大自然は獣にも、人にも、そしてそのどちらでもない者にも、等しく厳しい
バーリャ平原に挑戦する前の俺には、多少なりとも勝算があった。
アイズマールに一瞬だけ見せて貰った、あの古地図には、列車が発見された場所以外にも、同じ色でいくつかマークがつけられていた。
多少の魔法もかかっていたし、恐らく以前、誰かがバーリャの剣を探索するときに実際使っていたものと考えて、間違いないだろう。
マークがつけられているのは、すべて大陸横断鉄道よりも南側の一帯だった。
それらは、地図を使っていた捜索者が目当てをつけた場所だったり、すでに捜索を終えた場所だと考えていい。
だが、アイズマールの言っていたあの新しい証言。
「唯一の生き残りの使者が黄金の剣を持って平原を歩いていた」
という目撃証言から考えれば、その使者は黄金の剣を、後からやってくる捜索者に決して見つからないよう、隠そうとしたはずだ。
そして、その使者は東部に戻ってきて、同時にこう証言している。
「黄金の剣は鉄砲水によって流された」
鉄砲水は、決まって平原の北から南に向かって流れる。
つまり、大陸横断鉄道の南側に流されたと、ウソの証言をしたのだ。
ならば、とうぜん俺たちが探すべきは、鉄道の北側だった。
それも、鉄道からさほど離れていない場所になるはずだ。
後になって自分で取りに行けるよう、線路の横木の本数や、そこから見える目印のようなものが必要だからだ。
この平原で、ゆいいつ動かない目印といえば、西端の『動かざる岩山』にほぼ限定されてくる。
大陸横断鉄道と、『動かざる岩山』。
この2つの目印の交点に、なにか手がかりがあるはずだ。
俺はザクセンから西に向かって歩き続け、雲までとどく壁みたいな『動かざる岩山』を遠目に見つつ、怪しい場所で地面に手をかざしていった。
俺の魔力感知センサーは、使用の制限もなく、使い放題だった。
聞くところによると、黄金の剣は凄まじい魔力を持った魔剣だった、と聞く。
地中深くに埋まっていても、俺の能力を使えば、探し当てることができるはずだ。
チャンスは、アイズマール一家が逮捕されている今しかない。
奴が俺と一緒に投獄されてから、もう2ヶ月が経過している。
はやいとこ見つけて、こんな平原とはおさらばしたかった。
地道な捜索を始めて、三日目だった。
そのとき、ちょうど空と荒野の境目から、二足歩行の毛深い牛どもが近づいてきているのに気づいた。
シカの頭蓋骨を先端に取り付けた杖を、上げたり下げたりしながら、もーももー、もーももー、もーももーもーももー、と、愉快な雄たけびをあげている。
連中がバーリャの原住民、イリオーノだというのは、遠目からでもすぐに見分けがついた。
あんまり愉快なダンスだったので、最初は名も無き偏狭の部族たちが、バーリャに足を踏み入れたばかりの異邦人の俺を歓迎してくれているんだろう、と想像した。
だが、どうやら『歓迎』の意味が違ったらしい。
このとき連中は、俺の血肉で喉の渇きを癒そうと、死に物狂いで追いかけてきているらしかったのだ。
そうとは知らず、俺はぴょんぴょんと跳びはねる数十頭の牛頭どもに、まんまと取り囲まれてしまっていた。
俺はすっかり客人気分でのんびりしていて、まさに危機一髪だった。
そのまま全員でタイミングを合わせて押さえ込まれていたら、今頃はどうなっていたかわからない。
だが、幸運な事に、渇きに耐え切れずにフライングしてきた奴が一頭いた。
俺はそいつを銃のケースで打ちのめし、すぐさまアレルカンを引き抜いて周囲に乱射した。
連中がひるんでいる隙に、牛臭いその包囲網から脱出してきたのだった。
そして、連中はその時から執拗に俺を追跡しはじめた。
俺の血の量なんてたかが知れているだろうのに、とてつもない執念めいたものを感じた。
昼も夜も、うかうかと休めない。
