいいよ。ロマンチックだし。」
「サスケハナの方がかっこいい。だって戦艦よ。黒いのよ。黒船なんだよ。」
タイタニックごっことサスケハナごっこ、どっちをやるかで燃える議論を交わしながら、私達が船首に向かって歩いていると、突然、船の底の方から何本もの雷が同時に落ちたような、ものすごい音が響いてきた。
「わぁ!」
「きゃっ!」
と、私達は思わず身を縮めた。
「な、何の音・・?」恵が下の方に目をやりながら、不安そうな声で言った。
「分かんない・・・。何かが爆発したのかな?」
甲板にいた外国の人達も、何が起きたのかとお互い顔を見合わせてざわついている。事故、災害、不可抗力。不意に、三つの単語が頭の中へ浮かんできた。
「まさかね・・。」
私は頭を振って、そんな不吉ワードを追い払う。
「どうしよう、花音。」
「とりあえず、下に戻ろう。」
甲板から二層ほど降りたところに大部屋があって、そこが私達生徒の集合場所となっていた。
「うん。」恵もうなずく。
下へと降りる階段へ差し掛かったとき、船酔いにも似た、奇妙な感覚に襲われた。なんだか、まっすぐ歩きにくいのだ。
「ねぇ、花音。この船、なんだか・・・。」
恵も同じことを感じたようだった。
「うん。なんか、傾いてる。」
外洋にも出られるくらいの大型フェリーなわけだけれど、その船体が心なしか傾いている。いいえ、心なしか、なんてものじゃない。身体ではっきりと感じられるくらい、急速に傾き始めていた。
「ちょ、ちょっと。嘘でしょ・・。」
嘘だと思いたかった。
雲の切れ目から差し込む光はとてもきれいで、大嵐のインド洋とか、そんな場所にいるならともかく、これほどきれいで平和な海で船が傾きつつあるなんて信じられなかった。
けれど、私にそれが信じられようと信じられまいと、現に船はスキー場の中級者コース並みに左舷側へ傾いている。あちこちから悲鳴が上がった。
船内放送で緊迫した男の人の声が何か言ってるのだけれど、上ずったイタリア語? のようで、何を言ってるのかさっぱり分からない。
「え、え? どうしよう、花音。この船、沈んじゃうの?」
「分かんないけど、さっきの音、もしかしたら荷崩れ起こしたのかも。」
「荷崩れって、それだけで・・・。」
「貨物が崩れて、船の復元力以上にバランスが取れなくなると転覆しちゃうって、なんかで読んだことがあるのよ。」
そうだ。
「恵! ライフジャケット!」
こうなったらもう、海に飛び込むことも覚悟しなきゃならない。
甲板に備え付けてあったライフジャケットの棚にはすでに人が群がって、我先にとジャケットを取り出している。
人波にもみくちゃにされながら、私はようやく最後の一つ、残っていたジャケットを手に入れた。
「はぁ、はぁ・・・。と、取ってきた。」
「でも、一つじゃ・・。まず、花音が着て。」
ジャケットを着せようとする恵を、私はさえぎった。
「だめよ。恵が着るの。」
「だって、それ、花音が取ってきたのよ。花音が着るべきだわ。自分はいいからまず友達に、なんてヒロイックな感傷に浸ってるときじゃないのよ。」
常になく強い口調で言う恵に、私は驚いた。そうだ。恵は言うときには言う、芯の強さがある。そういう恵のぶれないところが私は大好きなのだけれど、今、言い張られても強情にしかならない。
「ヒロイックな感傷って、そしたら恵だっておんなじこと言ってるじゃん。自分じゃなく、私にってさ。感傷とかじゃなくて、私の方が恵より泳ぐの得意でしょ。だからよ。単純に泳ぐ技術と体力の問題よ。」
「でも・・・。」
「さぁ、早く!」
