伏兵は探究心
僕の部屋にはエアコンがない。窓を開けた状態に扇風機で空気を回してはいるけれど、限度がある。どうしても暑さは避けられない。
寝るに寝れず。乾いた喉を潤すために、この夜中に台所へ来たというわけだ。
夜中に目を覚ますのは久しぶりだ。
あの類の夢を見るといつも起きてしまう。なぜだろう。
別に悪夢のようではなかった。夢には阪井が出てきた。裸踊りはしていないけれど。
夢のなかで彼は僕の目の前に立っていた。僕を見る目はいつも通りだったけれど、なにかが違う様子だった。なにが違うのかは僕にはわからなかったけれど。
僕の夢には音声がない。視覚的な情報でしかない。記憶には残るけれど、すぐに出てくるようなものじゃない。
夢と同じだと気づくのは、シチュエーションに出会ってから少したってからだ。デジャヴのようではあるけど、その瞬間ではない。
予知夢、なんだろうけど。
なんにせよ。
夢以前に寝られないとなると辛い。明日の授業もある。僕は部屋に戻って寝ることに努めることにした。
授業内容が頭に入ってこない。睡眠不足ゆえだ。
朝から元気がなかったらしい。父親は僕の顔を見るなり、学校まで送っていくよと言った。つまりは僕は徹夜には向かない体質なのだろう。
大きなあくびをする。
――休み時間は寝るしかないな。
寝る体制に入る。
「寝不足か」
頭の上から声が降ってきた。阪井だ。
「寝かせておくれよ」
僕は腕の上に頭を載せたまま答える。顔をあげることすら辛い。
「相当眠そうだな。少ない休み時間を満喫しろよ」
彼が立ち去るのが分かる。
やっと落ち着いて眠りにつけると思った矢先。
チャイムの音が聞こえた。
大きなあくびをする。
結局休み時間では寝足りず、だからといって授業中に寝るわけにもいかず。すると当然眠気が去ることはなかった。
このまま自転車で帰るのは危ないと判断して、ひと眠りしてから帰ることにした。
幸いながらに、と言っていいのか、僕は部活動に属していない。放課後の時間は自由に使えるというわけだ。
教室を出て図書館に向かうことにした。放課後になると、教室の冷房は止められてしまう。図書館ならばという思いに駆られたことは言うまでもない。
教室の扉を開けたところで阪井に気をつけて帰れよ、と言われた。僕は右手を軽く挙げて返事をした。
教室を出ると熱気が僕の顔に吹き付けてきた。
全教室には冷暖房が完備されているので、授業中や休み時間は快適であることこの上ない。けれど外に出てしまえばその保護はなくなってしまうのだ。帰宅時にこれを体感しようものなら、ホームシックともさようならできる優れものだった。
あまりにも暑いので早速図書館に逃げる。
案の定、図書館は涼しく、快適空間だった。
僕は席を見つけて座る。本棚の奥、四人席の壁際だ。この位置なら司書の先生に咎められることもないだろう。
ぐっすり眠れるといいけど。
心配とは裏腹に、僕は快眠に誘われた。
うっすらと目を開けた頃には辺りは暗くなっていた。
腕時計を確認するとすでに七時をまわっている。
身体を起こす。少し背筋が痛いけれどたいしたことはない。すぐに治るだろう。頭も寝る前より格段に良くなって、冴えている。
ぐっ、と全身を伸ばす。心地よい痛みだ。
前を見ると女子生徒が座っていた。僕のクラスの委員長だ。見ると、勉強をしているようだった。
彼女はとても人望がある。成績はとてもいいらしい。彼女のかけている眼鏡がそれを裏付けしているようにも感じる。眼鏡に対する偏見だな、と少し思うけれど。
「委員長こんにちは」
なにも言わずに立ち去るのは無礼だと思い、挨拶をする。
「こんにちはの時間ではないわ。随分と長い間寝ていたようだけど?」
それほど長くもない。けれど思い直せば終業の四時くらいから寝ていたわけだから長いといわれればそうかもしれない。
でもつまらない作業に時間を取られるよりは有意義だったはずだ。
と思ったところでふと引っかかることがあった。
「委員長、少しいいかな」
彼女は僕が話を持ち出そうとしたことに驚いたのか、メガネの奥の目を見開きながら僕を見た。
「どうしたの?」
人望があるのは面倒見の良さからだろうか。彼女は少しばかり驚くそぶりを見せた後、すぐに話に入る態勢を整えていた。
「そんなにかしこまって聞くような話でもないよ。この前あった体育の後のことなんだけど」
