5.1927 フォークロア・後[2/4]
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翌日、煬介は気分が悪いと言って学校を休んだ。
灯里もそれに付きあって、女学校を休むことにした。煬介を独りにすることに不安があったからだ―――祖父は、連絡役を探すと言って家を出て行ってしまったから。
「煬介、飯は食えよ」
昨晩も今朝も食事を摂らなかった煬介を案じる言葉だけ残して、幹久は行ってしまった。
灯里は布団の中から出てこない、煬介に呼びかける。
「よう、早く食わないと片付けちまうよ」
「いらない」
返事は返ってくるようになったが、一事が万事この調子だ。
灯里はため息をつきながら、しとしとと降る窓の外に目をやる。今日は洗濯をしようとしていたのに、これでは干せない。
これから先煬介がどうなるのか、灯里には分からなかった。昨日の銀二の話が本当なら、煬介はどちらに転んでもいばらの道を進まねばならなくなる。そして自分は女だというだけで、その荷を背負わずに済むのだ。そんな馬鹿なことはあるものか。年長者として、何より煬介の姉として、そんな理不尽を許せるわけがなかった。煬介は優しい子だ。動物を傷つけただけで涙をいっぱい溜めて、あまりに気弱なため苛められて、いつだって泣きながら灯里に助けを求めるような子だ。人殺しの使命にあの子の繊細な心が耐えられるものか。
だがそれを祖父に訴えたとて、何にもならなかった。昨日の晩も煬介を連れ出し、鬼天狗の訓練をしていたのだから。灯里は必死に止めたし、いよいよ煬介に真実を話そうかとも思った。だがそれも出来なかった。灯里も忍天狗だ。戦う意志を無くした忍天狗が、どういう末路を辿るか知っている。敵に殺されるか、味方に処分されるか、そのどちらかなのだ。煬介は幼いながらも宝治朗を殺し、既に忍天狗の輪に加えられている。その輪の内側にいるからこそ、殺人の罪を逃れて生きていける。輪の内側にいるからこそ、その摂理に従って生きていかねばならない。
結局、生き残るためにはより強い力を得ること以外に、方法はないのだ。
煬介に課せられた道はそういう道だ。そこから引き戻すすべを、灯里は持たなかった。
灯里にできるのは、ただ寄り添い慰めてやること、だけ。
その事実に気づき、灯里は絶望していた。
町を歩きながら、幹久は不穏な空気を感じ取っていた。
雨だからか人通りは少ない。雨だからか、このむせ返るような湿気が肺を満たす。だがそれだけではない。混じり濁った鉄さびの臭い、これは血の臭いだ。
幹久は警戒を強めていた。老いこそしても、何度も死線をくぐってきたから分かる。何かが起こったのだ。そして、その何かはまだ続いている。
血の臭いが強くなる。角を曲がったところで、幹久はぎょっとした。
木造の日本家屋の軒先から垂れ落ちる、それは赤い滴だった。
まるで天井と軒に挟まれるように、人間の腕が生えていた。まだ赤い。板塀を登り、屋根の上を覗いて、幹久はそれを見つけた―――死体。被っている傘を剥ぐと、見知った顔が出てきた。連絡役だ。
賊に殺られたか。それにしても、時間から推測して殺されたのはほんの数刻の間だろう。もしかして、賊はまだそばにいるのかもしれない。
そう思ったとき、幹久は己を呼ぶ声に気づいた。
雨に消されそうなか細い声だったが、それは忍びのものだった。屋根を降り路地裏に入ると、古井戸のふちに俯き加減で座っているものがあった。
銀二だ。腹を押さえ、苦しげに脂汗を浮かべている。
「兎丸どの」
立ち寄れば足元に出血が見えた。少なくはない。傷の具合を見ようと手を伸ばすと、遮られた。
「狗堂どの、これを」
彼が差し出したのは、黒い小さな球だった。
幹久は目を見開く。
「これは天狗丸か」
「そうじゃ……当代様に託された」
幹久ははっと顔を上げる。銀二は死に向かう顔をしていたが、嘘をついている目ではない。
「では賊というのは……」
「わしのことじゃろう……あの連絡役には可哀そうなことをした。おそらく偽りを聞かされて、わしを探しておったのだろうな」
「しかし当代様は殺されたと」
「わしが朱雀亭を出たとき、当代様はまだ息災じゃった。そのあと殺されたのだろう……旦影様によってな」
幹久は息を呑んだ。
旦影はもう、そこまで至っていたのだ。
そして悟る。当代と銀二は正しかったということに。
しかし、なおのこと旦影は煬介を生かしておくと思えない。