俺は相手にするだけ無駄だと自分に言い聞かせて、歩き続けていた。
イリオーノは、多少銃で撃たれても平気で前進し続けるほどタフだという。
あんな数をいちいち相手にしていたら、こっちの身が持たないだろう。
もーもーうるさい連中を引きつれながら、歩き続けて居ると、どこからともなく別の群れが合流し始めた。
俺の後をついてくる牛頭の数は、次第に数が膨れ上がって行き、最終的には5000人近い数にまで膨れ上がっていた。
背後からは、大移動する牛たちの声が、もーもーもーもーとひっきりなしにうるさく響き渡っていた。
「牛どもオォォォ! この銃が見えるかアァァァ!」
執拗に俺を追い回してくる牛に辟易した俺は、アレルカンを胸元に引き寄せて連中に照準を合わせ、めいいっぱい声を荒げていた。
「こいつは、世界大戦で東軍のアレルカン師団が開発した、フルオート式二価魔法銃、通称『アレルカン』だッ! ただ鉄の弾をはじき飛ばすだけの従来の単価魔法銃とは、性能が違う! 銃倉に埋め込まれたもう一つの魔石で鉛製の弾を際限なく生み出し、補給し続けるから、半永久的に弾が尽きる事はない! わかるか牛ども、お前らが何千匹束になってかかってこようが、俺に勝てる可能性なんてのは、これっぽっちもないんだよ!」
俺は、入隊時代に座学で習った二価魔法銃の知識をひけらかしてみた。
従軍経験というのは普段の生活でも何かと役に立つものである。
そういえば、その魔石工学の授業では、こういうことも言われていたな。
たとえ質に良し悪しがあっても、この世に純度100パーセントの石というものは存在しない。
なので、一種類の魔石から純粋なひとつの効果だけを取り出すのは、非常に困難であると。
なので、魔石を組み込んだ器機は、長時間使用したり、あまり魔石に負担をかけすぎたりすると、『誤呪』と呼ばれる、設計者の予期していない魔法の副作用が発生し、故障しやすくなるのだ。
魔法銃の場合、引き金が凍結して動かなくなったり、火力を弱くしてしまったり、銃弾を溶かして弾詰まりを起こしてしまったり……などなど。
要するに、魔石を多く使う銃ほど故障しやすく、専用の革のケースに入れて運ぶなど、より丁寧な扱いが必要になってくる、という事だ。
俺のアレルカンを預かってくれていたスメルジャンの手入れを疑っている訳では無い。
あいつももう鍛冶師の親方だし、武器の扱いならじゅうぶん心得ているはずだった。
だが、もう10年も使っていなかった銃なので、できることなら長期的な戦闘は避けたいところである。
俺は、その点をちゃんと踏まえた上で、理性的に牛どもと交渉を進めていたのだった。
「こんなところで争っても、お互いになんのメリットもない! 俺も正直、貴重な時間をこんな無駄なことに浪費したくはないのは分かってくれ! ここは、いったん俺から手を引いた方が建設的だぞ、そうは思わないか! ええっ!」
牛どもは、分厚い毛皮の間から湯気をもうもうと上げ、つぶらな真ん丸い目で俺をじっと見つめていた。
熱中症か、はたまた空腹からか。だんだんと足元がふらつき始めている。
かわいそうに……。
連中は連中で、生きるか死ぬかのギリギリのラインで、俺を追跡しているみたいだ。
――くそっ、やはりあの時「あれ」を見てしまったのが悪かったのか……!
俺は内心、舌打ちをした。
実は、さっき飛び掛ってきた一頭を殴り倒したのだが。
そのとき、はずみで牛の首がすぽんっと外れてしまったのを見てしまったんだ。
いや、俺も驚いたのなんのって。
まさか、殴っただけで、牛の首が取れるとは思いも寄らなかった。
そいつの頭は、熟れた栗の皮を剥くみたいに中身がむき出しになって、毛皮の下に人間そっくりな頭までついていた。
おいおい、獣人ども。
『変身魔法』って、ひょっとしてそういう事かよ?
