伝説のウソツキは伝説のドロボウの始まり
思わずぽかんと開いてしまった口の奥で、喉が急速に乾いていくのを感じた。
片方の男は、アイズマールとビジューをしていたときに一緒だった黒いバンダナの男だ。
もうひとりのでくの坊も、あの時俺と一緒に席についていたオーガに違いない。
どちらも逮捕されれば、永久に監獄から出てこられない身分であるはずだった。
なのに、どうしてこんな所にいる。
どうして1ヶ月足らずで出てきているんだ。
おい、憲兵ども。
いったい何をやってるんだ?
「ああ……わかった、気を付ける」
どうやら、連中は俺の事に興味がない様子だった。
近くにアイズマールの姿は見当たらない。
俺もアイズマールのカード仲間の1人なので、アイズマールが近くにいない今、下手に手を出せないのかもしれない。
ひょっとすると、見逃してくれようとしているのか。
とにかく、もうこれ以上関わりあうべき相手ではない。
俺は道の端に下がって、連中のために道を開けてやった。
動揺を表情に出さなかったのは、俺が常日ごろ培ってきた演技力のたまものだった。
むやみに相手を刺激しないよう、あくまで自然に目を合わせたまま、少しずつ距離を開けていく。
相手の神経を逆なでしないよう、自然な態度と表情を心がけた。
2人の男達の首は俺の動きを追い続け、風景の180度回転してゆく流れに逆らって、ぴたりと俺に向けられていた。
このまま連中の横を通り過ぎれば、逃げ切れる。
ここで慌てて目を逸らしてしまえば、俺の方になにか後ろめたい事があるのではないかと相手に気づかれてしまう。
そうでなくとも、びくびく怯えているそぶりを見せてしまえば、治療費をよこせだのなんだのとしつこく絡まれてしまう恐れがある。
なので俺は、ずっと目を逸らさなかった。
果たして正解だったようだ。
連中もどうやら俺の事を警戒して、俺と適度な距離を保とうとしているらしかった。
バンダナの男は、ちっと舌打ちをして、苛立たしそうに先へ進んだ。
俺もようやく安堵して、ゆっくりと顔を背けたそのとき。
オーガがバケツの入りそうなほど大きな口を開いた。
「あれ? お前、前にどこかで会わなかったか?」
「あ、そういや……」
ちくしょう、俺の顔を忘れてただけだった。
やばい、俺は一目散にその場から逃げ出した。
アイズマール一家の二大悪党は、コートの端に風をはらませながら、蒸気を上げる列車のように猛然と俺の後を追ってきた。
「おい、この野郎、待ちやがれッ!」
「なんでお前がバーリャにやってきてやがるんだッ! 待てッ!」
くそ、英雄の剣がなんだ!
戦友との約束がなんだ!
人生最後の賭けがなんだ……!
なにがロマンだ、バカバカしい!
土産話が本物か偽物かなんて、受け取るがわにとっては、どうでもいい話だろうが!
得意の詐称能力で、あいつらの喜ぶ話ぐらい、いくらでも量産してやればいいじゃないか!
なにを余計な事にこだわってたんだ俺は!
まったく、つくづくとんでもない場所に来てしまったもんだぜ。
バーリャの地獄ぶりといったら、死んだはずの悪人にまで出くわす始末だ。
こんな馬鹿らしいことはさっさと止めにして、中部に戻って、まともに仕事を探すんだ……!
