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[1908 冬より、1909 元旦まで]

[1908 冬より、1909 元旦まで] 

 旦影(あさかげ)は陰険な男であった。だがそれは、こずえばかりに感じられるものではなかったらしい。

 嫉みや妬みは勿論あったが、同情もあった。横暴ともいえる旦影のわがままに振り回されることを、旦影つきの下女は嫌というほど知っていたのだ。

 旦影に偶然を装って茶をかけられることも、嫌味な言葉をかけられることも茶飯であった。そんなことは優しい方で、あるときなど洗濯物を干している時にからかわれ、追いかけているうちに池に突き落とされた。深い池ではなかったが、初冬ではあれど霜が降りるような朝である。三日三晩熱が下がらず、こずえは生まれて初めて死を感じた。

 それにしても、とこずえは考え始めた。旦影は誰彼構わず乱暴に走るわけではない。旦影の奇行とまで言ってもおかしくない行動は、必ずある部屋の近くで取られるものなのだと、こずえは半ば確信していた。

 その部屋は、数ある使用人が立ち入れぬ場所のひとつであったが、必ず廊下からも縁側からも襖が閉じきられ、中が見えぬようになっている部屋であった。この部屋が一体何のための部屋であるのかも、こずえには分からないが、一度だけ銀二が出入りしているところだけは見たことがある。だから絶対に部屋ではあるのだ。ただ何の部屋なのか、そしてその中にある何が旦影を奇行に走らせるのかは分からなかった。この部屋から遠いところでは、旦影の意地悪は鳴りを潜めるのである。


 さて、紅の葉が散り落ち、冬が来たりて、使用人たちにそわそわするものが現れ始めた。

 正月が近いのである。

 ミキが言うに、この時期は宿も開くことはなく、数人を除く使用人は数日家を出されるのだという。その間朱雀亭は普段からひそやかな息遣いをより細める。噂によれば山神の祭事を年越しに行っているのやら、天狗を宿にお泊めしているのやららしいが、仔細を知る者はこずえの周りにはいなかった。ただでさえ、こずえは旦影の“お気に入り”として、下人仲間たちからは一線引かれているのである。長く雑談をしてくれる相手であるミキですら、ときどきは罰の悪そうな顔をして、仲間に呼ばれて行ってしまう。こずえは徐々に孤立しつつあった。

「お仕着代じゃ」

 住み込みの使用人ばかりだが、仕着代にしてはやや大目の金を貰い、みな数日朱雀亭を出ることになる。順番に銀二から金を手渡されていく列に並びながら、こずえは懐かしい父の顔を思い浮かべていた。数ヶ月にも満たないが、もう父と実家が恋しい。切れ切れする冬の寒さは、心にもしみこんでいるのだ。

 ところが、銀二はこずえの番を飛ばして、次の番に金を渡しに行ってしまった。

 目をぱちくりとする間もなく。皆に配り終えたと宣言し、銀二は奥に引っ込んでしまう。こずえは慌ててそれを追った。

「出納役、わたくしはもろうておりません」

 銀二は顎の突き出た顔をしかめると、答えた。

「おまえには必要なかろう」

「どうしてですか、わたくしも、皆さんと同じように働いて参りました」

「ちがうちがう。おまえは、正月もこの家におるのじゃ」

 意味を飲み込めぬこずえに業を煮やしたのか、銀二は苛苛と付け足した。

「わしだけで、焔村家の皆様のお世話をせいというのか。皆がおらぬ正月の間、おまえさんがそれを手伝うのじゃ」

「で、ではわたくしは正月もご奉仕で……?」

「さよう。名誉なことじゃと思えよ、今年はおぬし一人とわしだけじゃ」

 それだけ言い置くと、銀二はさっさと奥へ行ってしまった。

 銀二の宣言どおり、仕事納めを終えた勤め人達が徐々に帰省していく中で、こずえだけはただ、いつもと変わらず仕事をし続けた。葉隠山(はがくれやま)は落葉につれ雪深くなり、やがて、正月を迎えた。

