4.1927 フォークロア・前[3/3]
[4-3/3]
浮浪児の集落を抜ける。それは貧民街の奥にあるので、人通りの多いところにいくには、もう少し歩かなければならない。
しばらく歩いていると、煬介は突然腕を掴まれた。
驚いて振り返る。掴んでくる手の親指を押さえて捻りながら腕を引き抜くと、地を蹴って間合いを開いた。
そこまでを無意識にやって、ようやく煬介は意識して相手の顔を見た。あっと声を上げる。
「宝治朗の兄ちゃん!」
そこにいたのは、数年前に会ったぶりの鹿代宝治朗であった。その疲れた笑みは別人かと思うほど虚ろで、かつての快活な、少年のようだったみずみずしい表情はどこにもない。
煬介はよろよろと宝治朗に近づいた。
「何やってんのさ、こんなところで」
「いやね……人を探していたのさ」
「また?」
煬介は笑いながらまた一歩、宝治朗に歩み寄る。
だが砂利を踏んだところで、思い出した。祖父から、今後一切宝治朗を見ることがあっても、話しかけてはならぬと言いつけられていたことを。
「煬介君?」
煬介の様子がおかしいことに気づいたのか、宝治朗が怪訝に声をかけてくる。その表情も、なんとなく不気味だ。煬介はぶんぶんと首を横に振ると、肩を竦めた。
「おいらとここで会ったこと、じいちゃんには秘密にしておいておくれよ」
宝治朗はきょとんとすると、すぐ笑みを深めた。
「ああ、できれば俺も、そうしてもらったほうが助かるね」
煬介は古い長屋の壁際に座り込む。せっかく会えたのだ、宝治朗と話がしたかった。
「それにしても、宝治朗の兄ちゃんは今まで何をしてたんだい?」
宝治朗の所業を知らぬ煬介の無邪気な問いに、青年はちくりと刺されたようなやせ我慢の笑みを浮かべた。
「言ったろ……人を、探していたんだよ」
「今度は、おいらのじいちゃんじゃないよね?」
「ああ。もっと見つけやすくて、見つけにくい人さ」
意味が分からない。煬介は首をひねる。
ところで、と宝治朗は話題を変えてきた。
「このあたりは、狗堂さん以外忍天狗の人は住んでいないのかい」
「え? うん……おいらが知る限りはいないよ」
「そうか……」
煬介は知らぬが、宝治朗は忍天狗の裏切り者として追われている。
あっと、煬介が声を上げた。
「住んでいるのかどうかは定かじゃないけど、連絡役がいるよ。姉ちゃんに仕事を持ってくんの、おいらは話したことねえけど」
「連絡役!?」
宝治朗は今更のように立ち上がると、周囲を見渡した。
煬介の分かる範囲で、人の気配はほとんどしない。だが連絡役も忍天狗なので、気配くらい消せるだろう。あまりあてにはならなかった。
宝治朗も同様のようで、ひどく不安げな表情で尋ねてくる。
「連絡役は……月に、どれくらい現れる?」
「おいらが知ってる限り、月に一回か二回ってところかなあ。全く現れない月もあるよ、姉ちゃんに訊いてみないと、正確なところは分かんねえや」
するとそこへ、煬介の名を呼びながら子供が現れた。あの丸刈り頭は、幸男である。
「ようちゃん、こいつを忘れちゃダメだろ」
幸男は紫からの手紙を差し出した。見知らぬ大人がいることにぎょっとしたようだったが、煬介は気にせずそれを受け取る。
「うわっ、フサのやつ、抜きやがったな。ありがとよ」
「そういやよ、さっきめちゃくちゃ背筋の曲がったおっさんを見たぜ。こーんな」
幸男は腰をくの字に曲げると、両の瞼をあべこべの方向に引っ張った。
それに、宝治朗の顔色が変わる。
「そのおっさん、どこで見た?」
話しかけられると思っていなかったのか、幸男は目を丸くするが、すぐ調子を取り戻した。ここに出るは、浮浪児の強かさである。
「教えてほしけりゃ、五十銭よこしてもらおうか」
「幸男!」
「なんだい、ようちゃんと言えどここは退けねえぜ。おいらたちゃこれでおまんま―――」
皆まで言うことなく、幸男の身体が浮き上がった。