俺は半ば自棄気味になりながら、「無許可での路上販売、物品の取引を禁ず」の看板がぽつんと立った線路沿いを駆け抜けていった。
そのとき、まるで俺の気持ちを汲んだかのように、東行きの列車が蒸気を上げて駅に入っていった。
チャンスだ。
なんとかあれに乗って、この国を離脱しよう。
駅前は、それに乗ろうとする雑多な人種でひしめき合っている。
俺は駅舎に流れ込んでゆく人ごみの中に紛れ、背の高いイリオーノたちの行列を右に左に縫うように進んでいった。
まるでお祭りの仮装行列みたいな一行があったので、その間の僅かな隙間を見つけて潜り抜けた。
「ちくしょう!」
追っ手は、猪頭の巨大なイリオーノに行く手を阻まれて立ち往生し、大声で何かを喚いていた。
気がつくと、どっと汗をかいていた。
バーリャに来てからというもの、走ってばかりのような気がする。
なんとか連中を振り切ることに成功した俺は、そのまま切符の販売所まで直行した。
「いま来てる列車、どこへ行くの?」
俺が話しかけた駅員は、魔族の女特有の白い肌をしていた。
外見はアーディオとほとんど変わらないが、背がでかい。
まるで石灰みたいな白い肌が、ルーシーンの姿を髣髴とさせた。
「午後1時発、イーサファルト王国《白竜の門》直通です。お乗りですか?」
ああ、よりによって直通便か。
国境越えの列車には、関税があるから、出発までやたらと時間を食うんだ。
だが、ただでさえ便数の少ない西部の貴重な一便だった。
この際背に腹は抱えられない。
「すぐに乗る」
「右手奥の12番乗り場へどうぞ」
俺は、故郷に戻るチケットを手に入れると、二度と離さないよう、力強く握りしめた。
奥に行くにつれて、さらに混雑してゆく人混みの中を、アレルカンのケースを抱えながら急いだ。
フェルスナーダの駅は、とてつもない広さだ。
あきれ返るほど天井の高い建物の内部に、真っ白な列柱が地平線まで続いていた。
列柱の向こうに見える乗り場は、錆びた鉄の柵に囲まれており、乗り場に行くための門にはそれぞれ衛兵が二人ずつで番をしていて、乗客の切符や荷物を細かく入念にチェックしていた。
税関の前には、酔いそうなぐらいの人数がぞろぞろと列をなしていて、どこの列に並んでも同じくらい長く待たされそうだった。
大柄なイリオーノがかさばっているせいか、それとも便数が少なすぎるせいなのか。
ミッドスフィアの通勤ラッシュにも引けを取らないぐらいに混雑している。
この人ごみの中でじっとしているぶんには、俺の姿はなかなか見つかられないだろう。
こっちの方からあの2人組の姿を見つけることも困難だった。
他に不安要素があるとすれば、いったいいつまで待たなければならないのか、という事だった。
関税の列は、1人1人を入念にチェックをしているため、気を揉むほど流れが遅かった。
切符を買ったときみたいに、割り込みをしてゆきたかったが、ここではそうはいかない。
列柱のそばに革の鎧を着た警備兵が配置されていて、背後から俺たち乗客の動きを監視していたからだ。
本当は、割り込みついでにこのアレルカンをどうにか隠したかったのだが。
イーサファルトは国内の産業を保護するために、武器や金属類の輸入を厳しく制限していた。
お陰で、イーサファルトに入る際には、装備一式を持っていくだけで結構な額の税金を取られてしまうのだった。
常しえの河は金やダイヤモンドがごろごろと出てくるらしいので、バーリャ地方からの旅行者は、特に厳しい検閲を強いられていると聞いた事がある。
くそっ、まだか。
まだかかるのか。
まったく、忌々しい連中だ。
こんなでかい革のケースを抱えて突っ立っていたら、俺が連中に見つかるのも時間の問題じゃないか。
さっきから、背後の柱の警備員が俺の方をちらちらと見ているのも、こんなデカいケースを持っている俺がいかにも怪しいからなんだろう。
密輸品を入れるのなら、もってこいの大きさだ。
ナメクジのように緩やかに進んでいた税関の列は、あるとき少しも進まなくなってしまった。
一番先頭を見ると、まだ若いアーディオのガキが関税にまごついている。
その背には俺が持っているのと同じ、大きな黒い革のケースを背負っていた。
