第四章
アスファルト特有のねずみ色の壁に囲まれた個室の中で爆音が響く。
地面や天井を揺らすほどの音だ。
その音でアルミ製の棚が揺れる。
乗っている様々な形状の実験器具が落ちそうになった。
その中の一つ、不思議な色をした液体が入ってたフラスコが棚から落ちる。
だが、それは人の手によって遮られた。
空中で重力に習い落下していく途中で見事にキャッチされたのだ。
その手の主はフラスコを元あった場所に戻し、後ろを振り返った。
目線の先にはもくもくと煙が上がっている。
煙に向かってフラスコをキャッチした主が声をかける。
「お前何してんだよ」
一言で男とわかる野太い声だ。
と、煙の中から反応があった。
揺れる煙の中から現れた人影は男に向かって答える。
「げほっ、失敗しただけです・・・」
人影は女だった。
ただ、顔の半分は実験用のゴーグルで隠れている。
「いい加減メガネの上からゴーグル掛けるのやめろよ」
「じゃあ度付きのゴーグル買ってくださいよ」
女は煙を排出し続けるフラスコを置き、ゴーグルを取った。
髪を振り乱す女は大きな丸メガネをかけている。
「そんな金はねぇ」
男は羽織っていた白衣を脱ぎながら女に言った。
「って、お出かけですか?」
「あぁ、ちょっと支塔のほうにな」
支塔、つまりはノア外壁を形成する四つの塔のことである。
いつものことなのか女は特に気にしたそぶりはみせなかった。
代わりに手をいってらっしゃいとばかりにヒラヒラさせている。
男は白衣を椅子の背にかけ、出ていこうとした。
だが、ドアノブを握る瞬間思い付いたように立ち止まる。
「っと、松原」
松原と呼ばれた女は新たに試験管に怪しい薬品を注ごうとしているところで男の方を振り替える。
「十班の隊長さんが短刀型ワクチンを用意しといてくれ、だってよ」
「短刀型…?それってインストール前ですよね?」
「そうか、ならインストールしといてくれ」
彼は適当に言い放った。
松原は言い草の悪さに頬をふくらませたがふと思い立ったように
「でもなんでそんなもの必要なんですか?」
と質問をした。
男はドアノブに手をかけたまま答える。
「あぁ、なんでも新人さんが入ってくるらしい」
「へぇ…十班に入隊なんて物好きもいるもんですね」
松原は、苦笑いを浮かべている。
「さぁな」
男はドアノブを回し扉を開ける。
その顔はどこか愉快そうに綻んでいた。
『ここ』
空、と名乗った少女が黒い扉の前で止まった。
彼女はその扉を指差している。
その扉の上のほうにはプレートが掲げてあり、お世辞にも上手とは言えないような字で第十班と書かれていた。
「まぁ入ってよお茶とか出すしさ」
後ろから黒のコートで身を包んだ男性が扉の方へ押してくる。
名は冬織といっていたか。
「は、はぁ」
僕は間の抜けた声を漏らしていた。
昔から流れには逆らえない性格なのだ。
最近不便だと思っていたところだが、まさかここで裏目に出るとは。
僕は渋々ドアノブを握りしめ、手前に引く。
その瞬間、濃密な臭気が僕の鼻孔を刺した。
「うぐっ…!酒くさっ!」
アルコールの薫りが漂うなんてもんじゃない。
火気厳禁の看板を貼り出さねばならないほどのアルコール蒸気が部屋のなかに満たされている。
しかし空と冬織はさも至極当然のようにその部屋に足を踏み入れていた。
凄く不安を感じながらも僕も部屋に入る。
部屋のなかは案外質素なものだった。
15畳ほどの小さな室内にはソファー、ベッド、テレビ、テーブル、椅子が申し訳程度に置かれている。
窓は一応ついていたが今は閉ざされカーテンが閉められている。
照明は点いておらず唯一の灯りは砂嵐が画面を覆っているテレビだけだった。
テーブルの宇江にはところせましと酒瓶が乗せられている。
そしてソファーの上には毛布に包まれた謎の塊がもぞもぞと蠢いていた。
殺人現場、若しくは呪われた部屋、というのが僕の第一印象。
そんな奇怪な部屋から声が聞こえたのはその時だった。
それはくぐもった声で誰かを呼んでいるように聞こえる。
はっきりいって、怖い。
逃げ出さなかったのは二人に両腕をロックされていたからである。
そして追い撃ちをかけるようにソファーの上の毛布に包まれた謎の塊がゴロンと床に落ちたかと思うとそこから赤い液体がドボドボ流れ出す。
僕は声にならない悲鳴を声帯に詰まらせていたが二人は平然としている。
なぜ初対面の二人にこんな恐ろしい光景を見せられなければならないのか、新手のセールス?
そして何を思ったか冬織はその塊に話しかけていた。
「昼間から呑むな!」
そう叫ぶと彼は毛布を剥がし取った。
するとその中から若い女性の艶かしい声がしたのだ。
僕は見てはいけないような気がして目を瞑っていたのだが、その声に意表をつかれ、目を見開いていた。
いままでバラバラ死体かと疑っていたが全然違う。
そこには猫のように背中を丸めて、腕には大事そうにワインの瓶を抱き抱えている若干25歳くらいの女性の姿が。
その女性は下着が透けるほどの薄いシャツしか身に付けておらず非常に目のやり場に困るかっこうをしている。
「…ん~」
手にしている瓶からは赤い液体ことワインが漏れだして床に赤い染みを作り出していた。
そしてそれを抱き抱えているということは必然的にシャツにかかるというわけで。
どうでもいいが白いシャツのワインの染みは消えるものなのだろうか。