と、俺は思わずすべてを理解した気になった。
同時に、見てはならないものを見てしまった、という事実にも気づいてしまった。
そこで、長年ダークサイドで生きていた俺は、イカサマ師として培った演技力を総動員した。
自然に視線を明後日の方向にそらし、『何も見てなかった振り』をする事に成功した。
しかし、イーサファルト人の演技力を駆使しても、連中をごまかすことはできなかった。
牛どもは俺をこのまま生きて帰す訳にはいかない、と考えたらしい。
それ以降、この牛どもの群れは執拗なまでに俺を追ってくるのだった。
それにしても、なんで正体を見られただけで、こんなに必死になって俺を追い回すんだろうか。
最初は不思議だったが、連中を背後に引きつれて歩いているうちに、俺にはその理由が次第に分かりはじめていた。
こいつらは全員、本物の獣人じゃない。
獣人の姿を借りて荒野に隠れ住んでいる、ただの『人間』だ。
そう思ってよく見れば、歩き方からして行軍に慣れていないのがよく分かる。
中には子どもらしき背の低いのもいる。
明らかに、荒野での生活に特化した獣人の歩き方ではない。
人間がわざわざ荒野で牛のふりをして生活している理由は、よく分からなかった。
だが、たいした武器も持っていないみたいだし、これでは本物のイリオーノの群れに遭遇したとき、ひとたまりもないはずだ。
だから、強い牛頭の部族に擬態することで、自らの身を守っているのだろう。
それゆえの着ぐるみ、生存戦略だったのだ。
だが、だからって俺がみすみす連中に食われてやる理由にはならない。
この状況下で、通りすがりの流浪の民の行く末がどうとか、そんなぬるい気遣いが一体どれほどの役に立つというのだろうか?
俺はとうとうキレて、空に向かって銃を2、3発ぶっぱなした。
「暑いか! 暑いならもういい加減、その毛皮を脱いだらどうだ! ええっ、偽装牛肉どもっ!」
俺の忠告が奴等に届いたのかどうかは定かではない。
もーもーと喚いていた牛達はぴたりと鳴くのをやめ、広い肩を揺らしながら、のそのそとした動作で左右に部隊を展開し始めた。
すると、やがて、群れの奥にいたリーダーと思しき巨大な一頭が堂々と杖をつき、ゆるゆると前に進み出てくるではないか。
ニセ牛どものリーダーは、見ているだけで暑苦しくなってくるような格好をしていた。
黒々とした毛皮をゆすり、他の連中よりぬきんでて高い所にある牛の頭をぶるぶる振っている。
それにつられて、三つ編みのツインテールみたいな耳もぷるぷる震えた。
さらにその牛の頭は、いったいどういう仕組みなのか、四角い顎が臼のように動いていて、くちゃくちゃと噛み煙草を噛んでいた。
口が動いている。
いったいどうやっているんだろう。
それに、全身を飾っている装飾品は、いずれも魔力を高めるものだった。
どうやらこの部族の中では、魔術師の地位にある人物らしい事が分かった。
杖の先端に取り付けられたレイヨウの頭蓋骨も立派なもので、あらゆる角度からごてごてと角が生えていて、いったい元がどんな生物だったかを予測する事は不可能だ。
ひと目で模造品だと分かってしまうレベルの模造品ではあったが、それでも原始時代の芸術作品に見られるような、ある種のセンスが感じられる。
そうか……こいつらもこいつらで、必死に虚栄を張って生きているんだ。
仲間に見栄を張りたい一心で伝説の剣を探しに来た俺は、思わず感じ入ってしまった。
そういった小賢しい生き方が決して嫌いではない俺は、その半端な滑稽さに、むしろ同情を禁じえなかった。
俺が感傷に浸っていると、リーダーの牛は突然、呪術めいたうめき声を上げた。
「モオオオオオオオゥワオオオオオゥアオオオオオゥワァァァォォォオオオ!」
その、途方もない声のでかさに俺は思わず目を見張った。
空気の振動で、足元の砂までもがびりびりとふるえて音を立て、小魚みたいにぴょんぴょん飛び跳ね出した。
知らなかった、牛の唱える呪文って、こんなにも響くものだったのか。
リーダーは、顎を左右にかくかく動かして、魂の絶叫のような呪文を唱え続けた。
よく見ると、あれは偽物の頭なんかじゃない。
本物の牛の頭だ。
まさか、あいつだけは本物の牛頭のイリオーノなのか?