私は無理やりジャケットを恵に着せて、正面の紐をしっかりと結ぶ。
手すりから身を乗り出して海面をのぞくと、船が傾いているとはいえかなりの高さだ。十メートル近くありそうだった。
どうする。船がひっくり返るのはもう時間の問題のように思えた。
「恵! いっそ、もう飛び込んじゃ・・・。」
私がそう言いかけたとき、背後から何か重いものが転がってくるような、すさまじい音がして窓ガラスを突き破った。
それはちょうど、私と恵の間に飛び込んできて手すりをなぎ倒し、そのまま海へと落ちて行った。私が体重をあずけていたところの手すりもひしゃげて、バランスを崩す。
「あ・・・。」
「花音!」
恵が必死に手を伸ばす。
その手を私もつかもうとするのだけれど、人差し指横幅一本分くらい、ほんのわずか、恵の手に届かなかった。
恵が何かを叫んでいるけれど、それはもう言葉として理解できなかった。泣き出しそうな恵の顔が、まるでスローモーションのようにゆっくりと遠ざかる。
人は運命ってやつにもてあそばれる。
そんなことを常々思いながらも、まさか自分がもてあそばれる側に立つなんて、そうそう起こりはしないでしょと、私はたかをくくっていたのかも知れない。甘かった。事故とか、災害に遭ったとき多くの人が思うであろうこと。「まさか自分が。」遠ざかる恵の顔を見つめながら、私はまさしく、まさか自分がこんな目に遭うなんて、と。そう思っていた。
唐突に、私の回想じみた独白は中断された。私の肉体が海面と衝突したんだ。かなりの衝撃で、背中から落ちたせいか、ひりつくような痛みを感じる。
「・・ぐ! ・・・ぷぁ!」
私はもがくようにして海面に顔を出した。泳ぐのが得意だからと、自信たっぷりに恵へライフジャケットを着せたわけだけれど、制服を着たままの水中というものが、これほど動きづらい場所だとは思いもよらなかった。
袖やスカートが身体にまとわりついて、動きにくい。水を吸った制服の重みで、ちょっと気を緩めるとすぐに身体が沈んでく。おまけに、波が高い。呼吸しようとする鼻や口から塩辛い海水が入り込んできて、むせればむせるほど、息が苦しくなる。
「あぷっ・・! げほっ!」
まずい。プールでだったら二十五メートルを二十本くらい余裕で泳げるのだけれど、この状態じゃあ二分もつかどうか。立ち泳ぎすらままならない。
濡れそぼった髪の毛でさえぎられた視界を指でぬぐうと、私から十メートルくらいのところに、白い箱のようなものが浮かんでいるのに気づいた。
「あ、あれは、さっきの・・・!」
ガラスを破って飛び出してきたのが、あの大きな箱だった。
「あ、あそこまでたどり着ければ・・。」
私は高波にもまれながら、平泳ぎで泳ぎ始めた。最初は焦って、犬かきなんだか溺れてるんだか分からないフォームだったけれど、平泳ぎならどうにか進めることに気づいて、それでも、着たままの制服のせいで、ちゃんとした形にはなってない。体力の消耗は激しかった。
「はぁ・・、げほっ、ぷはっ!」
遠い。
すぐ先にあるように感じたその白い箱へ向かうのだけれど、いくら水をかいても、ちっとも近づいてるような気がしない。ジブラルタル海峡を泳いで渡るような、途方もない距離が私と箱の間に横たわってる。そんな錯覚にとらわれるのだった。
「はぁ、はぁ、も、もう少し・・!」
ひどく長い時間がかかって、ようやく箱にたどりついてみると、それは冷蔵庫のようだった。波にもまれて大きく上下する冷蔵庫にとりついて、扉を開ける。私は最後の力を振り絞って中へと体を滑り込ませた。
「や、やっ・・た・・・!」