「そろそろ、おまえも知る頃合いじゃと思うてな」

 凍りつくような寒い元旦の朝であった。銀二に連れられて行ったのは、件の部屋の襖の前であった。

「開けてみよ」

 許しを得ても、こずえはためらう手を襖に添えられずにいた。業を煮やしたらしい銀二はさっさと襖を開けると、先に奥へと進んでしまう。

「若様、あけましておめでとうございます」

「ああ、銀二か。おめでとう、今年もよろしく頼むよ」

「ありがたいお言葉」

 銀二は襖の内側で会話を交わしている。

 誰かがいるのだ。

「新しい世話役を連れてまいりました。……これ、こずえ。早く入らぬか」

「は、はい」

 銀二に呼ばれて立ち入った部屋には、布団が一つ敷かれていた。そこに上体だけを起こして佇んでいた者の姿に、こずえは息を呑んだ。

 銀色の長い髪に透き通るような肌をした、美しい人間がそこにいた。雪のように真白な細い腕がこずえを呼ぶ。短い前髪の隙間から覗いた目は、ウサギのように真っ赤であった。

「こずえというのだね」

「は……」

「銀二から聞いてはいる。狗堂(くどう)の……幹久(みきひさ)の娘だそうだが」

「は、はい、狗堂幹久が一人娘、狗堂こずえにございます」

「そんなに畏まらなくていいよ」

 正座の膝に顔を隠すように身を縮めるこずえに、彼―――声の調子からいって男性だろう―――は明るく笑った。その声も、ぼそぼそと消え入りそうで聞き取りにくいものだったが。

「―――私は焔村千晴(ちはる)。焔村千影(ちかげ)の長子だ」

 千影とは朱雀亭当主の名だ。こずえは弾かれて顔を上げた。

「では、旦影さまの……」

「兄に当たるね。もっとも、向こうはそう思っているのかどうか疑問だが」

 美しい顔に少しばかり苦い表情を浮かべて、千晴は言った。

 途端、千晴が咳き込み始める。銀二は素早く立ち上がってその背をさすりながら、こずえを向いた。

「今日はこのあたりにしておこう。こずえ、おまえは正月いっぱい千晴さまのお世話をするのじゃ、よいな」

 再びこずえが深々と頭を下げると、咳を収めた千晴はにこやかに言った。

「よろしく、こずえさん」

 儚げな微笑みは、旦影の意地悪いそれとは似ても似つかぬものだった。


 千晴は病弱のため、あの一室でほとんど寝たきりの生活をしているようだった。

 白子のあの容姿もあってか、床から上がっているときも部屋から出ることはほぼない。どうりで、使用人も彼の存在を知らないようだった。銀二から、千晴のことは誰にも言うなと固く口止めされているのもあるけれど。

 しかし人らしくない焔村の家族のうちにあって、千晴は自身の運命に対して淡白で、軽い男であった。使用人であるこずえと距離を測るようなこともせず、まるで気安い友人のように接する。部屋から一歩も出ず本ばかり読んでいるからか博識で、体力はないが非常に頭はよい。

 弟の旦影の、千晴の部屋付近での奇行はますますひどく、こずえに対する仕打ちも増していったが、こずえは千晴に接するうちそれを理解した。彼は、兄が疎ましいのだ。

 旦影が次代当主と定められているのは、千晴が既に先知れぬ身であるからだ。もし彼に健康な身体さえ与えられていれば、千晴が次代様だったに違いない。焔村の内事情の何一つ知らぬこずえすらそう思われるほど、千晴と旦影では人間性に明白な差があった。

 年明けた三が日には、朱雀亭には意外ともいえるほど、たくさんの人が訪ねてきた。「外の様子を知らせてほしい」と言っていた千晴にそのことを伝えると、彼は納得したようにこう言った。