だとしたら、まずい。
魔法が来る!
俺は、すかさず手のひらをリーダーにかざし、そいつの魔力を読み取ろうと意識を集中させた。
イリオーノが戦闘時に使う魔法のパターンは、大戦時に一緒のパーティを組むことがあって、だいたい把握していた。
あいつらは主に仲間の傷を回復したり、敵の武器を朽ちさせたりする補助魔法が得意なのだ。
魔法学的には第Ⅱ属性『水魔法』に分類される。
魔力も他の民族と比べると、ひやりと冷たい感じがした。
ときおり川を泳ぐ魚が肌に触れたときのような、そんなぴりっとする感触があるはずだ。
俺の指先の目で魔力の流れを感知すれば、どんな魔法を使うつもりなのかが事前に特定できる……。
……はずだったのだが。
俺は思わぬ肩透かしを食らって、目を剥いた。
こいつ、魔力がまったく集中できてないじゃないか!?
もともと魔力が少ないのか。
集中しようとする気さえ感じられない。
これでは、魔法を使うどころの話ではないだろう。
このけたたましい呪文で、魔法を使うのでなければ、いったい何をしようとしているのか。
しかし、俺はうすうす感づいていた。
あのゴテゴテに装飾された、精一杯見栄を張って生きています、という感じの杖を見た時点で、それは一目瞭然だった。
……こいつ、確かに本物の獣人だけど。
獣人の群れの中でも誰にも認められない、落ちこぼれの魔術師だったのだ、と。
そんな折、こいつは自分を唯一認めてくれるニセモノ牛たちと迎合した。
彼らを群れとして従え、いっぱしのリーダーを気取っているのだ。
ペテン師リーダーはニセモノ牛たちを必要とし、ニセモノ牛たちも、ペテン師リーダーを必要としている。
そこには獣人と人間の、お互いに騙し合いながらもお互いを必要としあう、なんとも奇妙な共生関係が築かれていた。
俺は一体、どうすればいいというのだろうか。
その間も、圧倒的な迫力の咆吼が、俺の心を揺さぶり続けていた。
ここで俺が恐れおののいて、魂が抜けたみたいに腰を抜かせば、それで万事が上手く収拾していたのかもしれない。
「もう二度とバーリャには来ませーん」
などと情けない叫びを上げ、
「わっはっは」
と笑い声を上げる連中を尻目に、這うように逃げ出してしまえば。
連中も沽券を守り抜くことができて、満足し、もうそれ以上俺を追って来なくなるかもしれない。
そうだ、きっとこのリーダーの咆吼じみた呪文も、内心そんなおいしい展開を期待して放たれているものに違いない。
なにしろ魔法の使えないポンコツだ。
だが、それは俺のカラーじゃない。
俺はみずから好きこのんで道化役を演じてやるような、気位の安い男ではなかったのである。
どうせ死ぬなら、かっこよく見栄を張って死にたい。
それがイーサファルト人という生き物だ。
俺は、うるさい咆吼に耐え、じっくりとリーダーの様子を観察し続けた。
いったい、この虚勢はどこまで続くのだろうか。
リーダーの呪文は、肺がつぶれそうなほど長時間に及んだ。
どうやら肺活量だけは凄まじいらしく、俺の知っている獣人どもにもひけをとらなかった。
だが、このリーダーはそこまで長く息が続く訳でもなかったようだ。
さりげなく息継ぎをはさんで、再び咆吼するリーダー。
次第に両目がぎらぎらと光り始め、毛の間から滴る汗も勢いを増し、うめき声が次第に苛立つような声に変わっていった。
俺は、銃を構えたまま一瞬たりとも姿勢を崩さず、リーダーがその無駄な呪文を唱え終わるまで待った。
このまま俺が動かなかったら、いったいどんなリアクションを取るのだろうか。
獣人の詐欺師は、この窮地をいったいどんなペテンで乗り切るつもりなのか。
俺の中で知的好奇心がうずいていた。
俺がまったく動じない事に、周りのニセモノ牛たちも動揺し始めていた。
――丁度そのとき。
リーダーは、にわかに杖を両手に持ち、青空に向かって伸びあがり、レイヨウの頭蓋骨つき杖を天空に捧げた。
さらには、口の中の噛み煙草を真上に向かってぶっと吹き、わんわんと耳に響く大絶叫を上げはじめたのだ。
「うをあぎゃぁほぼあわふぁぼえぇぇぇ――――ッ!」
ぎゃぁっ!