波のしぶきが開いた扉から入ってくる。
「閉めなきゃ・・。」
もう、指一本動かすのもだるいくらい、疲れ切っていたのだけれど、冷蔵庫は扉が閉まると密閉状態になるって聞いたことがある。酸欠にならないよう、私は庫内にあったハッシュポテトの袋を扉に挟んで、ほんの少し隙間ができるようにした。
冷たい・・。まだ冷気の残る冷蔵庫の中は、濡れた身体に寒すぎるものだったけれど、とにかく助かったんだ。安心したせいか、コーヒーに入れた角砂糖みたいに、私の全身から力が溶け出して行く。背中に冷えたホットドックの感触を感じながら、私の意識は冷蔵庫内の薄暗がりへ誘われるように、ゆっくりとフェードアウトして行った。
「・・・・・。」
ゆらゆらと、揺りかごのようにベッドが揺れてる。
「ん・・。」
私は寝返りを打とうとして、がさりと枕らしからぬ音を立てるそれに驚いた。
「あれ。私、寝てた・・・?」
そうだ。ここはベッドじゃない。冷蔵庫の中だ。海に落ちて、必死にこの中へ入って、それから・・・。
扉の隙間から差し込むはずの光がない。真っ暗闇だった。
私はそっと、扉を押し開けた。目に飛び込んできたのは満天の星。
「わぁ。星が・・・。」
大粒のダイヤみたいな、いや、実物を見たことはないんだけれど、そう例えてしかるべき、輝く星々が夜空を満たしていた。大きな満月も出てる。
「夜になってたんだ。」
何時だろ。
あ。スカートのポケットに携帯が入ってるのを思い出し、どうにも嫌な予感がする。急いでポケットから取り出し、ボタンを押してみると、思ったとおりだ。
「うぁぁ〜。壊れてるよ。」
電源スイッチを長押ししたり、本体を振ってみたりしたけれど、液晶画面は沈黙したまま。防水仕様の機種じゃないし、海水へ完全に水没したわけで、壊れても当然だった。
「ショック・・・!」
そうだ。携帯が壊れたのは痛いけど、そんなことより、みんなは? 恵は?
あたりを見回しても、星に輝く空とは違って、海面は墨汁を流したみたいに黒々と横たわるだけだった。なんにも見えない。
あれだけ大きな船が沈めば、救助の船やヘリコプター含め、大騒ぎになりそうなものだけれど、そんな気配はどこにも感じられなかった。波の音と緩やかに吹く海風、ただそれだけが、私の耳に聞こえてくる。
「流されちゃったのか・・・。恵、大丈夫かな。」
私が海に落ちるとき見た、恵の必死な顔が思い浮かんだ。
「ライフジャケットも着てたし、大丈夫よね、きっと。」
私は自分へ言い聞かせるように言うと、ごろりと冷蔵庫の中へ横になった。さっき枕と勘違いしたのは、月明かりにかざしてよく見れば、チキンナゲットの袋、のようだった。満面の笑顔を浮かべたファミリーが、山と盛られたナゲットを頬張る、そんな写真がパッケージにプリントされていた。
「お宅のご飯はナゲットオンリーなのね・・・。」
少しは野菜も必要なんじゃないかしら、なんて思いながらも、幸福な食卓を囲む一家の姿は冷蔵庫に乗って絶賛漂流中な私から見て、少し羨ましくもあった。
「まぁ、食料つきの救命ボートに乗ってると思えば、救われる道もあるってもんでしょ。」
船が沈没して漂流、こんな状況に置かれて、もっと絶望するかと思っていたけれど、私は自分でも驚くくらい冷静だった。
なるようにしかならない、一種の諦観みたいなものもあったけれど、何より、海上では目立つ冷蔵庫だもの。きっと、捜索隊が見つけてくれる。食料もある。事態を楽観視するために必要な要素を一つ一つ挙げながら、私はまた眠りについた。
翌朝、庫内に満ち溢れるような光で私は目を覚ました。