「だめだ、何度も言っているだろう。関税の支払いが完了されない荷物は乗せられない」
「なんとかならないの? ちゃんと大使館で免税符も貰っているんだよ?」
まだ声変わりもしていないような、高い声で訴えながら、少年は必死に何かの書付を見せていた。
憲兵は、さも面倒そうな態度で返事をしていた。
「この書類に記されているのは銃だけだ。その銃のケースまでは免税に含まれていない」
「そんな、滅茶苦茶だよ。すぐに乗りたいんだ」
「他の便に乗るか、あるいは急いでいるのなら、荷物を大使館にでも預けてくればいい」
「頼むよ、こいつがないとどうしても困るんだ」
ああ、イライラする。
まったく最近の若い奴は、なんて年寄り臭い意見を言ってしまいたくなる。
なんだか昔の自分の姿を、後ろから観察しているような、そんな不思議な気分だった。
この若造は銃1本を携えて、これから一体どこへ向かおうとしているのだろう。
彼の行く先には、俺が経験したような様々な困難が待ち構えているに違いない。
だが、俺は決してお前の成功を祈ったりしない。
なんせこれからは、同じ社会でしのぎを削り合うライバルになるんだからな。
なにか俺からアドバイスを送るとすれば、そうだな、せいぜい他人に足元をすくわれないよう気をつけることだ。
あと、食べ物には気をつけろ。
東部の食べ物はやばいぞ、今はほとんどの食品が製造過程のどこかに魔法を使っている時代だからな。
闇の魔石で残留魔法を払ってからじゃないと、恐くて食べられたもんじゃないぞ。
あらかじめ野菜庫に闇の魔石を入れておくのも手だ。
コンビニ弁当なんかは完全にゼロから魔法だけで生み出しているようなのもあるからな。
絶対に油断するんじゃないぞ。
運悪く残留魔法に当たって鼻がネズミのそれになってしまった時の事を思い出した俺は、しばし憂鬱な気分に浸っていた。
そういえば、あれから俺のあだ名はしばらくミッキーになったんだ。
同じギルドにいた変わり者の先輩につけられたんだが、なぜミッキーなのかは未だによくわからない。
ふと振り向くと、列柱の向こうに怪しい人影が見えた。
関税の列に並んでいる人々を、じろじろと無遠慮に眺め回しながら歩いている。
やばい。
あいつらだ。
逃げ出すタイミングを失った俺は、どうにも隠せそうに無いケースを隠そうと、体で抱えこんだ。
そんな、ただでさえ絶望的な状況の中で、さらに悲劇は起こった。
「おい、早くしろ、こっちは急いでるんだぞ!」
やがて俺の目の前の男が、列の前方に向かって大声で野次を飛ばし始めた。
男は周囲の注目をひきつけながら、ガンガン騒ぎ立てた。
おい、頼むから、そういうのは俺から少し離れたところでやってくれ。
「朝から延々と並ばせやがって、おたくら新政府軍は、いちいち仕事に時間がかかりすぎなんだよ! こんなに待ってる連中が居るのがわかんねぇのか、いい加減にしろよ、まったく!」
男は不満げに最後の一声をあげて、列に戻っていった。
ようやく騒ぎがおさまって、ふう、と息をついた途端。
不意に俺の右肩に、ぽんと手が置かれた。
その時の俺の驚愕度合いといったらなかった。
とつぜん駅の床が割れて地下世界への扉が開き、大穴に飲み込まれながら入り乱れる群衆の中で、俺という個性までもが一瞬にして崩れ去ってしまったかのような、そんな想像を絶する破滅感さえ伴った、とにかく生きた心地のしない凄まじい驚愕であった。
俺はろくに振り返ることもできなかった。
豪雨に立ち向かうブロンズ像のように厳しい目をして、ただその場に凍りついていた。
ほてった耳に、黒バンダナの暗黒の世界と直結した口から、人の不幸などなんとも思っていないような冷たい言葉が吹きかけられるような気がした。
「よう、会いたかったぜ、リゲルの旦那」
次に、反対の耳に吹きかけられるのは、でくの坊の人を小ばかにしたようなだみ声だ。
あいつは教養がないから、きっと暴力的な脅しをかけてくるに違いない。
「おとなしくしていないと、中指の腹で人差し指の爪を撫でられる形にしてやるぜ、げっへっへ」
なに、中指の腹で人差し指の爪を撫でる、だと……?
