[1909]
[1909]
正月が過ぎると、こずえは再び旦影のお世話役に戻されてしまった。
とはいえ千晴の部屋への立ち入りを禁じられたわけではない。本来彼の世話役である銀二も、千晴の待遇は不憫に思っているようで、何度かこずえに話し相手を務めるよう命じてきたこともある。こずえはこずえで、奇特な人だと思ってはいるものの、旦影よりずっととっつきやすく、人柄の善良な千晴の世話をする方がありがたかった。
季節は春が過ぎ、夏が訪れ、盆になった。その頃にようやく、こずえは実家に帰ることを許されたのだった。
客の送迎役である父親とは、出迎えの際に顔を合わせることはあったが、実家で一緒に飯を食うのはほとんど一年ぶりだ。母のないこずえにとっては唯一の肉親である父だが、普段寡黙な彼は飯時にこんな会話を振ってきた。
「おまえ、千晴さまとお会いしたのか」
「え……はい」
父、幹久の口から千晴の名が出たのは意外であったが、こずえはすぐに「幼いころ天井裏から幹久はよく遊びに来てくれた」という千晴の弁を思い出した。
「父さんが、天井裏から会いに来てくれたというお話を」
「千晴さまもよく覚えていらっしゃる」
幹久は感慨深そうに目元に皺を寄せる。無愛想な父の穏やかな表情は珍しく、それがこずえの口をさらに軽くさせた。
「父さんが天狗だとも仰ってました」
「天狗?」
囲炉裏の向こうで、幹久は眉を上げる。こずえは笑みを曖昧に崩した。
「朱雀亭の人は大体が天狗だとか……千晴さま、ずっとあの部屋でお過ごしでしょう。きっとそう思い込まれているんでしょ、お気の毒に」
「千晴さまがそこまでご存じだとは」
「父さん?」
不審を覚えて問うように声をかけると、幹久は厳しい顔つきになった。
「おまえ、その話は余所で、他の誰にもしていないな」
「しませんよ! 当主さまのご子息の悪口みたいじゃないですか」
「自覚しているのなら、二度と言うな」
ぴしゃりと言われ、こずえは肩を竦める。幹久は表情を崩さぬまま続けた。
「おまえが役目に戻るとき、わしも朱雀亭に行こう。当主様とお話しせねばならぬことが出来た」
父が当主様と何を話したか、こずえには分からぬ。
けれども朱雀亭にこずえが戻り、その後まもなく、こずえは再び千晴のお世話役を仰せつかった。
涼しくなると千晴の病状は少しばかり落ち着き、自室から出て縁側に出る姿をしばしばこずえは目撃するようになった。外に出て咎められやしないかと恐々とするこずえに、千晴は晴れやかな笑顔でこう言ったものだった。
「こずえさんのおかげで、私の立場も随分いいものになった」
こずえは何もしていない。しかし、千晴は嬉しそうに言うのである。
「こずえさん、こずえさんさえ良ければ、私の傍にずっといてもらいたいな」
どういう意味なのか問うことすら出来なかったが、こずえは熱くなった頬を、千晴に見られぬよう両手で覆った。
実のところ、こずえは千晴のことを気に入っていた。多少言動がおかしいことさえ目を瞑れば、理不尽な暴力も身分差による圧力もない。千晴は風のような男で、掴みどころがなかった。とりわけ、旦影が襖の向こうで自分に対する暴言を放つのを聞いても、笑うのである。その柳のような強さに、憧れにも似た感情があった。
こずえに縁談が来たのは、その矢先であった。
持ち込んだのは銀二だった。どうやら、朱雀亭で働いている下男の一人であるらしい。こずえは顔も名前も知らなかった。朱雀亭は広いのだ。
「こずえさんが嫁いでも、今まで通り朱雀亭で奉公してもらうのは変わりません」
どうやら、差し金は大女将であるらしい。彼女はこずえが千晴と懇意にするのを好ましく思っていないのだ、ということは、こずえにもうすうす勘付かれた。今までこずえは、こずえが千晴の世話をするように手を回していたのは大女将だと思っていたのだが、それは勘違いであったらしい。銀二の独断であったというのはその時聞いた。
そしてもう一つ、こずえは大きな勘違いをしていた。それは、朱雀亭の焔村一族に関する誤解である。
焔村の姓を持つ人物は朱雀亭に四人いる。当主と大女将、そしてその子である千晴と旦影である。つまり、あの美しい少女、秋ノは違うのだ。
それでは何者かというと、なんと旦影の許嫁であるらしい。朱雀亭で、次の女将としての花嫁修業をしているのだそうだ―――とても、そうは見えないが。
そしてこの夏、その結納がようやっと行われたそうだ。使用人の目にも触れぬほど、ひっそりと。秋ノは正式に旦影に輿入れした。
「次代様が結婚したってんで、私にお鉢が回ってきたということだよ」
寝ることしか仕事がないのにねえ、と千晴は呑気に縁側で欠伸していた。
そう、今度は千晴の縁談が話題に上るようになったのだ。今まで五の歳まで、七、十歳まで生きられぬと散々言われて暮らしてきた白子の彼も、先日二十歳を迎えた。本来ならこのまま独り身でひっそりと死んでいくのが焔村家にとって盤石だったのだが、何故だか朱雀亭において千晴の発言力は日に日に増しつつあるらしい。
「ホラ、こずえさんに夏頃来た縁談。あれから話が進んでいないでしょ」
季節はうつろい、今は秋も深く、再び葉隠山は紅蓮に染まっている。
千晴の言葉にそういえば、とこずえが虚空を見上げると、細長い腕がその肩を引き寄せた。
こずえは目を白黒させる。倒れこんだ先は、千晴の胸だった。
「それはね、私が止めさせたんだ。だってこずえさんがいなくなったら、誰が私の面倒を見てくれるのさ」
「そのために、奥様をお迎えになるんじゃなかったんですか」
「ううん、こずえさんが私の奥さんになったら、一事が万事うまくいくじゃないか」
ばっと白い男を引きはがし、こずえは彼を見上げた。
「その話、大女将にされたんですか」
「いや、まだ。だが当主にはしたよ。乗り気だったし、きみの父君にも上手く話してくださるそうだ」
「でも身分が違います」
「この明治の世に、きみは何を古臭いことを言うんだね」
「大女将が……」
「あの人は、私がいかにどこぞの位の高いご令嬢を嫁にもらわないかに苦心していたから、丁度いいんじゃないかな」
再びこずえを抱き寄せて、千晴はその耳元に囁いた。いつもの通り、蚊の鳴くような声音で。
「あとはきみさえ良ければいい」
「天狗を……見せてください」
これだけ骨と皮だけの身体のくせして、千晴の腕はびくともしない。
こずえが精一杯の抵抗としてそう言うと、千晴は少し困ったように眉をひそめた。
「参ったな」
「参ったなら離してください」
「きみは、何を証拠に私たちが天狗だと信じてくれるんだ?」
答えに窮するのはこずえの番だった。
何故だか悲しげな顔で、千晴は彼女を見下ろしている。
「知ればあなたは後悔するだろう、けれど恐らくいずれは知ることになる……それが答えではいけないか?」
「私は……私が嫁げば、父が独りになります」
「それも心配ないと思うがね……そのことが解決すれば、かまわないかい?」
「はい」
結局のところ、幹久は二つ返事で了承した。