俺は驚いて耳を塞ぎ、思わず数歩ひきさがった。
もう言葉に出来ないような奇妙な絶叫だった。
だが、これもただの雄叫び。
魔力はかけらも感じられない。
しかし、その雄叫びをきいた周囲の牛達が、一斉に騒ぎ立て始める。
出た! リーダーの魔法だ! この世の終わりだ!
ニセモノ牛たちは、彼らのリーダーとバーリャの神に対する畏敬の言葉を交互に並べ立て、混乱して逃げ出したり、あるいは地面にひれ伏したりして大騒ぎしていた。
だが、残念なことに、どうも何も起きないみたいだぞ。
赤土の荒原には牛が逃げ惑っている以外、何かが起こりそうな気配はなかった。
やがて、荒原は何も起こらないまま、しーんと静まりかえった。
ああ……やってしまったな。
俺は、空を仰いで立ち尽くすリーダーを見やった。
あいつにいったいどんなカリスマ性があったとしても、明日からは全員に白い目で見られるに違いない。
俺は、いたたまれない気持ちでいっぱいになった。
だが、いたたまれなかったといって、俺は見知らぬ辺境の部族の為に、わざと魔法にかけられたような振りをしてやろうとは思わなかった。
この哀れな部族の、哀れな崩壊の危機に、優しい救いの手を差し伸べてやるような暇が、俺にはなかったのである。
何度も言うようだが、それは俺のカラーじゃない。
だが、そのときバーリャの女神さまが彼等に微笑み、奇跡を起こした。
奇跡だ!
足元の真っ赤な砂塵がさらさらと流れ始めた。
かと思うと、にわかに強烈な砂風が吹き荒れて、砂丘も、魔物の群れも、瞬く間に飲み込んでしまったのである!
それはバーリャ特有の異常気象。
なんの前触れもない砂嵐。
そうか、あの牛頭……!
バーリャの複雑な天候の変化を、動物特有の本能的な勘で察知できるのか……!
それにあわせて、「今!」というタイミングで、魔法を使うふりをするために出てきたんだ!
なるほど、これが獣人のペテン師。
なかなかよくできた詐欺じゃないか……!
濃密な砂嵐のなか、俺は思わず心地よい歓声をあげた。
真っ赤な埃が、目といわず口といわず飛び込んでくる。
嵐はますます激しくなっていく。
これはまずい、まずすぎる。
一気に形勢逆転だった。
前後不覚。
一歩先も見えない状況で、俺は尻のポケットから素早く方位磁針を取り出した。
この方位磁針を片手に、俺は常に部隊の先頭に立って、仲間を引っ張って歩いていた。
前方の敵に睨みを利かせ、後続の兵士達に檄を飛ばしながら、山や谷をものともせずに歩き続け。
そして隣にいる司令官が道を見失って立ち止まったときに、誰よりもすばやく方位磁針を差し出す。
それが俺の得意技だった。
――とにかくここは逃げるしかない。
東だ!
リゲル、東に戻れ!