普通にできるじゃないか。
くそう、騙された。
そして連中は、俺の両脇をがっちりと抱えたまま、どこかへ連れて行く。
俺は両足をだらりと伸ばした格好で、関税を口惜しく見つめながら引きずられていった。
立派に職務を果たしている兵士達は、こっちの様子をちらりと見やっただけで、また通常の職務に戻っていく。
ああ、そういやアイズマールには、この件には間違っても首を出すなと命令されていたっけな。
かなりマジに言われたっけ。
こりゃ、どんな言い訳をしたところで無駄だろう。
こっそり裏口から外に連行されたら、その後はどうなるか。
考えただけでも身の毛がよだった。
――そういった最悪の事態が、一瞬のうちに俺の脳裏をよぎっていた。
だが、ふるえている俺に掛けられたのは、そのどちらの声でもなかった。
上質の、綿のような、柔らかい布だった。
頭からすっぽりと布を被せられた俺は、いったい何が起こったのか理解できず、幽霊に怯える子供のようにそっと目を向けた。
そこにいたのは、俺に被せられたのと同じ薄い布を頭から被った、見知らぬ少女だった。
厚手のローブを身につけていて体格は分からないが、背はアーディオとしてはかなり高い方だ。
男の俺と目線の高さはほとんど変わらなかった。
ぽかんとしている俺の目の前で、少女はほっそりとした人差し指をまっすぐ立てて、ふっくらした自分の唇にあてがった。
俺は、はっと気づいて布を顔に引き寄せ、肩から上を連中から隠そうとした。
そうか、こうして並んでいれば、背後から少し見ただけなら姉妹の旅人のように見える……かも知れない。
連中がいくら間抜けでも、こんなデカい銃のケースを見たら、俺だと気づくはずだ。
「俺に手を貸したことが連中にばれたら、どうなるか分かっているのか?」
俺は、なるべく少女と目を合わせないように言った。
隣の少女は背筋が寒くなるような、落ち着いた態度で言った。
「はい、知っています」
さらに、彼女は小さな巾着を両手に提げたまま前に進み出て、俺の隣に並んで立った。
やけに細い腕をしていて、小さな巾着がひどく重そうに見える。
しかし、えらく肝の据わった女だという印象を受けた。
もしも兵役経験があるとすれば、魔法兵タイプだろう。
同じ軍人仲間だったら、できればもう少し落ち着いたところで話をしてみたかったものだが、そういう訳にもいかない状況だった。
俺は真面目な顔で、彼女に忠告した。
「やめときな、田舎のゴロツキと一緒にしていると、命がないぞ。あいつらはアイズマール一家だ。アミ・サール(=ミッドスフィア)の賞金稼ぎギルドでさえ恐れて手を出さない、東部屈指のマフィアの仲間だぞ」
そんな俺の脅しをかけるような忠告に対しても、彼女は即座に返答をした。
「はい、知っていますとも。アイズマール一家は元をたどれば、王政時代に東部のカムナトロフィカ湾港近隣を荒らしまわっていた海賊団の末裔です。7600年ごろ、パン=ゼペルカ公国から東地中海の他の海賊を拿捕する事を条件に海賊行為を許可され、デル(ナイト)の称号を得ました。いまでこそ表向きはマフィアですが、裏では王族とのつながりが太く、市民革命後もその王族の末裔を後ろ盾に、裏の世界に君臨し続けているのです」
俺は、もう一度彼女の目を覗き込みたい衝動に駆られた。
彼女が俺みたいな天性の詐欺師じゃないとしたら、いったいどんな女なんだ。
横目で見ても、布の下からのぞく白い頬と、落ち着いて話し続ける唇しか見えなかった。
「彼らもあなたと同じで、今は『剣』を捜すことに必死なようです。いまは私のような通りすがりの者にまで、気を使っているような暇はないでしょう」
「剣を……剣って、あの剣か」
「はい、その剣のことです」
俺は、自分が抱えているケースを見やった。
ちょっと見ただけでは何が入っているか分からない、銃のケースを見て、俺ははっと気づいた。
そうか。
あいつら、俺がこのケースに何を入れているか分からないんだ。
ひょっとすると、俺が黄金の剣を横取りしてしまったのかもしれないと勘違いしているんだ。
ちくしょう、それは俺の事を必死で探すはずだ。
見つかるまで、ぜったいに諦めないだろう。
なんせアイズマールのことだ、仕事をする前に不安要素なんて残そうものなら、文字通り首が飛ぶ。
