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1.1923 夢滴と消ゆ [3/4]

[1-3/4]

 地震のあったその日、幹久は戻って来なかった。

 姉弟は(ゆかり)を連れて学校に戻り、ほとんど真っ暗な闇の中、避難してきた近所の人たちと肩を寄せ合い、震えながら校庭で一夜を明かした。何度も余震があったが、最早悲鳴をあげる体力すらなかった。心身ともにみな疲れ切っていたのだ。

 やがて夜は明けたが、稲穂繁る田はところどころ焼け、焦げの臭いが空気にこびりついていた。見渡す田園には燻る火が点々と、未だ黒い煙をあげ続けている。

 大人たちは手分けして火を消し、村の生き残りを探す。それだけでまた夜が来て、朝が訪れる。その頃ようやく祖父が街から帰ってきた。

 街も同じような状態だったらしい。木造の建物は大半が焼けてしまったそうだ。昼餉の用意をする時間どき、火を使っていた家庭は多かった。それが、大火事の原因を作った。

 幸いにも村の備蓄庫は、崩落したものの火に巻き込まれはしなかった。焼けずに残った食糧をみなで分けながら、伏雁村(ふせかりむら)の人々はのろのろと復興の道を歩き始めた。

 焼けたものは建て直せる。だが失われた命はもう戻ってこない。それが人々の重しとして足を引く。母代わりを失った姉弟、そして紫も同様だった。

 立花の遺体は燃え残らなかった。幹久が、遺骨だと言って持ってきた骨壺を、墓地に埋めて弔った。紫はまだ母を亡くした実感がない。しかし煬介は、はっきりと立花の死を見てしまった。

 あれが、人の死というものなのだ。

 あの日聞いた、助けを求める無数の声が耳から離れない。あの中の何人が助かったのだろう。ぐるぐると回るような感情を、煬介はまだ理解できない。自責という名の後悔だった。

「ようちゃん、ようちゃんはどこにも行かないでね」

 母に二度と会えないのだということを呑みこみ始めた紫は、ぎゅっと煬介の手を握ってそう言った。

 煬介はその手を握り返す。

「もちろんだよ。紫ちゃんはおいらが守ってあげるんだ」

 そう、炎や煙に立ち向かうのはとても恐ろしかったけれど、煬介は紫を助けることが出来た。

 立花はもういない。だったらその代わりに、煬介が紫を守るのだ。一つの体験を期に、煬介はそう、強く決心をした。


 やがて本格的な秋が訪れる。

 その頃、伏雁村は一応の平穏を取り戻しつつあった。収穫期に入ったためである。死者を偲ぶばかりでは飯は食われない。否が応でも顔を上げ、現実と向き合う必要があったのだ。

 幹久も薬売り巡業を再開していた。その日、建て直した長屋で紫と共に遊んでいた煬介は、祖父が見知らぬ男を連れ帰ったのを見た。

 立派なひげを蓄えた、のっぽの紳士であった。灰色の帽子を取って彼は挨拶をした。煬介も丁寧にお辞儀をし返すと、紳士は目を細めて少年たちに近づいた。

「紫、こんなに大きくなって。おまえだけでも無事でよかった」

 目をぱちくりとする紫を、紳士がぎゅっと抱きしめた。

「おじさんは、だれ?」

 そこへ、いったん家に引っ込んだ幹久が顔を出した。

 曰く、紳士は紫の父親なのだという。煬介は飛び上がった。

「おじさん、うっそつけ! 紫ちゃんに父ちゃんはいないんだ!」

 紳士は困ったように眉を下げると、答えた。

「いや、きみが怒るのももっともだ。……今まで別々に過ごしていたのだからね。だが、私は紫の父なのだよ。正真正銘、本物の」

「だったら、証拠をみせてみろっ」

「これ。やめんか、煬介」

 幹久がぱっと煬介の手足を捕まえる。見上げると、祖父はゆっくりかぶりを振った。

「紫ちゃんのお父君は、帝都で造船業をなさっているのだよ。お忙しくて、なかなか会いに来られなかったんじゃ」

「妻が……紫の母が死に、紫が独りぼっちになってしまったと狗堂さんに聞いてね、慌ててやってきたのだ」

「紫ちゃんは独りぼっちじゃないやい、おいらたちがいるもん」

「しかしだ、煬介。紫ちゃんのお父君がご健在な限り、紫ちゃんはお父さんと暮らすのが一番良いんじゃよ」

 煬介は目を丸くして紳士を見た。

「それって、おじさんが紫ちゃんを引き取るってこと?」

「そうだよ……今まで、紫と仲良くしてくれてありがとう」

 紫と手を繋いだまま深々と頭を下げる紳士に、煬介は言葉を失う。

「ゆかり、お引越しするの?」

「うん。今まで寂しい思いをさせたね、これからはパパと一緒に暮らすんだよ」

「やだっ!」

 紫は紳士から腕を振りほどいた。その刹那、煬介は両手を掴まれた状態で幹久の膝を蹴り、くるりと一回転した。ねじれた腕に、幹久は反射的に手を放す。

 煬介は着地すると、紫の手を取り、風のように小道へ駆け抜けた。

「待たんか、煬介!」

「紫!」

 やるようになりよったわ、という祖父の呟きを背に、煬介は紫を連れて逃げた。

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