第九章
小さな個室。
床板がめくれていたり壁に亀裂が走っていたりしてボロっちい印象の抜けない部屋である。
しかし、よく掃除されており、整頓された室内は住人の性格をよく表している。
その部屋に一人の子供が訪れた。
「ご、ごめんください…」
長閑は木目の壁紙が剥がれかけている鉄のドアからひょっこり顔をのぞかせて中をうかがう。
「お疲れ様、佐柳」
住人、総司令官は椅子に座りながら長閑を手招きした。
この部屋には総司令官専用の机の前に足の低い長机1つとそれを囲むように大きな椅子が4つある。
いわゆる応接室のような構造だ。
その部屋に恐る恐る入った長閑は大きな椅子にボフッと腰かけた。
「…今回の成果はどうだ?」
総司令官は椅子の上で腕組みをしながら長閑に聞く。
「その…全部殲滅しました…ごめんなさい」
長閑は目に涙を浮かべながら答えた。
それは総司令官に対する恐怖なのか…否、そうではないようだ。
「佐柳…いい加減敵を倒して泣くのはやめてくれないか、気持ちはわかるがお前は悪いことはしていない」
総司令官が目を伏せながら長閑を諭す。
しかし長閑は目元をぬぐうと「ごめんなさい」とだけ言って押し黙ってしまった。
後に響くのは長閑が鼻をすする音だけ。
総司令官は小さくため息を漏らすと切り口を変えた。
「あの青年…新沼はどうだ、ちゃんと戦えているか?」
長閑はもう一度目元をぬぐうとしゃべり始めた。
「もうだいぶ帝の体に慣れてきたみたいで…どんどん強くなってます…」
長閑の目からはもう涙はこぼれてなかった。
相方の成長がうれしいのだろうか、しかしその心境には複雑さが見える。
「そうか、よかったな」
総司令官は無表情のまま頷く。
しかし、と彼は続ける。
「彼を九班に配属してよかったのか?佐柳、お前の体質は―――」
その瞬間扉が何者かによって蹴り開けられた。
轟音とともに現れたのはやたら胸の大きな酒豪女。
神無だった。
「やっほ~待った?総司令官様~」
呼ばれた総司令官は頭を抱えるとため息を吐いた。
「遅いぞ、あとドアを蹴るな」
「へーへー」
神無は適当に返事をすると長閑の正面に座った。
「あれ、長閑ちゃんじゃん、どうしたの?」
「えと、えと…」
長閑は慌てふためいている。
そこに総司令官が助け舟を渡した。
「お前と一緒に長閑も呼んだんだ」
「ふーん、で話って?早く帰ってりっくんを弄びたいんだけど」
どうやら長閑と神無は総司令官に呼び出されているようだ。
「大丈夫だ、すぐ終わる」
総司令官は椅子から立ち上がると、机に手を置き、身を乗り出した。
「九班と十班にはノア内部に潜伏している神…これを殲滅してもらいたい」
神無はポカーンと総司令官の顔を見ている。
「やっと…なんですね?」
長閑は総司令官に問う。
まるでこの機会を待ち望んでいたかのように。
「あぁ、今日の九班の活躍によって残るは4カ所になった、うち2カ所ずつを九班と十班で殲滅してもらいたい」
このノアの中にはまだ神がいる。
ノア形成時に内部に残ってしまった哀れな兵、機関はこれを隔離して殲滅に励んでいたのである。
「ちょっと待って」
神無が手を挙げた。
「なんで今なの?なんで私たちなの?ほかの班は?」
怒涛の質問だった。
しかし、総司令官はその質問を予想していたようで、丁寧に対応する。
「まず例の蠍の件がある、奴は間違いなく外界から来た…神がそこまで進化しているのかわからないが内部に手間取ってる場合じゃない…なので早急に内部は殲滅してしまいたい」
彼は窓際に立つと手で二を示す。