俺は、銃剣を装着したアレルカンを槍のように構えると、うおおぉ! と吼え散らしながら砂埃の中に飛び込んでいった。
煙の中から、毛むくじゃらの牛頭どもが走馬灯のように次々と現れては消えていった。
分厚い毛皮の下から白い骨のような腕が伸びてきて、俺の耳や腕を引っ掻いてきた。
そいつらを剣でなぎ払い、銃の一撃で吹き飛ばし、肩でタックルして突き飛ばして、強引に道を切り開きながら、俺は前へ、前へと突き進んだ。
そのうち、銃でも剣でも突き崩せない、毛皮の塊のような壁に突き当たってしまった。
なんて巨大さだ、新手の敵か。
と思って身構えたが、どうやらそうではないらしい。
その先で、何百体という牛たちが、将棋倒しになってもがいているらしかった。
ああ……混雑しすぎたな。
そして俺は、またしても見てしまった。
自分の目ざとさを恨んだ。
そうやって何層にも積み重なっているニセモノ牛の中に、またしても牛の首が取れている一頭を発見してしまったのである。
どうやら今度は、背の低い子どもみたいだ。
その『人間』の顔が一瞬、俺の方を向いた。
その瞬間に俺は目が離せなくなった。
どうやらそいつがイリオーノでも、アーディナル人でもないということはすぐに分かった。
長い髪は真っ白で、ウサギのような白っぽい皮膚に、青い血管がうっすらと浮かんでいる。
耳は妖精みたいにとんがっていて、俺を見る瞳はルビーみたいに真っ赤だった。
こいつら……本当に、いったい何者だ?
ふいに寒気を覚えて見渡すと、目くらましになっていた砂埃が晴れてきた。
混乱していた牛どもも俺を見つけ、至る方向から押し寄せてくる。
くそっ、どうやら四方を囲まれているらしい。
こんな時に、元賞金稼ぎとして俺が取るべき行動は、ひとつだった。
敵の中で、いちばん弱そうな奴を見つけ、人質に取った。
「動くなッ! こいつがどうなってもいいのかッ!」
俺は、目の前で転んでいた少女を抱え上げ、銃を突きつけた。
着ぐるみはふかふかで、ほとんど何も食べていないのか、体重はとてつもなく軽い。
中身が綿なんじゃないかと疑ってしまうほどだった。
ニセモノ牛たちは俺の取った行動に、みんな怯んでいた。
「卑怯者!」
「子どもを盾にするなんて最低だ!」
連中からは、思わず人間の発言が飛んできた。
なんとでも言えばいい。
俺は少女を担いだまま、うずたかく積み上がった毛皮の壁に向かって駆け出し、将棋倒しになって倒れている牛どもをぐしゃぐしゃと踏み越えていった。
柔らかい毛皮の道は何十メートルにもわたって続いていて、反対側から飛び降りると、砂埃が一気に晴れ、目の前にすかっと青空が広がった。
うまく包囲網を切り抜けたあたりで、俺は少女を放り投げると、振り向きざまに中指を立て、もーもー吼え散らかす連中に向かって言い放った。
「覚えてろよてめえら! 逃げるんじゃねえぞ!」
空気の読めない俺にしては、まずますの捨て台詞だったといえる。
俺は精一杯の叫び声を平原に響かせ、来た道をただひたすら引き返していった。
* * *
「やめなさい、乾季にバーリャ平原を旅するのは自殺行為よ」
という忠告を受け、
「なあに、こう見えても一度軍隊で地獄を味わってきた身だ」
と高をくくって、荒野に再挑戦したのは、1週間前の俺だった。
今、ここに1週間前の俺がいたら、俺はすぐさまその無謀な行為を止めてやるべきだった。
乾季のバーリャ平原は、まさしく地獄の釜をひっくり返したような場所だったのである。
苛烈で、残酷で、凄惨だった。
おまけに、獣人のコスプレをした奴らまで現れる。
いったい、英雄は横断鉄道のない時代に、どうやってこんな平原を横断したというのだろうか。
忠告から1週間を待たずして、ふたたびザクセンまで引き返してきた俺の姿を見て、魔族の少女は顔をしわくちゃにして笑った。
「笑い話じゃねぇ」
俺が毒づいても、彼女は着ぐるみのフードをかくんかくんと揺らして、まるでニワトリのように笑い続けていた。
ちくしょう、いっそニワトリみたいに絞め殺してやろうか。
このニセモノ牛の少女は、気づくと俺のあとをちょこちょこつけて、ザクセンまでやってきていた。