扉を開けると、すがすがしい潮風が頬を撫でる。まばらに浮かぶ白雲が青空に映える、快晴だった。昨日と比べて海面は湖のように静かで、まるで鏡の上に浮かんでいるようだった。
「ぉお! すごい! 魚が!」
冷蔵庫の縁から身を乗り出して海の中をのぞくと、銀色の体色をきらめかせながら、何千匹という小さな魚が泳ぎ回っていた。群れはまるで一つの意思を持ってでもいるかのように、右へ、左へと同時に方向を変える。
「針と糸があれば、釣れるかも。」
底に見えるのは、珊瑚? 水深、浅くはなさそうなのだけれど、ピンクや青といった色とりどりの珊瑚が、光の届く範囲で広がってるのが見える。
「あ、そうだ。食料のストック、チェックしとこ。」
昨日泳ぎ着いたときは必死で調べる余裕もなかったけれど、冷蔵庫が海へ激しく落下したときにぶちまけた分を差し引いても、かなりの食料が残っていた。
私は自分が座ったり、横になったりするスペースを確保しながら、脇に食べ物を積んでいく。
「チキンナゲット、ホットドック、ドック、ドック、ホットドックが多いわね。売れ筋だったのかな。あ。林檎発見。生ものは先に食べた方がいいかも。それから・・・。」
私は、食料もそうだけれど、一番肝心なものを探していた。食べる物より、むしろ「それ」の方が重要だ。
食料をかき分けるようにして、
「あったよ・・・! 良かった・・!」
ついに見つけた。ペットボトル入りのミネラルウォーターが二箱。4ダースある。人間、食べ物は一週間くらいなくてもどうにかなるらしいけど、水がないのは生体的に耐えられない、というのを小学生の頃、超絶限界ロビンソン号! って学習雑誌の付録で読んだ覚えがある。その付録の内容にどこまで信憑性があるのか知らないけれど、いたいけな小学生相手に嘘は書かないだろうという、大人の善意に悔しいけれど、今はすがるしかなかった。
棚おろしの結果判明した現在の手持ちアイテムはまず、ミネラルウォーター四十八本。それと、パックに入ったホットドックが十二、チキンナゲット六袋、グリーンピース二袋、林檎四個、レモン八個、空のボウルとスプーン、生の豚肉五百グラム、ベーコン八パック、レタス一玉とトランプワンセット、以上だった。当面の食料としては、十分な量だ。豚肉は・・・、ちょっと食べ方を考えよう。生でかじってお腹を壊すのは、体力維持の面からも避けたい。
「これでインニョーしなくて済むわね。」
飲料、じゃなくてインニョー。食事時の人にはちょっとあれなんで、あえて漢字を使わないけれど、自分の身体から出た水分を再び口から摂取するという、究極のサバイバルスキルだ。ニョーをろ過する装置とかもあるらしいけれど、ここにそんな便利アイテムはない。やるとしたら生なわけで。
「ボウルもあるし、い、いざとなったら・・・。」
空のボウルに目をやる。想像しただけで、思わず怖気が走った。
出しては飲み、飲んでは出すを繰り返す人間永久機関を頭に描いてみるのだけれど、まぁ理屈ほどうまくはいかないものなんだろう。だいたい、体内の老廃物として外に出しているのだから、やってることは朝出した自分家のゴミを、夕方まるまる持ち帰ってくるようなもの。家の中がゴミ屋敷となること必至の、自滅行為に近いわけだ。
私はこのペットボトル達のおかげで永久インニョー機関となるのを免れたことになる。アイラブペッティ! といわんばかりに、私はその大事な命の源を足元にしまった。