少女は、ひどく落ち着いた様子で顔を上げた。
「もう顔を上げて大丈夫ですよ」
警戒を怠っている、とも思えるような大きさの声だった。
恐る恐る辺りを見渡すと、プラットフォームには関税を待つ人の列が続いているだけで、あの2人組の姿は消えてしまった。
ありきたりなセリフだと思ったが、この状況で聞かない訳にはいかないだろう。
「あんたは、一体何者なんだ?」
自分から名乗る事を失念してしまったが、相手は超然とした態度でそれに答えた。
「あなた達とよく似た者。ですが、あなた達より少し良い耳を持つ者です」
「サテモ(森の人、中部の方言で『エルフ』の意)か?」
落ち着いてよく見ると、この少女は俺たちアーディオとは、少し違う雰囲気をかもしていた。
肩までかぶった白いヴェールの向こうに、尖った耳が透けて見える。
頬にはちゃんと血が通い、白磁のような肌の魔族とは雰囲気が違う。
間違いない、こいつは北部の森の妖精サテモだ。
さすが西部だぜ、まさか、駅の雑踏で森の妖精に出くわすとは。
何もかもが常識のスケールを外れている。
「そうか、あんたもあいつらと同じで、剣を探しているクチなのか?」
「いいえ、ここから遥か東に行く旅の途中です」
と、サテモ。
「もしも、アイズマールの一党がこの駅で騒ぎを起こせば、兵士がしばらくの間、列車の出発を止めてしまう恐れがあります。私は先を急いでいますから、できればそれは避けたいのです」
なるほど。
本で読んだとおり、サテモは完璧な合理主義者のようだ。
光の精霊ピサから良い耳を受け継いだ森の妖精は、遥か遠くの音を聞きわけて森全体の出来事を知ることができるという。
その能力によって、アーディナル北部の森林を何千年も管理してきた。
こんな偶然のめぐり合わせでもない限り、俺に助けの手を差し伸べる事はなかっただろう。
やれやれ、喜んでいいのかどうか分からないな。
そんな事を思っていると、彼女はさらに続けて言った。
「ですが、剣のありかならもうすでに知っています」
「おお――知っているのか?」
「はい、ずっと見ていましたので」
温かい風が、胸の隙間に吹き込まれたような気がした。
俺は強い期待と共に両目を見開いて、サテモの少女を見やった。
ひょっとしたらこのサテモは五年前、開通したばかりの駅にこうして立っていて、あの剣が流された事件の一部始終を、ここで目撃していたのかもしれない。
サテモは滅多に森から出ないらしいが、この世慣れた態度は俺にそんな印象を与えた。
そのとき、サテモが軽く耳を振ったのか、ヴェールが微かに揺れたような気がした。
「戻ってきます。隠れてください」
彼女は、ふたたび押し殺した声に戻って、しかし落ち着き払った様子で言った。
慌てた俺は再びヴェールを手繰り寄せ、身を縮めた。
こんな布切れ1枚でいつまで連中を欺きとおせるかは分からないが、ここは妖精のご加護を信じないほうがバカだろう。
「なあ、このまま通り過ぎてくれると思うか?」
ためしにそう尋ねると、サテモはしばらく考えてから、返事をした。
「さあ、それは貴方の努力次第ではないですか?」
俺は、がっくりと肩を落とした。
どうやら、あまり妖精を過信しすぎるのもだめらしい。
サテモは、さらに無表情なまま言った。
「よしんば、いま私たちに気づかずに後ろを通り過ぎても、貴方を見つけ出すまで、彼らは決して捜索を諦めたりはしないでしょう。なんせ剣を持っているかも知れないのですから」
「よしてくれ、そんな現実的な言葉を浴びせかけないでくれ。いまや妖精の力に頼るしかないこの俺に!」
「おかしな事を言いますね、どうして私に頼るのですか?」
「どうしてだって……?」
俺が泣き言を言うと、サテモは不思議な物を見るように、しばらく俺の顔を注視していた。
ちょうど、お互いの被っているヴェールが重なり合って、その向こうに、作り物でもなかなか真似できないような端正な顔立ちが見えた。
どちらかと言えば女癖の悪い俺だったが、これだけ間近で見ているのに、まるで異性と向かい合っているような気分がしなかった。
年が離れすぎているとか、種族が違うとか、そんなんじゃない。
たぶん、彼女に秘められた強い魔力を感じているせいだ。
