ピエタの憂鬱
もうこれ以上息をしていたくないと思った。呼吸するこの肺が憎らしい、いや、この動く心臓も思考する脳も空気に触れる体も全てが憎らしいと思った。
もう私には耐えられないんだ。耐えている意味もないんだ。終わりたい、もう、逃げ出したいんだ、それが誰かのいう"負け"だったとしても私にとってはどうだっていい。
そう、自分的には至って冷静な判断を下して、痩せこけた腕から薄汚れたプラスチックチューブを引き抜いた時だったと思う。
「へえ、死ぬの?」
そう、近くから聞き慣れない声が聞こえたのは。
ピ エ タ の 憂 鬱
僅かながら蔑みを含んだようなその声は、しかし雰囲気に反してボーイソプラノのような涼やかさがあった。知らない声。
その響きに、私は消灯時間をとっくに過ぎた病室の中をぐるりと見回す。病棟の奥、看護婦ですら定時にチラリと確認に来るだけのこの世の隅に追いやられたような私だけの空間に、知らない声が響くなんてことはここ何年も起こっていない。誰もいないと思っていたのに…というか、いてはいけないはずなのに。
面会時間でもない病室の中を部外者が歩いているなんて、とんだ大事件になるんじゃないですか。まあもう私には関係のない話ですけれども。
そう半ば他人事な気分で、私は部屋の角に置かれた椅子を凝視する。いたからだ。泥棒か幽霊かキチガイかはさておき、誰かが確かにそこに腰掛けている。
「随分と埃っぽい椅子だね。まるでずっと誰も座っていなかったみたいだ」
「その通りよ、生憎だけど長年ここにいる人間に見舞い客なんて一人も来ないから」
その埃っぽい椅子に腰掛けるのは、全身を黒のロングコートで覆ったような不自然な出で立ちの子供だった。目深にかぶった帽子のせいだか、男の子か女の子かもよく分からない。ただ、肩でふわふわと揺れる銀色の髪が、その子が日本人ではないことを示している。
そんな子が、一体誰で私に何をしにきた人なのかといった本来の最重要事項すら無視した返事を私がすると、向こうも何を思ったかクスリと笑って小首を傾げた。
「一人でずっとこんなところにいたら、頭もどうかして当然かな」
「どういう意味」
「そのまんまさ」
キミが自分の状況を劇的に把握出来ていないことについての言及だよ。そう言いながらどこをどう歩いたか、気が付けばベッドのすぐ脇に、つまり私の目の前30cmの距離に青白い顔がぼんやりと浮かぶ。あっれおかしいな、私ずっとこの子から目を離さなかったはずなのにというかそもそもコイツ人間じゃないんじゃないか、目の赤くならないはずの部分が真っ赤なんですけれども。
「…アナタ誰なの」
「さあ、誰かな」
やっとそこで、本来第一にするはずの質問を口にする。それなのに返ってきた答えは相手の頭を疑うようなもので、やはりここはキチガイの一択で間違いないのかもしれないと思った。自己紹介ぐらいサラッとやれよと内心毒づきつつ、反面こんな怪しい人物に真面目に質問した私が変だったのかもと反省する。
「アナタが誰だろうと構わないけど、私はこれから寝るところなの。邪魔だから帰って」
「これから死のうって言うんだろう?それでそんなチンケな真似をして、よほど足りてないらしいね。面白いよ」
そう言ってその子は、私の腕に視線を投げかけた。どうやら私の"帰れ"という要求はさらりと流されてしまったものらしい。それに忌々しげに舌打ちをしてみせても、その子はガン無視を決め込んだまま赤黒い跡が点々と並ぶ私の腕を見つめている。
よほどマイペースで、かつ年齢不相応なまでに聡い子供であるらしい。
「何?チンケって?あのね、私にとっては生きてることの方がずっとチンケなの。社会に参加出来ないまま痛い延命治療ばかりが毎日続いて、家族すら見舞いに来なくなった私が死んだところでメリットしかないんだから、アンタみたいな子供は変な勘ぐりも正義感も持たなくていいのよ」
