頻出理論と苦いもの
「もしかすると、手助けしてもらえないかと思っていたから……とても嬉しい」
彼女はそういうと、僕のほうを見た。
彼女の感謝が、眼差しになって僕のほうへ向けられているような気がした。
僕はそれを直視できない。
目をそらして、カップへ視線を落とす。
何か言葉を発しなければしけないように思えてならない。でも、そんな思いとは裏腹に、唇は閉ざされたままだ。何か言おうと思っても、喉が小さくうなるだけだった。
彼女を見る。カップを口元へ運んでいる。一口飲むと、僕のほうを見て、苦いですね、といった。心なしか、表情は和らいでいた。
――苦いなぁ。
そのとき、昔、親友だった彼のことが思い浮かんだ。
夏も始まったばかりの頃、自家栽培しているゴーヤができたと言って、彼は僕を家へ招待した。僕も彼もゴーヤは苦手だった。一口ずつ食べて、苦い苦いと笑いあっていた。
苦味も何も、まだ理解できなかった頃のことだ。今となっては、ある程度の苦味だってへっちゃらだ。
コーヒーを少し啜る。少し冷めたコーヒーは、風味が逃げてしまったのか、苦味だけが残ってしまっている。
苦いね、と僕は彼女に言った。
彼女は、そうですね、とうなずいた。
「私からのお願いは、父を探す手伝いをして欲しいということなんです」
彼女の口から放たれた言葉に、一瞬だけ、僕は呆然とした。
彼女の表情は、また硬くなっていた。
僕は、率直に、疑問が浮かんだ。
「自分を置いていった父親を、どうして?探す必要なんてあるの?」
僕には、到底、あるように思えない。過去のことは、忘れてしまいたい。そうして、時間が解決してくれるのを待つのだ。そのくらいしか……。
僕に、彼女は、いいえ、と首を振った。
「父を探す理由なんて、ないですよ。このまま、放っておいて、母と、祖父母と、私で暮らしたって問題はないです。むしろ、そのほうが良いかもしれない」
「それならどうして?」
「……父の置手紙に、こうあったんです。『俺はこれから帰ることはないだろう。きっと君たちに会うこともない。けれど最後にこう言わせて欲しい。またね』。父はどちらかといえば寡黙な人でしたから、こう書いてあったときに私は違和感を感じたんです」
確かに、突然の失踪にしては、置手紙をする、再会を望む挨拶をする、と違和感を感じる部分が多い。
「なるほどね、つまりは自分たちのための、失踪の理由があったと」
「そうだと思います」
彼女の父親の気持ちなんて分からない。僕は他人だ。それに、家族のために、家族の前から居なくなるなんて、ばかげているとしか思えないから。
残された彼女が、居なくなった親しい人の気持ちを知りたいと思うのは、当然だろうか。
残された僕が、居なくなった親友の気持ちを知りたいと思うのは、当然だろうか。残された僕と僕の父親が、居なくなってしまった家族の気持ちを知りたいと思うのは当然なのだろうか。
少し無言の間があって、僕は彼女にこう問いかける。
「必ず現実になる夢を見て、それが悪夢だった。その運命は回避できなくて、どう足掻いても回避できないようになっていて、結果、回避できなかった。最後まで何も伝えられずに、知ることもできずに、結末を迎えてしまった。……僕はあの時、どうすればよかったんだろう」
僕の過去。あの夏の日の。
僕の過去。母を亡くした、あの日の。
最後に立ち会っていたのに、何もできなかった僕は、どうすればよかったんだろうか。
「どうすればよかったではなくて、これからどうするか、じゃないでしょうか」
空になったカップを置いて、僕にそう言う彼女。
ありきたりな言葉だ。でも、彼女の言葉には力があった。どうにもできなかったことを、後悔するなと、前を見ろと。
硬い表情から、彼女は笑った。強張った笑顔だった。それでも。
「そうかもしれないね」
僕は残っていたコーヒーを飲み干す。
口の中に苦味が広がって、少し経つと流れていった。
カップを置いて、僕も強張った笑顔を見せた。