溝
きっと彼女は思い出に浸っていたのだろう。
確証はない。
彼女の行動ではなく、彼女自身、ここにいる彼女自体が単なる《僕の想像》だと自信を持って否定できない。だからもしかすると、僕の思った通りになっていて、確証どころかまるっきりの真実だと言えないでもないのだ。今の段階では。
僕は彼女に近づく、なんてことはしなかった。
僕は教室の入り口に立っていて、彼女は自分の席に座っている。この距離は、僕らが出会ったばかりのころのそれと、同じだ。
今の僕たちの距離もこんなものだろう。
だから近付くなんてことはできなかった。
彼女は窓の外を眺めたままだ。彼女の目がなにを捉えているのかは皆目見当がつかない。ここからではまったく、なにも見えない。
ただ、彼女の傍によれば、あるいは見ることができるかもしれない。
そうするだけの勇気を僕が持ち合わせていないだけだ。
だからここから眺めているわけで、彼女との距離はこの状態で、彼女はこちらを窺う様子もないのだ。
溝っていうのは初めからあるものじゃなくて、水が流れたりしてできるものだ。この場合、水がなんなのかは枚挙するのに暇がないけれど、溝ができてしまっていることは確かにわかることだった。
「お父さん、見つかった?」
僕はあらん限りの勇気を振り絞って彼女に問うた。
彼女は僕のほうを見ることなく、首を振った。
「もし見つかったとしても、君には関係ない………なくもないか。でも、関係があったって、君がお父さんのことを心配する必要はこれっぽっちも、」こっちを見ずに親指と人差し指の間にスキマを作って見せた。「ないんじゃないかな?」
正直、僕のところからはその隙間がはっきり見えないが、どうやら消しゴムくらいの大きさのようだ。
「そうだね、確かに、そうだ」
僕はそう答えた。
本心ではそんな風に思っていないけれど、こんな距離では言ったところで伝わらないことは自明の理だ。
不意に時間が気になった。
彼女はいつも何時ごろに起きているのだろうか。場合によっては、タイムアップ間近なのかもしれなかった。
聞いてみると、彼女はいつも六時半には起きているとのことだった。なんでも、最悪でもその時間には母親が起こしに来るだとかで。
もう一度時間を見る。
となると、あと二時間ほど、かな。
気にならなかったせいか、知らないうちにもう僕の腕時計は四時半を指していた。
夢のなかだと時間が過ぎるが早いようだ。
だとすると、こうぼやぼやとしていられない。
僕は彼女に提案した。彼女はこっちを見ないままで、いいよと答えた。
二人して目を閉じた。
踏み切りの音がだんだん大きくなってくる。
と思ったら、音を反転させて遠くへと離れていく。
小刻みに揺れる感覚が頭の奥をコンコンと叩く。
目を開けて、正面に座っている彼女のほうを見据える。
彼女は目を閉じたままで、こちらを見ない。僕も彼女のほうを見てはいるものの、それは外を眺めているだけで彼女を見ているわけじゃない。だからおあいこだ。
赤色をした座席は、なんだか安っぽく感じられる。昔となにも変わっていないのは、再現されているままだからだろう。
外の景色は、意外に綺麗に再現されていた。さっきの交差点みたいに、灰色の景色のなかに放り出されるかと思ったけど、思い入れが深いところだけにそんなことはなかった。