サテモからは常に心地良い魔力が放たれていた。
目に見えない花弁が次々と開いてゆくような不思議な高揚感があって、なぜか心が落ち着いた。
サテモは鋭い目をして言った。
「なぜ、あなたは周りの人に助けを求めないのです。ここには私より強い戦士や魔法使いなど、いくらでもいるでしょうに」
まさに正論だったが、俺はぶるぶる、ぶるぶるぶる、と首を横に振って否定した。
「無理だ」
「なぜです」
「俺だったら、絶対に助けないからだ、こんなおっさん」
やっぱり、こいつは単なる森の妖精だ。
人の世というものには疎いらしい。
ここにいる誰だって、見ず知らずの他人のために、あんなガラの悪い連中と関わり合いになるのはごめんなはずだ。
しかも俺みたいな、たいして金持ちそうでもない、うす汚れた身なりの、バーリャ平原からついさっき帰ってきました、みたいな男を助けることに、一体なんの益が……。
いや、まてよ。
俺は、自分の抱えている革のケースを見て、ふと、いいアイデアを思い立った。
少女のほうを見ると、軽く首を傾げたサテモの顔が目に入った。
目つきは少々きつくて、とっつきにくそうな雰囲気がある。
だが、こうやって不思議そうに考え込んでいるところなんか、なかなか愛嬌があるじゃないか。
そして俺は、柱の間で俺たちを監視している警備兵達を振り返った。
どうやら、連中はあまり職務に熱が入っているという様子ではない。
中にはおしゃべりをしたり、柱にもたれかかって欠伸をしている奴もいた。
すぐ近くをあんな怪しい悪党どもがうろついているっていうのに。
まったく警戒する様子もないのか。
呑気なものである。
これはある種の賭けだったが、このまま試さないでいる手はない。
俺はサテモに向き直って言った。
「そうだ、あそこの警備兵に、『不審な人物に付きまとわれて恐いので逮捕して欲しい』と訴えてきてくれないか?」
少女は、目を大きくしたかと思ったら、すぐに細くして、不審そうに俺の顔を眺めていた。
「なぜです?」
「俺が言ったところで、まともに取り次いでくれるかよ。10歩ぐらいその辺を歩いて異常なしで終わりだぜ。そこへ来て、お前みたいな見目麗しい少女が訴えてきたらどうだ、連中の熱の入りようが違うだろ?」
少女は、ますます目を細めた。
他の連中に助けを求めろという自分のアイデアが一蹴されて不満なのが、ひしひしと伝わってきた。
うむ、実に心地よい眼だ。
「お前はお前で、連中に騒ぎを起こして欲しくないんだろ? 頼む、だったらここは俺に協力してくれないか。頼れる奴はお前しかいないんだ。ここは、俺とお前で、手を組んで乗り切ろう」
「……確かに、その方が安全かもしれませんね」
「助かる! ああそうだ、ついでに、次の発車時刻も聞いておいてくれよ」
少女は、聞いていたのかいなかったのか。
いや、たぶん耳がいいから全部聞こえていたはずだろう、巾着を抱えたまま、警備兵の方にてくてくと歩いていった。
柱にもたれかかっていた警備兵達は、近づいてくる美少女の気配に気づいて、さっと姿勢を正していた。
やっぱり頼りがいのない連中だ、少女と話をしている間じゅう、頬がゆるみっぱなしだった。
俺は、警備兵たちが少女と話し込んでいる様子を、じっと見守った。
ちらり、と列の前方を見やると、問題のゲートの前では、まださっきの迷惑な若者が兵士と悶着を続けている。
「よし、いまだ」
警備の目が、完全に俺から逸れていた。
俺はアレルカンの入ったケースを握り締め、一気にその門目指して駆け出していった。
「なによ、あんた!」
「おい、列に戻れ!」
ただでさえ進まない列に辟易していた連中から、非難めいた声が飛んできたが、いちいち気にしてなんかいられるか。
俺はペテン師の演技力を発揮し、たった今、バーリャ平原の過酷な旅から帰還してきたかのように息を荒くし、体の節々を痛めているかのように辛そうな走りを心がけ、いかにも苦しそうな枯れ声を出した。
「ま、まて、ぜはー、ぜはー、お、俺の方が……さ、先だっ! うおっ!」
ふらふらと前のめりになりながら、税関の兵士に呼びかけた瞬間。
足がもつれて前につんのめり、若造に背後からタックルをかました。
「へっ? ……うっぎゃあぁぁぁ!」