正直、私が腕からチューブを一本ひっこ抜いただけでその意図を汲んだ上にそれを阻止しようと割って入ったその行動には感服するけど、それ自体が良くないことみたいな古ぼけたキリシタン的発想は頂けないと思う。人それぞれに事情ってもんがあるんだって、子供に解れとも言わないけど。
「だからもう、早く出てって」
「それで僕が出ていってから、やっぱり残しとけば良かったなんて思われても遅いから焦らない方がいいと思うよ。それと…」
僕は子供じゃないし、キミが死ぬことに反対しているわけでもない。
そう言ったその子は、まるで証拠でも見せるかのように抜かれたチューブの先に繋がるコードだらけの機器に手をかざした。
瞬間、何が起きたのか機器の電源がプツリと落ちる。有り得ない、この機器はコードを抜かないと絶対に電源が落ちないようになっているはずだし、停電時も非常用バッテリーが作動する仕組みなのに。
「えっ…どうして…」
「電磁波みたいなものさ。それより、これで本格的にキミはこの機械に頼れなくなった。さっきチューブを抜いてから10分、そろそろ心臓もしんどい頃だと思うけど死の匂いは近づいてきたかい?」
白い手袋をはめたその子の指が、壊れた機器をトントンと叩く。確かに、私の呼吸は少し苦しくなってきていた。この状態が続けば意識も混濁してくるだろう。けど、死の匂いだなんて抽象的なものは分かるわけもない。訝しげに眉をひそめる。
「変わりに答えてあげようか、ノーだろう。こんなことではキミは死なない。ただのた打って悪化して更に厳しい治療に送られるだけさ」
甘いんだよ、ツメが。
その、吐き捨てるような一言で私は何となく理解した。
自分の状況を把握していないとかチンケなことをしているだとか、この子の言うことは一々尤もだったんだ。どうしてこの子の方が私より数段的確だったのかを考えるとムカつくけど、これじゃあ私の思うようにはいかないと気付けただけでも良しとしよう。何か妙案を考えないと。
そう思いなおすと、何だか急に笑えてきてしまう。
「あはは、本当ね。アナタもしかして死神ってやつ?」
「ん、近からず遠からず。人間達は僕らを有り難がってるみたいだけど」
それと、と、そこで思い出したかのようにその子は言う。
「今キミが勝手に死んだって、恐らく今と変わり映えしない状況にしかならない。自殺者は大抵が死後もその場に縛られて、苦しんで死んでを繰り返すだけだからね。それより、僕と一緒に来てみるかい?」
今よりは少なくとも楽しめると思うけど。
そう言ったその子は、既にもう窓際に立っていた。また動きが見えなかったことに反射的にぞくりと粟立つ。全く当人が自覚する以上に、つくづく死神に近しい子供だ。
それにしても一緒に行く、どこへ、この窓の外、私の知らないどこかへ。そんな知り得ないことで迷っているうちに、その子の片足が窓の縁に掛かる。ちょっと待ってよ、検討してるんだからと言おうとしたところで言葉に詰まった。検討も何もない私が何を迷ってるんだろう。ここから一緒に飛び降りるつもりなのかな、それはそれで面白いかもしれない。
「キミみたいな人間は、神も仏も人も信じてないんだろう」
「どうかしら。もしかしたら逆かも、だってみんな消えろって思うし」
「なるほど、気に入ったよ」
窓際から一歩を踏み出せば世界は暗転、私は痛快に笑っていた。
久しぶりに感じた風と浮遊感が、人生最後に感じるものとしては最高にスリリングで気持ち良い。どこまでも高い夜空に浮かびながら下を見れば、私のひしゃげた死骸が脳髄を垂らして転がっている。
「ねえ、これからどこへ行くの?」
目の前に浮かぶ不思議な子供に、高揚して上擦り気味になった声で尋ねた。
「組織に帰ってキミを紹介する。そこでもし受け入れられれば、晴れてキミは僕たちの仲間さ」
組織。とするとそこでは、また不思議な人達が集まって何らかの目的のために動いているということだろう。楽しそうだ。
そんな私の期待に添うように、僕の名前はタマ…仏道を司る仏の化身だ。冥土の土産にでも覚えておいで。と言って私の手を引く子供は、赤い目を細めニンマリと笑った。
20130406