所詮不安は自分の為で
喫茶店を出て、僕らそれぞれが家路に就く。
僕がバスに乗ると琴乃も同じバスに乗った。どうやら帰る方向は同じようだ。
ちょうどいい、と思い、僕は琴乃に僕の母親の話をした。
僕の母親は事故で死んだ。とはいえ、僕はそのときのことをはっきりと覚えていない。小さいときのことだったからだ。
小学生のときに、親友である彼を亡くす前のことだ。幼稚園、もしくは入園以前のことなのか。僕の記憶を探る限りでは、自分がまだ母親の膝ほどしか丈がないときのことだったことぐらいとしか覚えていない。いつ母親が死んだのか、それを父親に聞こうとすると彼は黙ってしまう。僕は小学生の高学年から母について興味を持ったが、父親の隠すような仕草や物腰に、知ってはいけないことと思い、いつからか母がいつ死んだのかを知ろうとしなくなっていた。
知ろうとしなかったが、二つだけ知っていたことはあった。
一つは僕が母の死に目に立ち会っていたこと。まるで世界からの報いのような事故だった。母が受けるべき報いなんて存在しないはずなのに、赤信号を直進してきた大型トラックは母の身体を一瞬にして無残な姿に変えた。即死だった。僕はその場面を目撃していた。小さな僕が母に押されて歩道へ戻るところ、母が……あるはずもない報いを受けるところ。それらを僕は間近で見ていた。
そして二つ目に、不明瞭な記憶のなかに、僕が二度、母が死ぬところを目撃していたような、そんな違和感があること。小さいころの視点とは明らかに異なる視点から見たような、そんな記憶。それは親友であった彼を亡くしたあの日の前日に見た夢と、今思えば似通っている。ただのデジャヴかもしれないけれど。
琴乃は僕の話を最後まで聞いてから、無理に話さなくても良かったのに、と言った。
彼女なりの、気遣いだろうか。きっとそうなのだろう。
彼女は窓の外を見ていて、僕と目を合わせることはなかった。ただ、時折、窓に映る彼女が僕のほうを伺っているようにも見えた。
彼女は、無理に話さなくても、と言ったけれど、僕は話さずにはいられなかったというのが正直なところだ。彼女の秘密ともいえる話を喫茶店で聞いてから、僕だけが自分の秘密を隠しているように思えてならなかった。だから、これはただの自己満足なのだ。
それに、
「僕は別に無理に話してなんかいないよ。小さいころのことであまり覚えていないし、今更話したところでどうにかなるわけでもないよ」
そう僕は彼女に言った。
自分で自分の言ったことに少し驚いた。
けれど、今更どうにかなるわけでもない、と言えた自分が少しだけ誇らしくもあった。
琴乃の顔は見えない。
でも、彼女は今微笑んでいるような気がした。
家に帰ると、父親が忙しなく家の中を歩き回っていた。
いつもは必要最低限の動きしかしない人間なのに、あまりに動き回るものだから声を掛けずにはいられなかった。
「何かあったの?いつになく忙しないけど」
父親は足を止めない。
「別に、何もなかった。今日も平和な一日だった」
「それならいつも通りおとなしく座っていられるはずだけど?」
「そうだな。でも俺だってたまには動き回りたくなるときもあるさ」
父親が自室へ入っていった。
やっと終演だろうか、おもしろくもなんともない、その上よく分からないショーだったと思っていたが、部屋からはまたしても忙しなく物音が漏れ出してくる。どうやら終演なんてものではなかったらしい。
自室から出てきた父親は、なぜかスーツをまとっていた。
彼がスーツを着るのは冠婚葬祭、もしくは外での仕事のあるときだ。建築士の父親の自室兼仕事部屋にはスーツなんて一着しかない。もしかするとどこかにあるのかもしれないけれど、僕は一着しか目にしたことがない。
スーツを着た父親に何度もどうしたのか聞くも、結局答えてくれることはなく、忙しないまま家を出て行った。ショーではないのだ、終演だなんてなくて当たり前だ。
すでに夕刻という時間は過ぎているから通夜だろうか、仕事にしては遅すぎる時間だし。
ふとそのとき、今日もどこかで誰かが死んでいるのだろうか、と思った。
そのとき、琴乃の顔が頭に浮かんだ。
行方が分からない。よくよく考えてみれば、僕はそんな不安を抱えたことがなかった。大切な二人は、僕の知っているところにいる。もうどこにも居ないことを知っている。だから僕は人を知ることが怖くて、知ったことで人を失ってしまった悲しみができるのが怖くて、そんな不安しか抱えてこなかった。
彼女の抱える不安がどんなものか分かったことなんてなかった。
知らないところで、苦しい思いをしているかもしれない、既に息絶えているかもしれない。
それは死んだ人のことを憂うよりも、どんなに辛いことだろう。
僕は立ち上がって背伸びをしてから携帯電話を取り出した。
彼女にメールをしよう。具体的な内容を決めよう。そして――彼女の父親を見つけ出そう。
僕にできることは所詮、この程度だ。
それでもやっぱり、彼女の力になりたいと思った。