5.1927 フォークロア・後[1/4]
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結論の出ない議論は平行線をたどる。
黙り込んでしまった幹久と兎丸銀二、その空白を埋めたのは、真っ赤に染まった煬介の帰宅であった。
間もなく激しい雨が降ってきた。煬介の言うとおりに幹久と銀二は家を飛び出し、町の貧民街へ足を運ぶ。奇跡的に誰の目にも止まらなかったのか、血だまりに沈む死体は間違いなく宝治朗で、二人は戦慄に息を呑んだ。
より人目のつかぬところにひそやかに運び、地中に埋める作業を行う。慣れたものだが、お互いに無言のうちで、思っている内容も同じであった。
「煬介がこれをやったのか」
穴に死体を寝かせる作業を終え、雨の中呆然とする幹久に、銀二が重い口を開いた。
「……修業を付け始めて、どれくらいですかな」
「武芸事は七年、秘伝は一年ほど」
「末恐ろしい御子ですな」
目を細め、銀二は言った。
「どうなさいますか」
「どう、とは?」
「先ほどの話の続きです。もっとも、始末役でなくとも忍天狗として生きるからには、こうして人を殺める機会はいくらでもありましょう」
「……おまえさんは、余程煬介に大頭を継がせたいものと見える」
「いいえ、これは当代様のご遺志に過ぎませぬ。旦影様に抱く危機感はわしにすら感じられますがね」
「旦影どのは何をしようとしておるのじゃ?」
既に今や、忍天狗の主権は旦影の手の内にあるはずだ。宝治朗の裏切りの件に対する厳しい処遇も、裏切りに最も手痛い仕打ちを受けた若い天狗たちからは大いに受け入れられ、その支持も厚いと聞く。
「旦影様は青龍天狗を再興されんとしておられる」
「青龍を?」
青龍天狗は名目上“力”を失い追放されたことになっている。間違いではないが、本質ではない。実際のところは、幕末期、青龍は忍天狗全体の意向を裏切り、幕府側についたことが原因で先代大頭の怒りを買い、一族を根絶されたのが“力”が行方不明になった所以である。
それを、次々代大頭にあたる旦影が再興しようとしているのだ。ますます老臣の胸中は複雑であろう。
「旦影どのは青龍天狗を気に入ってはおらんかっただろう。それが何故……」
「分からぬ。次代様の考えておられることなど、わしらには分かりようがない。しかし青龍は一度裏切りを起こした一族の癌じゃ。二度裏切らぬとは限らん。そこが当代様の不安の種じゃ」
「……しかしやはり、あの子を差し出すわけにはいかぬ」
正統な継承者として煬介が名乗りを上げたとて、あっさりと退く旦影ではないだろう。
ぎらつく銀二の目が、静かに幹久を睨んでいる。
「それも、今に解決しましょうぞ」
「何?」
「……連絡役が来られたようじゃ。わしは、これにて」
激しい雨に溶けるように、銀二の姿が掻き消える。
代わりに現れたのは、いつもの連絡役であった。
「鹿代をやりましたか。検めてもよろしいでしょうか?」
「好きにせい」
僅かにかかった土を掻き分け、連絡役は顔を検分する―――否。
それだけではない。胴体を着物から取り出すと、彼はそこに刃物を突き立てた。
「何をしている」
「検めております」
「顔を見ればすぐ分かるであろうが。何故……」
幹久は言い淀んだ。連絡役の行動が奇を極めたからだ。
彼は死体から取り出したそれをじっくりと検分すると、元の通り仕舞い込んだ。
見ていたのは、胃である。
「……何の儀式じゃ」
「忍天狗にそんな儀はありませんよ。呑み込んでいないか、確認しただけです」
「呑み込む?」
なおも理解できない幹久に連絡役はため息をつくと、死体に土をかぶせ始めた。
「これ以上聞けば、“知らなかった”では済まなくなりますが、それでも構いませんか?」
「どのみち、灯里にはするはずの説明であろう」
宝治朗を葬りながら幹久が答えると、連絡役は続けた。
「当代様が賊に殺害されました」
「何……」
声をあげそうになった幹久に、連絡役は「盗み聴きされる可能性があります」と指を立てる。
「賊は当代様から天狗丸を奪い去り、逃亡中です。我々はそれが鹿代宝治朗である仮説を立てていたのですが……違ったようですね」
「天狗丸とは“力”のことか」
「ええ。あなたもご覧になったことがおありでしょう」
天狗丸とは“力”の単語が指す宝玉の名称で、通常、当代大頭が呑み込み、胃の中に入れておくものである。四つの天狗丸を、忍天狗はそうやって何百年も世代を繋いできた。その、最も大事な朱雀天狗丸を奪われたという。
「大事ではないか。皆に通達は」
「旦影様のご意向で、しておりません」
「何故じゃ?」
「白虎や玄武、ましてや青龍に知られては事でしょう。天狗丸を失ったとなれば、朱雀を地に貶めるにも等しい」
下手をすれば一族の断絶もあり得る。青龍はそうやって、立場を追われたのだ。幹久は渋面を作る。