若造は、大げさな悲鳴を上げて倒れ、俺と並んで通路脇に転がった。
俺は、飛んでいった革のケースを慌てて探す振りをして、その間にちらりと若造を見やった。
若造はわき腹を押さえて、倒れたまま悶絶し、しばらく立ち上がろうとしなかった。
ふん、人体急所のひとつ、みぞおちに肘を入れてやった。
当分の間、呼吸すら難しいだろう。
俺は苦悶の表情を浮かべて、精一杯立ち上がると、有無を言わさず検査台の上にどんとケースを置いた。
「悪いが、こっちを先にしてくれないか! 私は(元)イーサファルト王国第三師団第八十八歩兵連隊所属、リゲル=シーライトという者だ!」
あっけに取られていた税関の兵士達も、中部最強のイーサファルト王国師団の名を出すと、はっと我に返ったように姿勢を正した。
「じ、自分は、フェルスナーダ新政府軍第一師団、第四憲兵連隊所属、ヴォルク=カン巡査であります!」
「同じく、フェルスナーダ新政府軍第一師団、第四憲兵連隊所属、ヒ=タイチであります!」
ふむ、なかなか気持ちのいい返事だ。
ミッドスフィアではこんなもの、乞食の日々の糧になっているような肩書きでしかないけどな。
だが、中部の影響力が強いこの辺りでは、まだまだ俺の軍人としての経歴が十分に通用するらしい。
俺は、突然胸の辺りに走った激しい痛みを堪え、一瞬顔をゆがめた。
「ぐ、ぐううっ! む、胸が……!」
「大丈夫ですか!」
兵士達は血相を変えて、俺の体を支えた。
よし、いける。俺の演技を疑っている様子は微塵もない。
こいつらなら、俺の言いなりにすることも可能なはずだ。
勝負に出るなら、今しかない。
俺は今にも死にそうな顔をして、革のケースを叩いて訴えた。
「触るなぁッ! 私の、ことは……げふっ、どうでもいい。それより、私はとある極秘任務(笑)の途中、偶然にもバーリャで失われた『例の物(笑)』を見つけてしまったのだ!」
「え…………えええええっ!」
兵士達は、俺の衝撃的な告白に、そろえて大きく目を見開いた。
「早く、ここを通すんだ! 私はイーサファルト王国軍法第四条第十三項に相当する、国家的な使命(無用な戦闘の回避・および逃走の義務)に基づき、直ちにこいつをミッドスフィアの軍本部に届けなくてはならないのだッ!」
俺は、銃の入った革のケースをばんばんと叩いて兵士たちを急かした。
フェルスナーダの兵士達は驚きのあまり、まごつき、どうしたらいいのか戸惑っている様子だった。
割り込まれた若造は、ようやく呼吸ができるようになったらしい、みぞおちを押さえたまま、ぽかんと口を開いて、俺たちのやり取りを眺めていた。
「いいから、早く通せ! 事によってはお前らのクビなど軽く飛ぶぞ! 末端のお前たちは知らんのかもしれんが、これはイーサファルト王国師団の行く末を左右する重大な――」
「ど、ど、ど、どうぞ、お急ぎください!」
「ありがとうッ! 大いに感謝するッ!」
俺がもう一言念を押そうとすると、彼等はすばやく道を開けた。
ふう、よかった。
間抜けな兵士達でよかったぜ。
とっとと列車に乗もう。
俺は革のケースを提げ、難なく税関を突破したのだった。
背後から何か大きな声が聞こえた気がして、振り向くと、列に並んで待っていた連中から、俺に向かって盛大なブーイングが浴びせかけられていた。
どいつもこいつも手で不満を表していたが、顔がにやついていた。
たったひとり、何が起こったか分からない様子の若造だけが、ぽかんとした表情で突っ立っている。
やっぱり俺の天職はサギ師かイカサマ師だろう。
賞金稼ぎの後は、いずれかになりそうだ。
門を潜った辺りで一度振り向き、アイズマールの部下たちがまだ来ていないことを確認するついでに、彼等に向かって軽く手をふってやった。
じゃあな。
良い旅をしろよ。
しかし、驚くほど簡単だったな。
公共施設のセキュリティがこんなに簡単に突破できていいものだろうか。
自分で騙しといてなんだが、ここの危機管理が少し心配になってきたぞ。
俺は、警備兵に先導されるまま、すでに数名の乗客たちが乗り込んでいる列車へと向かっていった。
「お急ぎください、四番乗り場に、すでに専用車両を待機させております!」
「うむ、分かった」
四番乗り場に……ん? あれ、なんだって?
