第一章
「えっと…ここに氏名をお願いします」
青い作業着を身につけた男が戸惑いながら紙を渡してきた。
ここ、と言って指されたのは元住所欄なんだが…
「あの、ここじゃないんですか?」
僕は、氏名欄と書かれている枠に指をおいた。
「あ~…そこに住所を…」
「えっ、氏名欄って書いてあるんですけど…」
「…すいません、そこに氏名をお願いします…」
なんとも頼りない男だ。
これなら紙だけ渡されたほうがマシだと思う。
これから彼に引越しを依頼するのだが、いささか不安だ。
といっても荷物が少ないので失敗することはないと思うのだが…
「天海 琉玖さんですか…珍しい名前ですね」
「えぇ、よく言われるんです」
口に出さないで欲しい。
別にこの名前が嫌いなわけではないが改まって本名を口に出されると、恥ずかしいものだ。
たまにこういうことがあるのだがどうしても慣れない。
「東京ノア旧市街地D-1…」
元住所まで読み上げないでください。
「東京ノア市街地E-5…」
この人には読み上げ機能でもついているのかと思う。
僕がペンを走らせるたびに同じことをしゃべる。
なんというか、ものすごく書きにくい。
ちなみにさっきのは新住所だ。
「えっ、都庁に近いですね…なんでまた」
それはこっちがききたい。
叔母さんはもう高校生なんだから自立しなくちゃと言って新しい物件を探してくれた。
それはいいのだがなんでまた都庁の近くなのか。
都庁周囲は治安が悪い、毎日のように政府に対してデモが行われているのだ。
叔母さんはここしか安い物件がなかったのよと笑っていた。
まぁうちは自他共に認める貧乏一家なのでわからなくもない。
しかし、僕の承諾もなしに勝手に決められてしまったことには腹が立っている。
おまけに引越し屋も勝手に決められてしまった。その結果がこれだ。
とはいえ、金を払っているのは叔母さんなのだから文句も言えない。
これが高校生の苦悩というやつなのか、とため息をついた。
「どうかしたんですか…?」
「いえ、別に…」
誰のせいだと思ってるんだ、と言いたかったが雇ったのは僕の方なので言えなかった。
彼は彼なりに理解したのだろう。ため息の訳を。
「あ、お茶いります?」
客に聞くことじゃないでしょうが、と心の中で突っ込んだ。
この男は本気でそう思っているのだからタチが悪い。
今も返事をしないでいる僕の顔を伺って悩んでいる。
「あの…引越し屋初めて何年ですか?」
「あ~、3年目ですね」
「依頼件数は?」
「あなたが初めてですよ」
なんとも眩しい笑顔での回答だった。
というか3年間やってて1件も依頼が来てないのか。よく見つけたな、叔母さん。
確かに旧市街地にはこういう業者は多い。
しかし、今まで見た中で最悪の店だろう。この引越し屋。
まさか上京の手伝いがこんな引越し屋とは…不安でいっぱいいっぱいだ。
僕はとりあえず家に帰った。今回は依頼だけだったので紙に記入するだけだったのですぐ帰って来れた。
「ただいま」
家の奥に言いながら靴を脱ぐ。
「おかえり~」
奥、台所から声が聞こえてきた。
足音とともに。
「どうしたの?そんなにやつれた表情して」
誰のせいだと思ってんだよ。
叔母さんは僕の顔を見ながら首をかしげた。
「明日早速出発でしょ?今日はもう寝なさい」
「ん~、わかった」
時刻は10:00、確かにもう寝たほうがいいかもしれない。身の安全ためにも。
「え~お兄ちゃんもう寝るの~!?」
叔母さんが出てきた方、台所から拗ねたような可愛らしい怒声が聞こえてきた。従妹だ。
彼女は叔母さんの手伝いをよくしてくれる。
今日はさしずめ弁当づくりだろうか。卵焼きの香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。
恐らく明日の出発の時にくれるんだろう。期待しようじゃないか。
「ちょっと待っ…うわぁ、焦げてる!」
「ったくなにやってんの、静音~!?」
叔母さんは従妹の様子を見に台所へ戻っていった。
ちなみに我が従妹の名を静音という。
静かそうな名前の反面、とてもうるさい中学二年生だ。
「あ~ごめん、もう寝るわ」
こういってそそくさと逃げたほうが得策のようだ。
奴に捕まると朝まで話し込まされる。体が持たない。
彼女には悪いが、もう寝てしまいたい。
「え~ちょっと~!!待ちなさいっ…うわぁ!お母さんミズダコの素揚げは無理があるって!」
「こうでもしないとおいしいお弁当は作れないのよ~」
「ちょっ、なんで水投入してるのうわっちぃ!!」
なにやら楽しそうだ。しかし、うるさいのでボリュームを下げて欲しい。
そして、油が豪快にはねてる音が聞こえるのは気のせいか?