「賊がこのあたりに逃げたというのは、間違いないか」
「ええ。……状況から言って賊は内部の者、つまり朱雀天狗です。事件の前後で葉隠山周辺から姿を消したものがいないか、洗い出している最中ですから、狗堂どのもゆめゆめ油断なさらぬよう」
「分かっておる」
つまり誰が味方で敵であるか、はっきりしない状況であるということだ。
「狗堂どの、私は旦影様に鹿代のことを報告に戻ります。ご自宅でご子息と待機をお願いします。灯里どのにも、この話を」
「分かった、気をつけよ。賊は相当、手練れぞ」
連絡役は深く頷くと、踵を返した。
雨の音が鳴り響いている。
煬介はずっと灯里にしがみつき、泣き続けていた。何が起こったのか、何をしてしまったのか―――人を殺したのだ。そして姉と、煬介がしでかしたことの“後始末”をつけて帰ってきた祖父は、何も言わない。そのことがかえって煬介を追いこんでいた。何故二人は何も言わない? 警察に行って、おいらが殺しましたと告げて、捕まるものではないのだろうか。
「煬介」
灯里の膝に顔を伏せている煬介に、幹久が呼びかけた。
「……宝治朗はな、忍天狗を裏切ったのじゃ」
「じいさま」
灯里が非難するように声を上げる。煬介は泣き腫らした目で祖父を振り返る。その表情までは見えなかった。だが、声は淡々と続く。
「宝治朗はおまえを殺そうとした。返り討ちにした、あれは不可抗力じゃ。それに、遅かれ早かれ誰かが宝治朗を殺さねばならなかった……それだけのことじゃ」
「じいさま! そんな話、煬介に―――」
「“誰か”って、忍天狗?」
煬介の問いに、幹久はこくりと頷く。
煬介はここでようやく理解した。宝治朗は、煬介が幹久たちを呼んでくると思って、慌てたのだ。
しかし頭が冷静に動いたのはそこまでだった。すぐに、白くなって動かなくなった宝治朗の顔が脳裏に浮かび、煬介は目を閉じる。灯里の膝に舞い戻ると、唸り声で、耳にこびりついた血の吹き出す音と、吐息のような末期の声を追い出そうと試みる。
「煬介……」
震える弟の肩を、灯里が優しく撫でる。
煬介は恐ろしかった。殺人を犯した己も、それを否定も非難もしない家族のことも。
その日の夜、いつの間にか眠ってしまっていた煬介は、外気の寒さに当てられて目を覚ました。
眼前に立つは鬼天狗の面。怯えて身を竦める煬介に、鬼天狗は刀の切っ先を向けた。
「立て」
それだけ言うと、鬼天狗は刀を構える。
「……だ……いやだ……」
ゆっくりと頭を振りながら、煬介は鬼天狗と間合いを崩さないように円を描くように移動する。鬼天狗の動きにぶれはない。その刹那、刀が閃いた。
「うわあああ!」
煬介はそれを避ける。頭に浮かぶのは宝治朗を殺した瞬間、ばかり。触れてしまえば殺してしまう。避け続けるが、やがてそれも限界を迎える。
刀を捨てた鬼天狗は、煬介の足を払いころばせると、腕を極めた姿勢で首に膝を乗せた。煬介はもがくが動かない。みるみる、頭の血が止まっていくのを感じる。
殺される。
―――今まで鬼天狗に恐怖を感じたことはあれ、本当に殺されると思ったことはなかった。だがこの情け容赦ない攻撃に、煬介の思考はそこにまで至る。殺される。どうして、何故。
煬介は突然閃いた。そうか、そういうことか―――
自分を押さえる手の指をとる。親指に触れた瞬間、その手がばっと離れた。掴まれると思ったのだろうか、だがその瞬間同じく緩んだ首の束縛に、煬介は転がるようにして鬼天狗の身体の下から逃げ出した。咳き込みながら距離を開ける。まだ、上手くは立ち上がれない。
鬼天狗は、煬介の咳が収まるのをじっと待っていた。雨上がりの泥を頭からかぶりながら、煬介は鬼天狗を睨みつける。
殺さなければ、殺される。
煬介はこの鬼天狗が、己に何の業を教えているのかに気づいていた。人を殺す術だ。宝治朗にとっさに出た返し技も、普段の武芸ではなく鬼天狗から伝授されたものだった。そう、人を殺す術を、煬介は習っている。
「もうやだよ……」
そのことが分かった以上、こんな鍛錬を続けたくはない。
だが訴えても、鬼天狗の猛攻は収まらない。煬介が立ち上がるや否や、再び組み付かれる。煬介は苦し紛れで仮面に手を伸ばした。しかし眼突きの指を、鬼天狗は軽々と避け、逆に手を掴む。とっさに指を掴まれぬよう握り拳を作った煬介は、腕を押し込むようにねじり、その束縛を解く。
殺さなければ殺される。それはこの鍛錬においても同様なのだ。
抵抗を諦めれば、どこかの線引きで鬼天狗は煬介を殺すだろう。鬼天狗にとって、戦わない煬介は必要がないのだ。そういうことだ。
煬介はまだ死にたくない。自分の中にそういった欲求があることにも、彼は気づいていた。
死にたくなければ殺せ。
殺されるのが嫌なら、先に殺してしまえ。
そうしなければ生き残れない―――
それが己の宿命なのだと、煬介はまだ気づかない。