聞き返す間もなく、俺は乗りたかったイーサファルト行きの列車をあっさり通り過ぎ、陸橋を渡って、広々とした乗り場のさらに奥へと向かった。
そのとき、俺は見てしまった。
乗り場の奥にもう1台。
明らかにその『専用車両』と思しき、雄々しく黒光りする重装甲の列車が待ち構えていたのを。
俺は、ぽかんと開いてしまった口を何とか元に戻そうと努めた。
各車両の横についているのは、巨大な浮力管。
車輪のような紋章を描き、すでに魔力が全体に通って、青白い炎を放っていた。
先頭車両の機関部分からは、炉から発せられる熱気のようなびりびりくる凄まじい魔力がほとばしっている。
発車する準備は、すでに整っていた。
俺は自分がとんでもない嘘をついてしまった事に、今さらながら気がついた。
まさか、そんな、ありえない。
なんてことだ、こいつは、軍が特別なときに利用する『軍事専用車両』だ。
俺は、何度も自分の間の悪さを呪った。
こんな列車が来ているタイミングで、こんな嘘をついてしまうなんて!
軍の関係者のみが利用する事を許された専用車両のドアから、何者かが姿を現した。
四角い顔に白い顎髭を生やした、いかめしい老人が顔をのぞかせ、タラップの上に立った。
一瞬、車掌さんか? と思ったが、襟に飾られた勲章の数はゆうに2桁に達しており、額には生々しい向こう傷が刻まれている。
その姿は、数年しか軍に在籍していなかった俺ですら軍隊式の敬礼を行いそうになるほどの威光を放っていた。
どうやら俺なんかとは比べものにならない、ハイランクの軍人だ。
車掌は、俺の到着をどれほど待ち望んでいたのだろうか。
満面の笑みを浮かべて、声高にこう言った。
「君か! 西部の魔境から、英雄の剣を持ち帰った勇士というのは!」
なに、いったい何のことだ、いったいどういう事だ。
頭の中がしびれて、何がどうおかしいのかの判断ができなかった。
いつ、俺のさっきのウソが車掌にまで伝わったんだ?
分かるのは、とにかく、車掌は妖精じみた耳のはやさだということぐらいだった。
車掌の乗る列車は、警護している兵士達の数も、半端ではなかった。
完全武装した兵士達が、一個中隊じゃききそうにない、大隊か、下手をすれば一個連体ぐらいの数で乗り場を埋め尽くしている。
俺はいつの間にか、そいつらに辺りを完全に包囲されていて、その場から逃げ出すことさえままならなかった。
車掌が脇に従えていた兵士、それもエカ神みたいな最高級の甲冑に身を包んだ上位兵が手で指示を出すと、彼等は機械のように敬礼を解き、鉄の鎧の擦れる音が、スダダダダッとマシンガンのように乗り場に響きわたった。
俺は革のケースを抱えこんだまま、なんとか気を失わずにそこに立っているのがやっとだった。
知らないところで、どんどん話がでかくなっているような気がする。
もう笑えるような冗談じゃなくなってしまった。
車掌だけがひとり上機嫌で、にこやかな笑顔を絶やさなかった。
おい、これ……一体どうなってしまうんだ。
どうする、リゲル。
(続きます。)