もともと人間の暮らしに興味があったのか、さもなくば、荒原での生活にもう辟易していたのかも知れない。
いや、辟易するどころか、危うく飢えかけていたのだから、逃げ出したくなっていても当然だろう。
だったら俺からは特に何も言うことはなかった。
名前は、ルーシーンと言った。
少女は、自分の格好が周りと違っておかしい事に気づいていない。
街中で毛むくじゃらの着ぐるみを着ている女の子の姿は、異様に目立ったのだが。
なるほど、これが魔族か、と俺は納得した。
光の勇者との戦争に敗れて、世界中に散り散りになってしまった魔族の末裔だ。
人間社会に馴染むことができず、ついに荒野に棲むようになった、そいつらがニセモノ牛の正体だったのだ。
平原の捜索をはじめて2週間。
俺はザクセン地方の遊牧民の国『フェルスナーダ』にいた。
バーリャ地方の一歩手前にあるこの草原地帯は、中部の主要な国々の支配を受けなかったため、エカ神教の文化がほとんど浸透していなかった。
人々は、イーサファルト人になじみ深い彫りの深い顔つきをしているが、しばしば顔に赤土の顔料を塗って化粧をしていたり、羽根飾りをつけた服装で見受けられる。
赤土はバーリャの語源ともなった苦痛の母ハルテルの象徴。
鳥の羽は、積乱雲を飛び回る雷の女神サイテンの象徴なのだそうだ。
いずれもイリオーノたちの神々を信仰している証である。
大陸横断鉄道の駅舎も、ほかの土地では見られないような特徴を有していた。
正面はイリオーノ達の大神殿を模していて、巨大な花崗岩の円柱をいくつも並べて、なだらかな屋根を支えた大胆で明快なつくりをしている。
かと思えば、屋根の前面にはエカ神教の教会でよく使われるスバルの刻印が刻まれていたり、駅前では中部原産のオリーブやかんきつ類が売られていて、市場の雰囲気は俺にとって懐かしい雰囲気が漂っていたりする。
ここは、中部と西部の文化が微妙に入り混じった不思議な場所だった。
駅前からすこし離れた通りには、線路を囲む柵に沿うようにして、露天がずらりと並んでいた。
大陸の東西から集められた物品や、みやげ物の羽飾り、宝石類まで陳列されていて、旅行者の気が休まる隙がない。
俺が再び彼女に出会ったとき、魔族の少女は、大小いくつも並べられた常しえの河原産の陶器の一番小さいのみたいに、ちょこんと膝を抱えて座っていた。
商品はたぶん、みんな盗品だろう。
「無許可での路上販売、物品の取引を禁ず」と書かれた看板の前でもお構いなしだ。
逞しい連中である。
危うく見過ごしてしまいそうな小さな店だったが、その店の品揃えはかなり良かった。
信頼できる店かどうかは、店頭に並べられている魔石でだいたい分かる。
ひとつひとつ手にとって魔力を調べてみたが、どれも純度が高めの高品質なものばかりだった。
この少女がかなりの目利きである証拠である。
それとも、魔族の仲間が目利きをしてくれているのかもしれない。
「なんとかならないのかよ、あの牛頭の連中……お前の仲間だろ?」
「私たちも平原にいて長いけど、つい最近まであんなのがいるって知らなかったわ。前に一緒にいた部族がやられちゃったから、いそいでウシの服を作ったもの」
「なんだ、最初はウシじゃなかったのか……じゃあ、あいつらの弱点みたいなの知らないか? ぜんぜん銃が効かないんだけど」
「多分だけど、平原の奥地から移住してきたのね。弱点なんてあるのかしら……」
少女は腕組みをすると、うーんと難しそうな顔をして唸った。
この少女が平原に棲んでいたのなら、なにかの知恵を貸してくれるかもしれない。
過酷なバーリャ平原を攻略する光明を示してくれるだろう、と少なからず期待していたのだが、どうやら世の中そう上手くはいかないらしい。
少女はむーんと黙りこくったまま、結局何も言わなかった。
「ところで、雨季のバーリャはどんな感じなんだ?」
諦めてそう尋ねてみると、少女は、はっと驚いたように顔を上げた。
「雨季のバーリャ……?」
少女の白磁のような肌が、一瞬さらに青ざめたような気がした。
どうやら、踏んではいけない地雷を踏んでしまったのが分かった。