壁に背中を叩きつけられ、幸男は顔をしかめる。宝治朗が、その胸倉を掴んで持ち上げていたのだ。
煬介は目を瞠った。
「兄ちゃん! 何してんだよ!」
「とっとと教えろ。つまんねえ怪我したくないだろ」
幸男は目を白黒させていたが、宝治朗の必死さを小ばかにしたように笑うと、言った。
「へ、へ、そんなに気になることかよ。びた一文負けねえぜ」
「宝治朗の兄ちゃん、幸男を離せよ!」
宝治朗の豹変に、煬介は恐怖と驚きにおののきながらも、友達を守るのに必死だった。幸男は今度は地面にたたきつけられ、咳き込む。その身体を、宝治朗は蹴とばした。
「時間がないんだ、早く言え」
「へ……あんた、文無しかい……だっ、たら、おいらも……用は、ねえな」
幸男を踏みつける足に力がこもるのが分かる。煬介は後ずさりながら、考えるより早く、叫んでしまった。
「待ってろ幸男、姉ちゃん呼んでくる!」
駆け出した煬介に、しまったという叫びが追ってくる。
転がるように駆ける地面は土だ。草履履きでは早さが出ない。ぼろぼろとはいえ靴を履いている、その足音が追いかけてくる―――宝治朗だ。
「うっわあああ!!」
振り返って煬介は悲鳴を上げた。はからずも幸男から宝治朗を引き離すことには成功したが、今度はこちらを追いかけてきている。それも、先よりはるかに鬼気迫る形相で。
煬介が姉と祖父に宝治朗がいることを知らせれば、今度こそ宝治朗は忍天狗に“処分”される。その一念が宝治朗を突き動かしているのだが、そんなことを知る由もない煬介には、何故宝治朗がこれほど必死に己を追うのか分からない。分からないから余計に、その恐怖が煬介を襲った。ただ、そう、恐怖―――殺されるかもしれないという、逼迫した恐怖。
無茶苦茶に叫びながら、煬介は逃げる。だが大人が子供を追い回し、捕まえ袋叩きにすることなど日常茶飯の裏通りで、その叫びに耳を寄せる者はいない。どれほどの恐怖で子供が叫ぼうと、浮浪児と思しきその子に助けを差し出す手など、ありはしない。
いくら煬介の足が速くても、大人の忍天狗はもっと速い。木に登るだけの頭の余裕も煬介にはなかった。それが、結局のところ宝治朗に捕まるという絶望を、煬介に与えた。
鬼の形相と目がかち合う。宝治朗の懐から銀色が覗く、それが剣であることなど煬介には明と知れた。
殺される。
殺される。
その一念が、さらなる恐ろしい道へ、煬介を突き飛ばす。
「うわああああああああ!」
煬介は叫びながら、宝治朗の腕を手の甲と、手首で滑らせた。
考えたものではない。恐怖、恐怖。ただそれだけが、煬介を突き動かした。煬介は知っていた、ただ一つ、その術を。
足を払う。煬介よりも何回りも大きな体は、弱い軸を払われるだけであっけなく均衡を崩した。敵の足が折れ曲がる、刀を掴んだ腕が上がる。その力に逆らわぬよう、腕のゆく方向だけを、変えてやる。
煬介を突き動かす一念が、体に叩きこまれた造作を再現する。向きを変えられた刃は持ち主に握られたまま、持ち主の首を、滑った。
めり込む首筋が、みるみる紅色の粒を、流れを、飛沫を生んだ。
「あ……」
声とも息ともつかぬ吐息が唇から漏れる。肌の色が失われ、目がぐるんと上を向き、そのまま彼は仰向けに転倒していく。
倒れた身体は痙攣している。あたりの土が血を吸って、どんどん黒く染まっていった。煬介は足の力をなくして尻餅をつく。血の池から、死体から離れようと地面を蹴るが、体は後退しない。
「うわ……ああ……」
掌が血まみれだったことに気づく。鉄さびの臭いがする。頬も、髪もだ。真上から血しぶきを浴びていた煬介は、頭から真っ赤に染まっていた。
倒れた身体の痙攣が収まる。煬介は呼びかけた。
「宝治朗……兄ちゃん……」
答える声はない。全身の血を流しつくしたように真っ白な顔は、開いたままの口、目は、それを如実に示していた。
誰がそれをもたらしたか。
宝治朗に何が起こったか。
―――すべてを理解して、煬介は絶叫した。