ところで、なぜ冷蔵庫にトランプが入っているのか。調理場のジョー、ネームプレートに書いてあったのを見ただけで、直接聞いたわけじゃない、そのジョーさんが休憩中に遊ぶためのトランプだと私は推測してる。なぜ冷蔵庫の中に置くかって? きっと、仕事で火照った手を、冷え冷えのトランプで冷ましながら、休憩中のリラックス感を堪能したいのだろう、とは私の勝手な想像だけれど、あるいは、上司の人に禁止されたものだから、こっそり隠し置く場所として、選んだだけかも知れない。
波がほとんどないのをいいことに、私は冷蔵庫の扉を全開にして、海を眺めながら林檎をかじった。甘酸っぱい香りが口の中に広がる。エデンの園で禁断とされたその芳香は、けれど、私の置かれた孤独を少しだけ、忘れさせてくれるに役立っているのよ。
地球が丸いと思い出させるには十分な、それは見事な三百六十度だった。ぐるりと見渡す限り、島や船は一切見えない。鳥の影もまったく見当たらず、あるのは、空、雲、海。その三つだけだった。
「ここ、どこよ・・・?」
船が沈んだ時、ちょうど長靴状のイタリアつま先沖あたりにいたと思うのだけれど、今自分がどこにいるのか、もはや見当もつかなかった。
このまま、誰も私を見つけてくれなかったら・・・。私は慌てて首を振った。
「いやいや。そんなことない。絶対見つけ出してくれる。沿岸警備の人とか、あるいは軍人さんなんかも探してくれてるはずなのよ。見つかんないわけがないよね。大丈夫だって、絶対。」
確信なんかないけれど、私は無理矢理自分に言い聞かせる。
「でも、もし、万が一見つからなかったら・・・? 何ヶ月か、ひょっとしたら、何年か後にどこかの浜辺へ漂着して、冷蔵庫を開けた子供が骨だけになった私を見て腰を抜かす、とか。」
想像の中の私、骸骨が、からん、と音を立てて子供に微笑みかける。冷蔵庫が棺桶だなんて、冗談じゃない。
背筋が冷たくなった。
「ないないないない。大丈夫だって。天気もいいし、視界は良好なんだから。」
漂流を始めてから、ひとり言ばっかのような気がするけれど、その方が気がまぎれる。自分の生み出す沈黙に、自分自身が耐えきれそうになかったから。
「あ、そうだ。なんか、旗みたいなもの振ってた方が、見つけやすいかも。」
私は身の回りを見渡して見るのだけれど、目印に振れそうなものはなかった。
いや、
「スカート、か・・・。」
私は、すっかり乾いた、ちょっと塩っぽい自分のスカートを見つめた。これを脱いで、でっかく振り回せば目印になる。なるけれど、ちょっと色んな意味で目立ってしまいすぎな気もする。
だって、現地テレビのレポーターがヘリコプターの上からこう実況するのよ。
「あ! ご覧ください。旅客船沈没から三日、生存者と思われる人物が、布のようなものを振っています。すごい! 奇跡です。まだ生存者がいたのです!」
私のパンツ丸出しな姿はそうやって、奇跡の生存者とかなんとかという見出しで、静止画、動画問わず世界中に配信されてしまうのだ。
「命に替えるものはなし、か。だけど、それじゃあ乙女の沽券に関わるってものよね。」
それで命は助かっても、なんというか、その後の人生に支障が出そうで怖い。
といって、スカートじゃなく、ブラやパンツを振るってのも、かなりの難度だ。というより、それじゃあ変態でしかない。世界中に安堵と希望をもたらしつつ、失笑を買いそうなこと受け合いだ。
「何を振るか。それが人生の問題ね。」
まぁ、時間だけはたっぷりあるわ。じっくりと考えよう。
私の漂流は続いた。
日の傾きかけた頃、何か黒い影のようなものが、水中からぽっかりと浮かび上がってきた。
「何・・・? 石?」
石が浮かぶなんてこと、あるんだろうか。いや・・・、あれは、ウミガメ・・?