「親戚が来たんだよ。きみの言い様じゃ、それは白虎のじさまと、玄武のばさまかな」

「まあ、白虎とか玄武とか、このお屋敷は朱雀亭ですし、それじゃ青龍もおられるんですか」

「昔はいたが、今はいない」

 千晴は意味深い言葉を吐き出した。

 こずえはかねてからの疑問を、この優しく賢い男に尋ねてみることにした。

「千晴さま、この山……葉隠山には天狗様がおられるって話、ご存知ですか」

「天狗だって?」

 千晴は赤い目を真ん丸にした。

「それ、誰に聞いたんだい」

 おかしなことを訊いたと、急に恥ずかしくなって俯きながら、こずえは答えた。

「女中の仲間に聞きました。葉隠山は天狗の住む神聖な山で、朱雀亭のご当主は、天狗を祀る神社の神主でもあるのだと」

「うーん、間違ってもいないんだけどなあ」

「本当なんですか?」

 驚いて口元を覆うと、千晴は答えづらそうに言葉を濁しながら続けた。

「天狗はいるよ、この山とこの屋敷に。けれどそれは、きみたちの思っているような“良い”天狗じゃない」

「では人の子を浚って食ってしまうような、恐ろしい魔物で?」

「そういうわけじゃないけど……」

 千晴は漏れ聞こえるような微かな声を、さらに薄めて言葉を紡いだ。

「実はね、朱雀亭の一門は皆天狗なんだ」

 こずえは目を瞠ると、すぐ眉根を寄せた。気の良いこの当主子息に、からかわれたと思ったからである。

 しかし千晴は大真面目にかぶりを振った。

「本当の話さ。焔村一族はそれを束ねる、いわば天狗の頭領のような存在でね。ここでいう天狗ってのは別に、空を飛んだり山を吹き飛ばしたりするような、霊力の持った妖怪ではないのだよ。みんな人間さ。だけど、少しばかり回り合わせが普通と違っている一族なのだよ」

「ち、ち、千晴さま。子供だましのお戯れはおやめくださいませ」

「きみが信じようと信じまいと結構だ。けれどね、正月に集まる連中は、うちの一族の者たち、つまり普段は各地に散らばる天狗なのさ。それが証拠に、関係のない使用人はみな暇を出されてるだろう、あれは天狗の話を聞かれないようにするためなんだ」

「では、何故わたくしはここでこうして、千晴さまのお世話仕っているのです?」

 意地悪い気持ちでつんとこずえは言ったのだが、千晴はあっさりと答えた。

「きみも天狗の一員だからさ」

「へ?」

「考えてもごらんよ、きみはどうして奉公して数か月で、私のような一族の瘤みたいな男の世話をさせられていると思っているんだい。きみの父上は狗堂幹久だろ、あれは、そりゃ立派な天狗だった」

「そんな馬鹿な」

「私が幼いころ、彼はよく天井裏から忍んでやってきて、山の草花とか栗や柿の実を持ってきてくれたよ。不憫なぼっちゃんだって言ってね」

「ああもう、失礼いたしますわ、千晴さま」

 馬鹿な話に付き合っていられなくなって、こずえは襖を閉めた。

 旦影よりはマシだと思っていたが、千晴さまもこんなに奇妙なお方だったなんて!

 まあずっとあんな小部屋に閉じ込められて本ばかり読んでいたら、気もヘンになるに違いない。自分の一族を天狗だと思い込み、あまつさえいち運転手ですら天狗だなどと。だったらこのお屋敷にいる兎丸銀二も朱雀亭の当主も大女将も旦影も、みんな天狗ということになるのではないか。

 千晴はその後も顔を見るたび天狗の話を持ち込んできたが、こずえは聞き流していた。

「頑固だねェ、こずえさんも」

「ああ、もう。千晴さまにこんな話を振るのではなかった」

 こずえが天狗の話を馬鹿らしく思っていると気づいたらしい千晴は、一言だけこう言った。

「いつか必ず知ることになるさ。天狗が真に何者かってことをね」

 そしてそれから、その話を振ることはしなくなった。まるでこずえに天狗を信じさせることを諦めたかのようだった。

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