差す日差しは単純明快
己の無力に打ちひしがれながらの家への帰路。
降っていた雨は止んでいる。雲は東の空へ運ばれていって、西の空に浮かぶものはなにもない。
アスファルトの凹みにできた水たまりを眺める。濡れた自転車のサドルを手のひらで撫でる。
息苦しい。
空は開放されていて、閉塞感の欠片も感じない。それなのに、肺を直接握られているような息苦しさだ。深く吸い込もうとしても、横隔膜は動こうとはせず、僕は苦しさを受け入れるしかないように思われた。
夏の夜は明るい。暗くなりつつはあるものの、それでも数メートル先までは視界がハッキリとしていて、明るい。
公園の灯りはもうついていた。
灯りの近くのベンチでさっき別れたばかりの転校生が一人、灯りを頼りに本を読んでいるのに気づく。
自転車を降りて彼女に近づく。
「なにを読んでるの?」
声をかける。
顔を上げた彼女は僕のほうを見て、瞬きを数回する。
開いたままの本の表紙を僕に見えるように掲げてくれた。
――見たい夢を見るための本。
大きく書いてある「夢読本」というタイトルのした、帯にある文字。
夢を見るための。
変わった本を読むものだ。
「おもしろい?」
「興味深い」
一言ののち、再び彼女は本に視線を落とした。
顔には確かに、わずかながらに興味の色が浮かんでいる。
僕は自転車を停めて、彼女の隣に腰を下ろした。
「少しいいかな」
彼女からの反応はないけれど、僕は言葉を続けた。
「変な話だけどさ、僕がなにかしようとしてできることっていうのは、ごく限られているよね」
「具体的に言うと?」
彼女は僕のほうを見ていた。
「例えば…そうだね、僕が夢を見たとしよう。これは寝ながらに見る夢のことだよ」
彼女の持つ本の帯を指差す。
「僕が見た夢を叶えようとしても難しい。内容にもよるけれど、この内容によるってことがすでに限界を決めていると思うんだ。僕がなにかをしようとした時点でそれができるかはある程度決まっているってことだろうね」
彼女は要領を得ないようだ。頷いてくれてはいるけれど、つまり?という問いが浮かんでいるのは様子を見るに明白だ。
「夢に限らず、僕がやりたいと思ったことにだって限界があるんだよ。それができなくて募るもどかしさって、夢に焦がれるのとは当然違って苦しい。……ごめん、変な話で」
彼女は別にいい、と言って本に視線を再度移した。
かなり雑というか、細部を省きに省いて話してしまった。そもそも、具体的な話ではないし、彼女にとってみれば、意味不明な話を聞かされただけだ。理解してもらえたとは思えないし時間を浪費させてしまったかもしれない。
でも少しだけ、彼女を犠牲にはしたけれど、息苦しさはなくなったような気がした。
翌日には天気は完全回復していた。
終業式まで残りわずか、二日後には式が行われる。
浮かれた少年少女が素直に授業に集中できるかといえば、否だ。当然、私語を慎むはずもなく、そして前を向かない生徒も多い。
僕も例外ではない。
昨日の夕方から続く快晴に、空は青を深めている。そんな窓の外にある空を、窓から離れた席から眺める。
こんな日にはどこか遠くへサイクリングに行きたいなと思うあたり、無責任な親父の趣味がうつった気もする。親父という人は、どうにも面倒くさがりで、必要がなければ外には出ないのが常道なのだが、サイクリングという唯一の趣味においてはその範疇ではない。彼は気の赴くまま、晴れた日にはフラリとどこかへ放浪に行くのだ。
外は冷房のきいた屋内とは違い、遠くの景色が揺らめくほど暑いようだ。サイクリングに行きたいなという気も、この暑さでは萎えてしいそうだ。外に出たら気が変わるのだろう。
「お前ら、長期休暇前だからといって授業を聞かなくてもいいわけじゃないんだぞ」
とは板書の手を止めた先生の言なのだが、そんな言葉をまともに聞く者もなく、お小言はチャイムの音で遮られるのだった。
休み時間に阪井が僕の席へやってきた。
「転校生は女子とあまり仲が良くないようだな」
と今更かと思うことを彼は僕に言った。
そんなことは知ってるよ、少し前にはもう気づいてたよ、と返す。
女子達の陰湿、ではない、はっきりとした行動は、ある程度の男子は感づいているようだ。噂に疎いというわけでもなく、むしろ積極的に人を知ろうとする阪井が知らなかったというのは少し意外だ。それ以前に、この彼女が孤立するという現状の原因は君にあるのだから知っておけ、なんて理屈は押し付けがましいけれど。
――原因は彼にある。
ふと思い至る。原因である誤解を解けば、もしかすると状況は……変わるのだろうか。
彼に協力を仰ぐことで、彼女の孤立状態を解消できるのでは?
がんじがらめになっていた糸がある拍子にするするとほどけるように、もやもやとした心が晴れる。
思い立ったが吉日だ。
これから僕は阪井に初めてものを頼む。
協力を、仰ぐ。
それがどんな結果になるかは分からないけれど、僕には彼を頼るしか方策がなかった。