「ウミガメだ・・!」
一抱えもある立派な甲羅を背負ったウミガメが、すぐそばの海面に浮かんでのっそり私の方を見ている。
「すごい・・! 野生のウミガメなんて初めて見た。」
眠たげなその目は、私に何かを語りかけてもいるようだったけれど、
「おーい。亀くんさ。どっちが陸だか、知ってるかい?」
なんて話しかけてみて、私はさすがにちょっと恥ずかしくなった。
「って、亀と会話が成立するわけないよね・・・。」
ウミガメに乗って無人島から脱出した海賊なんてのがいたような気もするけれど、さすがに、この亀に冷蔵庫を引っ張ってもらうってのも無理があるか。
「君が水先案内してくれたらよかったのにね。」
ウミガメは不思議そうな顔をしながらしばらく私を眺めると、やがてゆっくりと、海中に姿を消した。
会話ができたというわけじゃないんだけれど、何だか旅の道連れがいなくなってしまったような気がして、私はひどく寂しくなった。冷蔵庫の中で猫みたいに身体を丸くして、眠った。
幸い好天に恵まれ、海の荒れることはなかったけれど、降り注ぐような星空と、抜けるような青空が交互に繰り返されること五回。さすがに私は状況を楽観していられなくなった。
どんなに時間がかかったとしても、二、三日もすれば発見されるとたかをくくっていたのに、見つかる気配は一向になかった。それどころか、通りがかる飛行機すら、まだ一度も目にしていない。食料も水も無限にあるわけじゃないし、そもそも、捜索が打ち切られてしまえば、発見の可能性はぐっと低くなるんだろう。
「まさか、ほんとに見つけられないって、そんなこと・・・。」
昼間は、水平線と空を穴が開くほど見つめた。もし飛行機や船が近くを通りでもすれば、そのときはもうスカートでも何でも振ってやるわ。だから、お願い・・・! どうか、私を見つけて・・! 私は神様というものに、このとき初めて本気で祈った。
さらに四日がすぎて、夜。
昔の人達は、この星を見ながら自分の位置を把握するという航海術を編み出したものらしいけれど、あいにく私にそんな術の持ち合わせはない。ただぼんやりと、星の羅列を眺めるばかりで、そこから今の私に役立つ情報を読み取るなんてできっこなかった。
「それにしても、見たことない星よね・・・。」
星、というか、星座の方だ。天文女子ってわけじゃないのだし、星座にも詳しくないのだけれど、北斗七星とか大熊座、オリオン座といった有名どころくらいは押さえてるつもりよ。なのに、今、私の真上に広がる星々の中から、それら意味ある星座を見出すことはできなかった。
「外国だから、見える星座も違うってことかしら・・? 北半球と南半球で、星座が違うってのは聞いたあるけど・・・。」
見えてる星々の並びに、まったく見覚えがない。真っ赤に輝く星が二つ並んでたり、黄色と青の星が五つ、円環状に並んでたりと、結構目立つ特徴があるのに。そもそも、星の密度の濃い帯状の部分、いわゆる天の川というやつがどーんと横たわってるわけだけれど、それが二本、夜空で交錯してる。
「天の川って、あんな見え方したっけ・・・。」
織姫と彦星は天の川に逢瀬を阻まれた。だからというんじゃないけれど、
「どうか、明日こそ捜索隊の人達に見つけてもらえますように。」
二人の逢瀬にかける思いの強さへすがるように、私は天の川へ祈ってみた。
「ん・・・。」
まぶしい。朝・・・。
いつもと違う感覚に、私は目を醒ました。違う感覚。ゆらゆらと揺れる、不安定な水の上とは思えないほど、どっしりと動かない今日の冷蔵庫だ。まるで、硬い陸地の上にあるような・・・。おまけに、いつになくはっきりと聞こえる潮騒の音。
「!」
私は、冷蔵庫の扉を跳ね上げるように開けた。
「ああ・・!」
