[1916 後]
[1916 後]
幹久が朱雀亭に到着したのは、既に夜半頃であった。朱雀亭の門は堅く閉ざされ何者の訪問も今は拒んでいたが、幹久は易々と木を介し、侵入する。
こずえとアカリを連れ出す、その手筈は整っていた。侵入者であるはずの幹久に刺客はかからない。屋敷に配置されている忍天狗は、その多くが幹久の弟子であった。
幹久は年を取った今でこそ運転手をしているが、かつては焔村の名の下で活動する忍天狗だった。娘のこずえにそのことを明かさずに来られたのも、その功績があったからこその皮肉である。
「狗堂どの」
お屋敷の庭に下り立った幹久を手招いたのは、兎丸銀二であった。
「兎丸どの、しばらくぶりです」
「このような形でお会いするとは、残念ですな」
「いや、まったく」
銀二が投げた分銅が、幹久の足を取った。
鎖巻きつくのはしかし脚ではない。銀二はそれに気づいた。松の幹である。
「やっ」
半身をずらして直撃を避けていた幹久は銀二に接近する。銀二はとっさに鎖を、その先の鎌を手放すように投げた。走る幹久がそれを回避する。銀二は跳躍すると、両腕でつかんだ松の枝でくるりと回転し、音もなくその上に立つ。細い枝は折れぬ。
「兎丸どの、行かせてはもらえぬかな」
穏やかに幹久は話しかける。銀二の左右不均衡な顔がさらに歪んだ。
「娘ごは二子を産んでおる最中じゃ」
「なんだと?」
幹久の反応に、銀二はにやと笑った。
「そのご様子では、よもや、妊娠していることを知らずに来られたか」
「……孫が一人であろうと二人であろうと、このようなところにおいてはおれぬ」
「ではわしを退けてから、会いに行きなされ!」
折れ曲がった腰にそぐわぬ俊敏さで、銀二は上空から飛び降りる。幹久は同時に降ってきた刃の雨を跳んで避ける。撒菱である。
銀二は地に刺さっていた、鎖鎌を抜くと分銅を振る。撒菱に周囲を囲まれていた幹久は先ほどのように素早く避けることができず、左腕を絡め捕られた。
「身一つか、幹久どの」
ぎりぎりと、鎖に左腕が締まる。銀二はそれをぐいと引いた。幹久は体勢を崩す。鎌の刃が眼前に迫った。
そこに、幹久は組み付いた。腕に巻きつく鎖で鎌先を殴打し弾き飛ばすと、鎖を持つ側の銀二の脇を踏み抜く。苦悶の表情を浮かべて仰け反る銀二、その鎌を手放した腕を足で取ると、横倒しの肩に膝を乗せる形で体重をかけた。
ぼきと、音がする。鎖骨が外れたのだ。
「おまえさんを殺すのは惜しい。今宵はこれで失敬する」
言い置き、幹久は唸る銀二の腕を放すと、闇の中へと溶けていった。
おぎゃあ、おぎゃあ、と赤ん坊の泣く声が響く。
沐浴を終えた赤子が、こずえの肩口に降りてくる。その子を抱きとめながら、こずえはほうと息をついた。
「男の子か」
枕元には父、幹久があぐらをかいていた。アカリがその膝の上で、うつらうつらと舟をこいでいる。もう夜も明けるころだろう。
「父さん、千晴さまは……」
「うむ」
襖を振り返り、幹久は言葉を濁す。
「よもやそこまで、外道とは……と、思うが」
「父さん?」
揺れた拍子にか、アカリがぱちんと目を覚ます。眠がる娘の頬をつまんでやりながら、こずえは父を見上げた。
産婆が引き上げていく。無事に生まれたというのに、誰も子の様子を見に来る者はいない。その静けさが妙に、お産直後のこずえを不安にかりたてた。
「こずえよ、わしはあまり長居出来ぬ」
そう、父は規律を破ってここにいるのだ。
こずえは幹久を見つめ、意を決して言った。
「アカリとこの子を頼みます」
「生まれたばかりの子をか」
「ここにいたら人を殺す道具にされてしまいます……それだけは避けなければ。私はまだ動けませんし、千晴さまを独りにはできません」
予感を感じて、こずえは目を細めた。
「―――父さん、どうかお元気で」
別れの言葉に父は何も返さず、無言でこずえの額を撫でると、赤ん坊を抱き上げた。
赤子を固定するように胸に巻くと、幹久はアカリを背負う。そして現れた時と同じように、襖を音もなく開け、消えるようにいなくなってしまった。
「どうか、ご無事で……」
幹久が去っていたのと反対側の襖の向こうで慌ただしい足音が近づいてくる。
がらと襖を開けたのは、鬼気迫る表情の旦影であった。
その左手が刀を、それも紅の滴りが刃を鈍らせているのを見て、こずえはひっと肩を起こした。
「けしかけたな、この鬼女が!」
「何を……」
「落ち着きなされ、次代様!」
「離せ!」
旦影の腰に組み付いたのは銀二だった。左手をだらりと下げ、右手だけで絡みつくように旦影にしがみついている。
血に塗れた切っ先がこずえを向いた。
「貴様のせいで、わしの儀は先送りじゃ。産んだ子はどこだ? 一家諸共斬り殺してくれるわ!」
「赤子はここにはおりませなんだ……奪われました」
「何だと?」
銀二はしがみついたままの姿勢で答えた。
「子は二人とも、狗堂が連れて行きました」
「ちい……千晴め、最期まで禍根を残しおって」
「お、お待ちください、千晴さまは……」
震える腕を伸ばしたこずえに、旦影は急ににいと気味の悪い笑みを浮かべた。
「おまえ、この剣の血糊を何だと思ったのだ?」
旦影はさっと縁側に戻ると、何かをずるずると引きずりながら現れた。
こずえは遂に悲鳴を上げる。
「いやああああ!」
「おまえの招いた事よ! とくと見ろ、おまえの夫じゃ!!」
白銀の髪と着物は赤黒く染まっていた。見紛うものか、切り刻まれたそれは変わり果てた千晴の姿だった。
無残な屍に這いつくばるように、こずえは慟哭する。その髪を旦影が乱暴に引いた。
「おまえは殺さんでおいてやろう。この因果を見届けるがいい、わしが当主になる日までな!」
旦影の継承の儀は行われず仕舞い、とは風の声より幹久の耳にも伝わった。
兄弟喧嘩の果てに兄を殺害したことが、当代様の逆鱗に触れたらしかった。それがどうやら幹久に追手が付かぬ理由であることも、同じ風に聞いたことである。
こずえがどうなったのか、そこまでは分からなかった。もはや幹久は葉隠山に戻ることは出来ない。追放同然で、幹久は忍天狗をはぐれたのだ。朱雀亭を訪れるときは、今度こそ死を覚悟せねばならぬだろう。
しかしまだ幹久は死ぬわけにはいかぬ。乳飲み子とその幼い姉を、焔村の手に渡すわけにはいかぬ―――子らの母と父がそう願った限りは。
「まずは、おまえに名を授けねばならぬの……」
無邪気に笑う赤子に、幹久は目を細めた。
[序部おわり]
序部はここまでです。次回から第一部に入ります。