僕がそこまで言うと彼女は持っていたシャープペンシルを置いて僕のほうを見た。いつもとは違った鋭い視線のように感じられた。
「転校生の彼女のことなら知らないわ」
明らかに知っている素振りだ。
「そこまで言ってないのによく分かったね。そう、その彼女のことなんだけど」
彼女は失言を悔やむ様子を見せた。すぐにいつもの穏和な表情に戻る。
「あなたはいなかったから分からないかもしれないわね。彼女、初めて教室にきた時発狂して飛び出したの」
阪井が言っていた。両親の話になった途端血相を変えて出て行ったと。僕が見たのは教室から逃げていく彼女だ。
「彼女ね、両親の都合でこっちに越してきたらしいの。その旨を私たちに先生が説明しようとした時に彼女は声を荒らげてこう言ったの」
委員長の声には怒気がこもっていく。
僕はなにかすごいことがあったのだろう、と思い息を呑んだ。
「親の話はしないで。あんな親、死んじゃえばいいんだ。って」
僕は呑んだ息を一気に口から出してしまった。
委員長がそんなにも腹を立てている理由が分からなくなってしまった。思春期の少年少女には親との喧嘩なんて日常茶飯事ではないか。
「私すごく彼女の言ったことが信じられなくって。だって私、そんな風に思ったことないもの。それでね、勢いで彼女を怒鳴ったの。どうしてそんなことが言えるんだってね」
僕は無言で頷いた。委員長の育ちが良すぎるのではと思ったけれど、ここで口を挟んで話を止める気にはならなかった。
それで私が怒鳴ったら、クラスの女の子が便乗してきたの」
委員長はそう言ってから、便乗って言い方は少し変だね、と小さくつけたした。
「でもね、彼女たちも転校生ちゃんに苛立ちを感じてたみたい。ほら、阪井くんいるじゃない?」
僕はそこで阪井が出てきたことに驚いた。
「彼、すごく女の子に人気あるってことは知ってるよね」
「知らなかったよ」
僕は正直に答えた。素直に驚いているところだ。彼はそんな素振りを一度も見せたことがないから。
「そうなんだよ。彼が彼女に好意的な視線を向けていたらしくて、女の子たちが怒っちゃったのかな。彼女たち、私が彼女を責めたのを口実に好きなように罵倒し出したの。今思えば私が全部悪かったのよね。転校生ちゃんに謝らなくちゃ」
あの時聞こえた批判と罵倒の声はクラスメイトのだったのか。一つ謎が解けた。
委員長は申し訳なさそうに苦笑いをしていた。
「なるほどなんとなく掴めた。つまりクラスメイトたちは彼女が気に入らないから彼女一人に片付けをさせようとしたわけだ」
「その通りよ」彼女は観念したように言った。「私は加担するつもりなんてなかったんだけど」
「女の子は怖いね。でも残念ながら一人では片付けてないよ。僕が手伝ったからね」
彼女は伏せ気味だったまつ毛を上げて意外そうに、
「そうなの?ごめんね、迷惑かけて」
と言ってから軽く頭を下げた。
「気にしないでいいよ。そんなことがあったんだね」
そんなつまらないことで彼女は孤立しているのか。ある意味では僕も被害者だなと思った。
そんないじめまがいのことのせいで僕は彼女のことをこんなにも知ってしまったのか。苛立ちを覚える。
「さて、もう暗いし帰ろうかな」
僕は席を立つ。
委員長は腰を上げて、本当にごめんねと言った。
「本当に気にしないでいいよ。それに、先生だって悪いとは思わない?そんなことがあっても生徒を咎めたりしてないんでしょ?」
自分で言ってから気づいた。なんて無責任な先生だろう。いじめを黙認しているようなものじゃないか。
「確かにそう言われれば、そうだけど」
彼女も困惑した表情をしている。
しかしいくらここで先生を批判しても無駄だろう。
僕は委員長の横を通って出入り口に向かう。またね、と彼女に一言残して。
扉を開けると熱気が僕の顔を撫でる。突然聞こえるようになったセミの声が気だるさを思い出させた。
そこで今日は自転車ではないことに気づいた。父親に電話をしようと携帯電話を開くとメールが父親から五通ほどきていた。かなり心配をかけてしまったようだ。
親か。
コールをしながら自分の父親のことを思った。そして。
彼女の親はどんな人なんだろうか。そう思った。
電話の呼び出し音とセミの声が混じって僕の頭を渦巻く。
父親の心配した声が僕の耳に届く。
問題ないよ、少し寝ていただけだよ。
そんな風に父親をなだめながら、真っ黒の空を見上げていた。