「九,十班に頼んだのは班に新人が入ったからだ、内部の神は外界に比べて弱く劣っている…新人を外に出す前に内部で慣らす」
総司令官は2人のほうに振り向き、近づく。
「わかったか?」
長閑は顔を上げて「賛成です」と言った。
神無はふてくされたような顔をしている。
「わかったわよ、めんどくさいけど長閑ちゃんがそういうならやるわ」
神無は立ち上がると長閑の後ろまで行き、後ろから長閑を抱きしめた。
急なことに長閑の顔はひきつる。
「え、わ、あの…」
「相変わらずかわいいな~長閑ちゃんは!」
そういうと神無は長閑の頭を両手でぐりぐりし始めた。
「あぅ…ごめんなさい」
その光景を見ていた総司令官は後ろを向き咳払いをする。
「場所は追って連絡する…両班の健闘を祈る」
神無は体を起こすと総司令官の背に向けて舌を出した。
「あんな奴らにうちの子たちがやられるわけないでしょうが!行こ、長閑ちゃん」
そう言い放つと彼女は長閑の首を抱えたまま外に出ていこうとする。
「神無さん…息、できな…」
長閑は目を回しながら連行されていった。
残された総司令官は室内で大きなため息を吐いた。
「あいつ、シラフでもああなのか…」
窓から冷たい風が吹き付ける。
外はもう暗い、遠くで星が瞬いている。
僕はまた十班の部屋で窓を開けて外を見ている。
「…くしゅん」
まだ春だが、やはり夜になると寒い。
塔の上階なのでそれも関係しているのかもしれない。
なんだかここ最近こうして空を見て感傷に浸ることが多くなった気がする。
そのことに気が付き、僕は鼻を垂らしながら微笑する。
しかし、今の気持ちは前回の黄昏ていた時とは違った。
暖かくて優しい気持ちだ。
眼下にはノアの内部の明かりがみえる。
内側はとても多く、明るい光が、外に向かっていくにつれて少なく、弱くなっていく。
きれいな夜景だ、100万ドル払ってもいいとはこういうものを言うのだろう。
…僕はこの景色を守る大役を任せられた。
最初は困惑していたが時間がたつにつれて実感がわいてくる。
叔母さんと静音に別れを告げて今ではもう完全に受け入れているのかもしれない。
かつて住んでいた自分の家がある方向を見てみる。
薄暗く、ぽつぽつと光が漏れているだけでどこが自分の家かわからない。
しかし、そこにあるという事実が僕の気持ちを安らかにしてくれる。
明日から仕事が始まると冬織さんは言っていた。
期待と不安が心を揺さぶる。
今日一日でこの体にだいぶ慣れた気がする。
しかしそれとこれは別だ、相手は神の名を冠する化け物。
今までの人生で一回も喧嘩を経験していない臆病な僕が戦えるのだろうか。
―――仲間を守れるのだろうか。
「へっぷし」
夜風が冷たくなってきた。
窓ガラスが白く曇ってきている。
僕は窓を閉め、寝室へと急ぐ。
この部屋以外に寝室部屋があり、そこで空と冬織さんは寝泊まりしているらしい。
魁のトラックから僕の荷物を引っ張り出してきてその部屋に入れていると言っていた。
事実上、寝室部屋が私室みたいな扱いなのだろう。
空と冬織さんはもう寝たようだ。
僕も明日に備えて早く寝よう。
振り返り、窓の奥を見る。
僕は昔住んでいた今守るべき世界に別れを告げ、寝室へと急いだ。
吠える、哭く、騒めく。
仄暗い殺風景な灰色の箱の中でソレは体を起こし、喉を鳴らし、唸る。
裂けた真っ赤な口には牙が生えそろい、噛み殺し、食い千切る形をしている。
ソレは黒い巨体を動かすと壁にぽっかり空いた窓の跡から外を見つめる。
外には無数の白い光、放つ。
内には二つの紅い光、吠える。
空には満月、丸い灯。
今宵、神は月を望む。




