ガラパゴスウイルス
阪井と分かれて帰宅する頃には、もう日は西の空に沈みかけていた。
未だ、彼女のことが気になる。
僕は元来、あまり人のことを意識したりする性質の人間ではないのはご存知のことかと思う。それはやはり、と言いたくはないのだが、過去の経験ーーあの夏の出来事が深く関わっている。それはまず間違いない。
あのとき僕が無理を言わなければ、逃げ出すことがなかったなら、彼――たった一人の親友だった彼を失うことはなかったかもしれないと。僕の頭に回想がよぎるたびにそう思ってしまう。
彼との関係が険悪でなかったがゆえに、また彼がやさしかったゆえに僕は過ちを犯したのだ。
変わらない事実として、これは僕の記憶に一生残ることになるだろう。
夕暮れの空はいつもと同じように、いや、それ以上に赤く染まっていた。
非健康的ではあるけれど、僕は学生らしく休日前夜の開放感に浸って夜更かしをしている。
自室でパソコンを開いてネットサーフィンにうつつを抜かす。
これといった趣味を持たない僕は、休日や時間のあるときはネットサーフィンをする。ある意味、これが趣味といってもいいかもしれない。
なにを調べているとか、なにか目的あっての作業ではない。それゆえ、ネットサーフィンに飽きてネットゲームに励むこともしばしばだ。ただ、ゲームも大好きというわけでもないから、それにも飽きてしまうことままもあるが。
机の上の置時計を確認するとすでに一時を回っていた。
いつもならば、ここで寝なくてはならないと思うところではあるのだが、さすがに休日前だ。多少の夜更かしを是としてしまう。
一階の居間からはテレビの音が聞こえてくる。
父親が晩酌を一人で酌みつつ眺めているに違いない。酒の肴でもあるまい、電気代がもったいないというものだ。
そんな家計を気にする主婦のようなことを考えても、僕は主婦ではないしこの家の財布を預かっているわけでもない。酔っ払いに絡まれでもしたら事だ。
画面の前から一向に離れる気配のない僕は、客観的に見て、社会不参加者いわゆるところのニートのようだろう。もっともそうでないのは僕の生真面目さを知っていただければ分かるものだが。
授業は皆勤、無遅刻無欠席、多少の風邪なら休んだりはしないもので。
学生としてはめずらしい――いや、少なくとも僕の学校では珍しい生真面目さだ。別に我が校が不真面目な生徒の集まりというわけでもないし、そんなにお 馬鹿な学校でもない。少し頭はいいけれどトップレベルでもなければ県内進学校のなかで最低というわけでもないから、ある意味、中だるみということかもしれない。決して僕はたるんだりはしないが。
携帯の着信音が鳴る。
無音の部屋に突然音が生まれてびっくりする。
送り主は、登録されていない相手のようだ。
件名を確認しても、括弧でくくられた、無題の二文字しかない。
はて、一体全体誰からだろうか。
中を確認して、アドレス帳から連絡先が自動的に返信される類のウイルスが!という可能性を一瞬疑う。まぁ、僕の知っている連絡先なんて両手で数えられるかられないか程度なのだがしかし、よくよく 考えてみれば、僕の携帯はガラパゴス携帯だ。この手の携帯にあまりウイルスはないと耳にしたことが、というよりネット上で見たことがある。
とりあえず一安心してメールを開く。
いつもと変わらぬ画面の表示に一安心する。
しかしその数秒後、僕は自分の目を疑った。
彼女からのメールだったのだ。転校生の彼女からの。
そんな関わり方はしていない上に、メールアドレスを教えた記憶すらなかったので大変戸惑った。
深呼吸を二、三分繰り返してか呼吸になりかけて冷静な思考を取り戻す。
危うく倒れてしまうところだった。たかだかメール一通でも高をくくってはならないものだと、あまり必要のなさそうな教訓を頭に叩き込んだ。もしかすると将来、役に立つかもしれないし。
そして本文の内容の再確認だ。
『貴方のクラスの転校生です。メールアドレスは委員長経 由で阪井さんから教えていただきました』
なるほど僕の周りには個人情報の扱いに関して至極雑な人が多いようだ。厳戒しておかなければ。
『今回メールしたのは当然用があるからです。具体的なことは会って話します。明日の午後、二時ほどに駅前でいかがでしょう?』
またしても度肝を抜かれた。突然の誘いだが、なんだか断ることはできない。
僕は、とりあえず了承の意を伝え、ついでに登録のために彼女に名前聞いた。
彼女の名前を、僕は知らなかった。
翌日の朝、天気は快晴だった。
天気予報士は画面の向こう側で、今日は一日晴れるでしょうと言っている。空模様通りの予報だ。
約束通り、転校生ーー琴乃という少女との待ち合わせに駅前へ向かう。
昨日、やっとの事で聞き出すことができた名前は下の名前だけだった。かなり渋っていたが、交渉術を調べ上げ、実践するのを繰り返した果ての功績だ。
待ち合わせ時間十分ほど前に到着する。
男としての常識らしいが、僕にはいまいち先に到着しておくことに優れている点があるように思えない。そもそも五分前集合という標語が全国的に普及しているのだ。男女ともに五分前集合するべきではないのか。
そんなことを思うのは、浮き足立っている自分がいることに戸惑っているからだろうか。
なんだかさっきから落ち着かない。
靴紐を結び直してみたり、時計を何度も確認したり。
そんなことをしていると初めてのデート前のようだ。
もっとも、彼女の姿が見えた頃には、僕は座り込んで飽きれた顔をしていたのだが。
左手首を確認する。短針はすでに横を向いている。
――さすがに一時間遅れとは、どんな度胸をしているのだろうか。
そんなことは知ってか知らずか、琴乃は僕のほうをいつもと変わらぬ表情で見ていた。