俺は少し身を引いて、あわてて両手を振って否定した。
「い、いや、一応聞いてみたかっただけだ。行く予定は今のところないな、うん」
と言ったところで、彼女の嫌な気持ちが紛れるわけではないだろう。
雨季のバーリャがいったいどんな恐ろしい世界なのかは、もう言かないでおくことにした。
不意に、駅前が騒がしくなってきた。
なにかと思って顔を上げると、商人達が急に露天を片付け始めていた様子だった。
「あ、やばい。憲兵がきたわ」
「一応、取り締まりはしているのか」
少女は地べたから腰を上げ、ちらかった商品を背嚢に片付け始めた。
通りの向こうを見やると、角に店を出している店主が、こちらにむかって手を高くかざし、何かの合図を送っている。
「悪い、邪魔したな」
俺も慌てて腰をあげ、少女が背嚢を背負うのを手伝ってやった。
「水に気を付けなさい」
煙草と薬草のにおいが入り混じった背嚢を背負うと、少女は聞き取れないような小さな声でそう言って、もう一度同じ事を言った。
「水に気を付けなさい。牛頭の部族は、水のある場所を知っている」
「なんだそりゃ?」
俺は目をむいて尋ねかえした。
少女は先を急いでいる様子で、早口で言った。
「私にもわからない。一族に伝わる古い言い伝え。牛頭の部族に出会う時は、少なくともバーリャで、何か異常な出来事が起こっている時だそうよ。
その言い伝えはこう続くの、『牛頭の部族は水のある場所を求めて歩いている。彼らに出会ったときは、決してその後を追ってはならない、来た道を真っ直ぐに引き返せ』」
それは不思議な、そして何かざらついた、嫌な予感のする予言だった。
「お前のために言っておく、今後いくら平原に繰り出したところで、お前が探しているものは、たぶん絶対に見つかりはしないわ。捜索は諦めて、今すぐに、故郷に引き返すのよ。私が言えるのは、それだけ」
そう言い残して、少女は薬草の入った背嚢に押しつぶされそうになりながら、よたよたと去っていった。
残された俺の両脇を、大勢の露天商達が流れるように通り過ぎていった。
おいおい……そんな伝承が一体何になるっていうんだ。
そもそも、俺が出会った牛頭の獣人共は、1人を除いて全員が偽者だったじゃないか。
少し前までの俺だったら、そう反論していただろう。
だが、今は心が揺らいで、何も言えなくなってしまった。
このまま冒険を続けるのは、無理かも知れない。
そんな気分になったときに、イーサファルトから俺を送り出した旧友達の顔が浮かんでくる。
……いや、こんなところで諦めて、連中の前におめおめと顔を出せるものか。
たとえ剣はなくても、できることならあいつらをびっくりさせられるような冒険譚を持ち帰ってやりたい。
そう思いながら、ここまで歯を食いしばってやって来たんじゃないか。
たった1週間で借りた銀貨を使い果たして、さいごには不吉な予言を聞いたからって、手ぶらで引き返すっていうのか?
おいおい、落ち着けよ、リゲル=シーライト。
そんなダサい物語、俺のカラーじゃないだろ。
そのとき、考え事をしていると、背後から何か、硬い壁のようなものがぶつかってきた。
「いてぇな!」
苛立ちながら振り帰ると、目と鼻の先に、見るからに屈強そうな男が二人立っていた。
俺は持ち前の演技力で苛立った表情と顔色をすっと引っ込めたが、言ってしまった言葉まで俺の口に戻ってくることはなかった。
二人とも鍛え抜かれた胸板をしていて、全体的に頑丈な体つきだったが、どう見ても憲兵ではない。
どちらかと言えば、マフィアの私設傭兵団といった風体だ。
サングラスをかけて、けばけばしい柄物のシャツの前を開け、イリオーノ並みに毛深い胸をはだけている。
腕や足や胴体、どの体のパーツを取ってみても俺の二倍ほどの太さがあった。
口にピアスをつけたやや太り気味の男が、じろじろと俺を眺めて不機嫌そうに言った。
「おい、気をつけな……ぼんやりしてると、誰かに後ろから刺されるかもしれんぜ」
煙草くさい息が顔に吹きかかった途端、俺は相手が一体誰であるかを悟り、全身に鳥肌が立った。
アイズマール一家だった。