驚きと安堵、明日への希望に満ち足りた一声を私は上げていた。
陸だ。どこかの海岸へ流れ着いたんだ。私が骸骨になる前に、だ。
私は冷蔵庫から身を乗り出すと、浅瀬に飛び降りた。しぶきを上げる海。硬く微動だにしない陸の感触。私は砂浜まで駆け入って、そのまま大の字に突っ伏した。
「よかった・・・! 助かったぁぁ。」
陸地の感触がこれほど心強いものなんて。陸と結婚してもいい。私は本気でそう思った。
昇り始めた朝日で温められた、真っ白な砂の肌触りを十分に堪能してから、私は身体を起こした。
「けど、ここどこだろ?」
三日月状に続く砂浜はかなり奥まで続いていて、入り江の先端に、小高い緑の丘がかろうじてかすんで見える。早朝の浜辺だし、近所の人が散歩しててもおかしくない天気なのに、人影はまったくなかった。
「まさか、無人島、なんてオチじゃないよね・・・。」
ここがもし無人島だとしたら、いつ沈むか分からない海の上よりマシだとはいえ、私は全然助かっていないことになる。
冷蔵庫に残った食料に、まだお世話になるかも・・・。さすがにチキンナゲットはもう飽きてきたんだけど、背に腹はかえられないってやつよね。
私は冷蔵庫を砂浜の方へ引っ張って、私の力じゃ、それ以上どうやっても動かないとこまで持ってきた。知らない間に流されでもしたら、たいへん困る。
それから、とぼとぼと砂浜を歩き始めた。
波の音が響くようにいくつも連なり、浜辺の木々を揺らす海風が心地よかった。
「かなり大きそうな島よね。これなら、人が住んでないなんてこと、なさそう。というか、島って決まったわけじゃないし。」
地中海沿岸のどこかの砂浜であれば、道路で車が通りがかるのを待つという手もある。そもそも、絶海の孤島に流れ着くより、大陸の浜辺に行き当たる方が確率として高いわけで、漂流した挙げ句無人島に漂着、なんて発想自体、ロビンソン的と言わざるを得ないでしょーよ。
「無人島とか、ないわよ、絶対。あ。」
ほら、やっぱり。
浜辺のずっと先の方に、人影が見える。今日は良い天気ね、なんて会話をしながらのんびりと歩く、散歩中の老夫婦あたりを私は想像した。
船が沈んで、冷蔵庫に乗って漂流し、この浜辺にたどりついた、って英語でなんて言えばいいんだろ。あれ。そもそも、ここ、英語通じるのかな。
そんなことを考えながら、私は浜辺を行く人影に近づいて行った。
「ん? 散歩中のご夫婦、じゃない・・・?」
目を細めて見ながら、私は違和感を感じた。何か、馬のようなものに乗っている。
「馬に乗って早朝の浜辺を散歩なんて、素敵すぎだけど・・・。」
向こうも私の姿に気付いたみたいだ。その場に足を止めて、こっちを眺めてるようだった。
「・・・?」
頭を寄せて、何かを相談してる素振りを見せたかと思うと、突然、ぱっ、と砂煙を捲きあげて、二つの姿が走り始めた。
「え? え?」
何がなんだか分からないまま、どんどんこっちに駆けてくる。
「何か・・・。」
まずい。
散歩中の老夫婦じゃないのはもう確かで、二人は毛皮みたいな服を着ている。手に持った何かを振りかざしつつ走るその姿は、のどかな浜辺の雰囲気にまったく似合わない。押し寄せてくるプレッシャーは、戦闘意欲満々といった風だ。
じり、と一歩後ずさりながら、相手の一人と目が合う。外国の人なんだけれど、その目を見た瞬間、直感した。
襲われる。
どんな意図で、とか、何の理由で、なんて分からないけれど、少なくともフレンドリーな応対は期待できそうもなかった。つかまったらやばい。とにかくやばい。
「に、逃げにゃきゃ・・!」
呂律も回らず私は周囲を見回して、目に入った海岸沿いの林に向かって走り始めた。砂が足を取って走りにくい。駆り立てるような運命への焦りが、私の背中をぐいぐいと押してくる。




