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[1916 前]

[1916 前]

 旦影(あさかげ)が、朱雀亭当主を正式に襲名することになったと、年明け早々に聞かされた。

 世襲の儀自体は春先にあるらしい。銀二によると、本来これは当代様がお隠れになるか、それも近い頃に行われるものらしいが、千影は健在である。

 こずえは第二子を妊娠していた。一方で、旦影夫妻にまだ子はない。もし生まれ来るこの子が男児であれば、次代はこの子となる可能性が非常に高くなる。

 そうなる前に、旦影を当代にしてしまおうという腹なのだ。

 こずえは寧ろ、それを望んでいた。数年前までは白子とはいえ、旦影よりずっとまともな神経をした千晴が後を継ぐべきだと思っていたが、あの恐ろしい一夜を体験してからは、全く考えが逆転していた。もし子供たちがあんな恐ろしい出来事の当事者となるようなことがあれば……こずえは未だ、忍天狗と呼ばれるこの一族の内実を知らない。殺人を犯して永らえる、この一族の呪いを知らない。知ってしまえば、これ以上の深みにはまってしまうと思われたから、誰に問うこともせぬままに来た。

 娘、アカリは五つになっていた。使用人の子と思しき、同年代の子供たちとよく遊んでいる。このまま健やかに育っていってくれれば……その矢先に、大女将はこずえを呼び出して、こう言った。

「そろそろ、アカリさんはわたくしが引き取り、育てます」

 呆気にとられていたこずえは、我を取り戻すと大女将に迫った。

「あの子は私の子です。そんなことはさせません!」

「いいえ、こずえさん。あなたは知らないでしょうがね、これはしきたりなのです。焔村家にお勤めする以上、しきたりには従っていただきますよ」

「その前に、私はアカリの母でもあります。母として、理由も知らずにしきたりというだけで、娘を手放すことは出来ません!」

 きっぱりと言い切ると、大女将は袂で口元を覆い、目を細めた。

「では単刀直入に言いましょう。今まで千晴さんはあなたに隠してきたようですが……焔村の、いえ、朱雀の家に生まれた子らはみな、幼いころから訓練を受けるのです。一族が古くから守ってきたもののため」

「それは……」

 旦影の言っていたことか。“葉隠山の忍天狗(しのびてんぐ)は人を殺して飯を食らっておるからな”。

「あなたの父君はよく焔村に仕えてくれました。それに敬意を表して今までアカリさんはあなたの手元で育てさせていましたが、もういけません」

「その訓練が、もし、人を殺すための技術を含むなら……私は、アカリを連れてこの家を出ます」

「出て、どこに行くと言うの? あなたの父君、幹久どのも朱雀天狗の一人。いえ、非常に優秀な天狗でおられるのに」

「父は……父は、しがない運転手です」

「あなたは何も知らずに育ったのですよ。幹久どのの懇願と、その働きあってこそ」

 こずえはひれ伏すように畳に額を擦りつけた。

「どうか……アカリだけはお許しください。アカリだけは……そんな、恐ろしいこと……」

「恐ろしくなどありません。これは非常に名誉なことよ、こずえさん。誤解しているようだけれど、忍天狗は殺人集団などではありません。古くからこの国の政を行う機関を支え、暗躍してきた一族なのですから」