…気にしないでおこう、なんだかんだ言って彼女たちの料理は美味しい。
多分、大丈夫だ。多分…
頭に布団をかぶせて床に入った。
こうでもしないと眠れないのだ。うるさくて。
ただこの時ほどこの行為を恨んだ覚えはない。
匂いも当然遮断されてしまう。
―身の危険を感知できなかった。
「ごめんなさいね」
これが昔流行ったてへぺろ、なのだろう。
叔母さんが舌を出しながら笑顔で弁当を手渡してきた。
…なんで目が泳いでいるんだ。しかもごめんなさい?
まぁ作ってくれたこと自体は嬉しいのでありがたく受け取った。
「それから、これ」
そう言って叔母さんが取り出したのはいつも僕が身につけているはずのペンダント。
「昨日、すぐ寝ちゃったでしょ?玄関に置いてあったわ」
「あ~、どおりで今朝見つからなかったんだ…」
言いつつペンダントを手にとる。叔母さんの熱で少しだけ温かい。
首にかける部分は小さな鎖で出来ている。すっぽり手に収まる本体部分は不可思議な紋様が刻まれているがところどころくすんでいてアンティークとしての需要もないと思う。
本体部分に爪を入れると、パカっと開いた。
ふたの内側部分に書かれているのは日付、おそらく生まれた時のものだ。
蓋とついになっている部分、内側には家族の写真。
両親と、母親に抱きかかえられている幼き自分。
どこかの写真家に出生記念として撮ってもらったんだろう。
おそらくなんの価値もない。
だが、これは僕と両親とを結ぶ唯一のもの。
両親がいた、という事実でもある。
それだけで、僕にとっては大きな価値がある。
感慨にふけながらペンダントに触れていたら、
ぱっぱ~っ!
なんとも間の抜けたクラクションの音が外から聞こえてきた。
そう、僕は今から引っ越すのだ。
多分今のは引越し屋のトラックのクラクションだろう。
荷物は今朝のうちに積んだ。
もう出発するだけ。
と、ここで異変に気づいた。
「あれ、静音は?」
あのうるさい従妹の声が今朝から聞こえない。
まさかあいつのことだからナーバスになって会いたくない!とは言わないだろう。
「まだ寝てるわ」
なるほど、確かに今は日曜日の9:00。健全でない中学生ならまだ寝ている時刻か。
あったらあったでめんどくさいので、そそくさと立ち去ろう。
「じゃあもう行くよ」
「はい、いってらっしゃい」
叔母さんはまるですぐ近所に行く子供を見送るように微笑みながら手を振った。
この人は天然なのか、優しいんだか、よくわからない人だ。
「時々帰ってくるからね」
とても嬉しかった。なぜかはわからないけど。
僕は弁当とペンダントを握り締め、引越し屋のトラックに乗車した。
運転席には青い作業着の頼りない男。
僕はふふっと笑ってしまった。
「どうしました…?顔になんかついてますか?」
「いや、こういうのもいいなって、思っただけです」
「はぁ…?」
訝しげに僕の顔を伺ってきた。
それも無理ないだろう、他人の車に微笑みながら乗ってくる他人を見たら。
「いいですか?出発しますよー」
僕は窓を全開にし、身を乗り出して叔母さんに手を振った。
影が見えなくなるまで。
途中、家から飛び出して母親に蹴りを入れていた従妹は見なかったことにする。
かくして僕は自立の道を辿り始めた。