「狗堂どの、足音が聞こえるか」
銀二の声に我を取り戻し、幹久は耳を澄ませる。
「いや……」
「わしには聞こえるぞ……連絡役が連れてきた、旦影様とその腹心じゃ。天狗丸を取り返しに、わざわざ山を下りてきたようじゃの。焦っておるようじゃ」
「兎丸どの」
「選ぶがいい、その天狗丸を旦影様にお返しするかどうか、じゃ」
言うと、銀二は古井戸に飛び降りた。
この井戸は伏雁村まで通じている。逃げるつもりなのだろう、幹久はそれを追おうとしたが、追いつかれる方が早かった―――表路地から現れたのは、数人の忍天狗、そしてそれを先導する旦影だった。
「久しいの、狗堂」
「これは、次代様……」
古井戸にちらと目をやる。暗闇が広がるばかりで、銀二がどうなったか幹久には分からない。
「話があるはずじゃ。来い」
「御意にございます」
若い忍天狗たちに連行されるように、幹久は旦影に従った。
銀二の推測通り、旦影は焦っていた。
朱雀天狗丸を銀二に託したと、当代―――父である焔村千影に告げられたことこそ、最大の屈辱に他ならない。結局千影は後継ぎとして旦影を見ていなかったのだ―――では結局、己のしてきたことはなんだったのか? 恐怖政治と言われようが、旦影は父よりもよほど現実的に、今忍天狗を取り巻く社会を見てきたはずなのだ。事実、目まぐるしく変わる情勢の中、船は沈まずにいるではないか。
それなのに、当代は旦影を認めなかった。それが深く旦影の誇りを傷つけた。父を隠居に追い込みこそすれ、それ以上の暴挙に出なかったのは、旦影なりに父を敬っていたからだ。それなのに―――旦影の激情に灯った火は、瞬く間に炎と化した。怒りという名のそれは、親殺しにまで、昇華した。
そして一刻も早く朱雀天狗丸を取り戻さねば、賊に仕立て上げた何者かを千影の仇として斬り捨てねばならない。旦影が固執するのは大頭の座であった。他がどうなろうと知ったことではない、もとより、目的のためには手段を選ばぬ男だ。
そして今、町はずれの小屋に引きずり込んだ幹久に、旦影は命じた。
「洗いざらいを吐け。兎丸はどこじゃ」
人払いは済ませてある。兎丸銀二が偽りの賊であることを、外に見張りで立つ腹心たちは知らない。
一方で、幹久はやはり、老いた顔の皺を深めた。この男も父と同じだ、と旦影は思う。
「おまえたちはわしを認めまいがな、わしのやり方を批判するなら、代替案を出すくらいはすべきじゃとは思わぬか? 下々の者と話し合え、というのは却下だがな。声の届く範囲を下げるときりがない」
「旦影どの、時代は確かに急速に変わりつつある。あなたが言う“下々の者”―――力なきものが力を持つようになるのも、時間の問題じゃ。選民思想めいた思い上がりは捨てよ。いつか必ず足元を掬われるぞ」
旦影は右腕一本で幹久の胸倉を掴みあげ、投げ捨てた。既に抵抗する力もないのか、幹久は床に叩きつけられる。俄かに、この老爺がただの老人になったような気がした。
「おまえの大事な孫どもが、どうなってもいいと言うのか。御託はあとで聞いてやる、兎丸はどこじゃ。答えよ」
「兎丸どのの行方は分からぬが、まだこのあたりにおるはずじゃ……預かりものなら、わしが持っておるがの」
「よこせ」
幹久は大人しくそれを差し出した。黒く鈍く光る小さな球、だが、受け取った旦影は違和感に気づく。
いつか見たことがある、あの不気味さがこの玉にはない。幹久を睨み付け、旦影は声を荒げた。
「謀ったか」
「そんなはずは……」
即座に幹久は反論しようとして―――何かに気づいた様子で、息を呑んだ。唇をわななかせ、声も出ぬその様子に、旦影も同じ推測に至り、呻く。
「まさか……」
銀二は当代の遺志で天狗丸を持って、幹久に会いに来た。
幹久の養い子は旦影の亡き実兄、千晴の実子である。
「餓鬼どもか! くそ、兎丸めが!!」
激高する旦影に、引きつるような笑い声が上がる。
幹久は、濁った目で旦影を見上げていた。
「所詮、おまえさまには鉛の球がお似合いじゃ」
乾いた笑い声が狂ったように響く。
―――矍鑠の鬼天狗が、遂に絶望に屈した。
耳障りだ。旦影は懐刀を抜くと、まっすぐその喉を貫いた。
幹久は抵抗らしい抵抗をせぬまま、ただ血の塊だけを吐いて床に沈む。胃の中を検めるべきか迷ったが、今の狼狽からして本物の天狗丸を持っている可能性は低い。だとすればやはり―――
血の海に膝をつき、旦影は臍を噛む。
手の内に、鉛の球を握りしめたまま。