 こずえはようやく、朱雀亭を訪れる客たちが、何をしに来ているのかを悟った。

「中でも朱雀天狗、そして焔村家は他の三つ―――白虎、玄武、青龍の上に位置し、全てを束ねる忍天狗の長なのです」

 こずえは熱弁を振るう大女将を見上げた。

 この人は何を言っているのだろう。

「―――アカリさんもきっと、その礎になることでしょう」

「お願いです、お義母様……」

 大女将はすっとこずえの正面に座すと、両の腕を取った。逃げられぬ体勢で、目を覗き込まれる。恐ろしく真っ直ぐな瞳だった。

「では選びなさい、こずえさん。アカリさんか、その、おなかの子か」

 こずえは咄嗟に庇うように、自分の腹に手をやった。

 大女将はこずえを見つめたまま、言った。

「期限は春、旦影さんが当代様になるまで。それと……」

 ぐっと腕を引かれ、こずえは顔をしかめる。

「それと、私を義母と呼んではいけません。輿入れしたとはいえあなたは平民の生まれ、幹久どのの娘でなければこれほどの待遇はありません。分をわきまえるのです」

 冷たく言い切られ、こずえは小さく、はい、と返した。


 そして、春が訪れた。

「こずえさん、おなかの子の様子はどう?」

 穏やかに話しかけてくる千晴は、縁側のこずえの隣に座り、アカリを膝の上に乗せた。

 こずえは臨月を迎えていた。もうすぐ、新しい命と対面できるはずである。

 しかし、こずえの顔は晴れなかった。

「もう少し……このままが続けばいいのにと、思います」

「そう? 私は早く、この子に会いたいけどなあ」

 旦影の継承の儀は明日行われる。様々な準備が滞りなく進んでいた。

 あの穏やかな当代様でなく、旦影が当代様になってしまったら。今後子供たちがどういう道を歩むのか、こずえは気が気でならない。それを考えると、能天気な夫の口ぶりがいやに耳についてしまった。

「名前を考えていたんだけど、どうかな、こずえさん」

「千晴さん……」

 こらえていたものが、湧き上がる。

 こずえは涙ながらに訴えた。

「千晴さん、私はこの子かアカリのどちらかを、大奥様に差し上げなければならないのです」

「何だって? 母上に?」

 千晴は眉を上げると、すり寄るわが子を見た。

「―――一体それは、どういうことだい」

 こずえは一切合財を、千晴に白状した。寝所から出てはいけないと言われたあの夜、縁側で見てしまったもののこと。それを旦影に知られ、脅されたこと。そして、大女将に子供を差し出すよう命じられたこと……話すにつれ、温和な千晴の顔が、みるみる険を帯びていくのが分かった。

「千晴さま、千晴さまもあのような、恐ろしいことがお出来なのでしょうか?」

 尋ねることすら恐ろしくて口にできなかったことを、こずえは問うた。

 千晴はかぶりを振るう。

「私は見ての通りだし、病弱だから訓練を受けてはこなかった。だが旦影は、そういった技も得意のはずだ」

「ではあの晩は、旦影さまが……」

「それは分からない。既にあなたも気づいているだろうが、この屋敷には無数の忍天狗が護衛と監視についている。―――ねノ(はつ)!」

「はっ」

 千晴が呼ぶと同時に、すっと黒い影が軒の上から降り、庭先に降りた。影は下男の格好で跪いているが、まとう空気は明らかに違う。

 千晴は影を厳しい表情で見下ろすと、踵を返した。

「こずえさん、部屋に戻ろう」

「あの方は……」

 一瞬目を離したすきに、影は形もなくなっていた。

「人払いを命じた。あれは私に忠実な天狗だ、心配いらない」

 会話をしていた風には見えなかった。だが、いつも飄々として大らかな夫が別人のように振る舞っているので、こずえはアカリの手を引いて部屋に戻ると、全ての襖を閉め切ってしまった。

「幹久に使いを出した。こずえさん、アカリとおなかの子を連れて彼のところへ行くんだ」

「千晴さまは、どう、なさるので」

「私は……父上と旦影に話をつけなければならない」

 千晴はどかりと腰を下ろすと、続けた。

「私は元来継承候補でなくなる代わりに、私の子も忍天狗にさせないという取り決めをした。あなたと婚姻するとき、改めて約束を交わしたはずなのに」

「旦影さまたちに、お子様が生まれないから……」

「多分そうだろうね」

 千晴は深々とため息をつくと、白髪をかき上げた。

「父上は忍天狗の役目を少しずつ減らしていたのだよ。天狗の力も長い月日のうち随分薄まった。人を殺して回る世はもう終わり、これからは緩やかに、密やかに生きていこうというのが父上の方針だった」

「でも、大奥様はそんなこと一言も仰っていませんでした」

「だろうね。母上や旦影は、青龍を使って何か企んでいる」

 千晴はすくと立ち上がる。

「どちらに行かれるのですか」

「準備をして、旦影たちに会ってくる。場合によっちゃあ明日の継承の儀も先送りになるかもね……ああ、きみは心配することないよ」

 見上げるこずえの頭を撫で、アカリもろとも抱きしめると、千晴はいつものように微笑んだ。

「さっきの話だけどね、生まれてくる子が男の子だったら、私は陽太郎って名がいいな」

 私は日に当たることが出来ないから、と千晴は肩を竦めた。

 よもや、それが夫との最後の会話になろうとは。

 こずえの生みの苦しみが始まったのは、その直後だった。

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