4.1927 フォークロア・前[1/3]
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家に明かりがついている。姉は帰っているらしい。
なるべく音のせぬようそろそろと戸を開けたのだが、気づかれてしまった。
「おかえり、よう」
黙っていると、叱声が飛んできた。
「ただいまくらい言いなさいな!」
それでも無言で居間の灯里の傍を通り過ぎようとすると、姉はさっと白い封筒を持ち上げた。煬介は思わずあっと声を上げる。
「紫ちゃんからの手紙、預かってるんだけど、いいの?」
「ちょ、よこせよ!」
伸ばした煬介の手を、灯里はひらりと避ける。意地悪い笑みがその顔に浮かんだ。
「かれこれ四年にもなるのに、よく続いてたね、文通」
あまりにひらひらと灯里が避けるので、煬介はしかめっ面で立ち止まった。こうやってからかわれるのがいやで、このしばらくは紫との手紙のやり取りも郵便局留めにしていたというのに。きっと、気の良い局員のおじさんが、親切心で灯里に頼んでしまったのだろう。
「いいから渡せって」
「んまあ、そんな口をきいていいの?」
手紙は未だ灯里の手の中にある。ぐうの音も出ない煬介に、姉は気を良くした様子だ。
空いている方の手で自分の鼻を摘まんで、灯里は舌を出した。
「くっさいよ、煬介。もうじきじいさまも帰ってくるころだし、風呂の準備して頂戴」
臭いと言われて、煬介は露骨に顔を歪める。浮浪児たちと遊んだ帰りだからだ。友達を貶められた気がして、煬介はむきになって反論した。
「くさくなんてないや、くさいって言う方がくさいんだい」
「何だい、その理屈」
「いいからそれ、渡せよ!」
囲炉裏を跳び越え、躍りかかった煬介に、灯里はよほど驚いたのか悲鳴を上げながら倒れこむ。火にかかっていた鍋を煬介の裸足が蹴飛ばす、熱かったがそれより必死に、もみ合いながら二人は手紙を奪い合う。灯里も半ばむきになっているようだった。
「何をやっとる!」
そこに、一喝が響いた。
ぴたりと動きを止め、次の瞬間には素早く、姉弟は居住まいを正した。玄関から現れたのは祖父、幹久である。その顔は険しい。視線の先には飛び散った味噌汁と、板の間の惨状がある。
「何を暴れておった?」
「それは……その……」
「姉ちゃんがおれに意地悪しました」
歯切れ悪い灯里の一方で、煬介はしゃんと背を伸ばして言った。姉は反論する。
「あんたが急に跳びかかってきたのが悪いんでしょ!」
「姉ちゃんがとっとと手紙を渡してりゃ、なかったことだろ!」
「何をう!? 誰が夕飯の支度したと思ってんだこのガキ!」
「知るか! つかいい加減手紙よこせよタコ!!」
「黙らんか!」
再び取っ組み合いを始めそうだった二人は、びりびりと震える空気に蹴落とされ、動けなくなった。幹久は姉弟の脳天に拳骨を落とすと、二人に命じた。
「灯里は夕餉のし直し、煬介は風呂の支度をしてこい! その間、一切喋るな!」
「は、はいっ」
「はあい……」
目はちかちかしていたが、煬介も灯里もすぐさま立ち上がり、各々の仕事に散っていった。
いい塩梅に湯気が立っている。
「じいちゃん、もう入れるよ」
「おお、そうか」
行水を済ませた幹久が風呂桶に全身を浸からせる。煬介はその傍にある炉に薪を足しながら、火加減を見ていた。
「極楽、極楽」
機嫌は直ったらしい。顔をほころばせる祖父の様子をちらと窺ってから、煬介は口を開いた。
「……なあ、じいちゃん」
「うん?」
「おいら、くさい?」
祖父は少し怪訝な顔をしたが、答えた。
「いンや」
「そうか」
煬介は胸を撫で下ろした。が、それだけで済むはずがない。
「何じゃ、灯里にまたいらんことを言われたか」
さすがは鋭い。湯気の中から響いた幹久の声に、煬介は答えあぐねていた。
「……煬介よ、別にわしも姉ちゃんも、おまえの友達を否定するつもりはないぞ」
「……うん」
返事せぬうちにゆっくり続いた言葉に、煬介は頷いた。幸男にフサに祐作……泥だらけの真っ黒だが、さんと輝く笑顔が浮かぶ。親や家がなくとも、みんな大事な友達だ。
「ただなあ、おまえの姉ちゃんは女学校に行っておるだろ。その学友がな、おまえとおまえの友達についてからかったりするんだそうだ」
煬介は俯いた。幹久は滔々と続ける。
「まあ、灯里は大人しく苛められるようなタチじゃなかろう、それでまた学校で暴れたりするもんだから、あのお転婆が……なんだ、先生にこっぴどく叱られたようでの。わしらに言うことはないが、さしもの灯里も少しばかり気が滅入っておるようなんじゃよ」
「えっ」
ぱっと顔を上げた煬介は、風呂桶の中から見下ろす幹久と目があった。祖父の顔を見てきちんと喋るなんて、いつぶりだろう。幹久の目は穏やかだった。
「おまえ、昔からよく灯里にからかわれておったが、酷いことを言われたことはそうそうなかろ」
「うん……」
「弱った時にはな、人間誰しも刺々しくなってしまうもんなんじゃ。心配せんでも、姉ちゃんはおまえの味方だよ。女学校で暴れたのだって、弟と友達を侮辱されたことで怒ったからだと、先生はきちんと理解して下すってたんでな」
灯里はこの春から推薦を受けて、都会の女子師範学校に行くことになっている。
寮生活になるのだ。住み慣れた村を出、家族と離ればなれになる不安だって、あるに違いない。
それを考えると、煬介は急に、灯里に悪いことをしたような気になってきた。
幹久はそれを見透かしたように、にいと笑う。
「夕餉を台無しにしちまったことくらいは、謝った方がいいわな」
「そうする」
粛として、煬介は頷いた。
姉ちゃんでも、落ち込むことがあるのか。
そんな当たり前のことを、煬介は今知った気分だった。姉の学校の話だって知らなかった。最近家族とあまり会話をしていないと思っていたが、そんなことさえ気づかない自分が少し、情けない。
「ねえちゃん」
居間に戻ると、姉はこちらに丸めた背を向けて座っていた。
呼びかけても応じない。むしろ、近づくにつれしゃくりあげているように見える背中に、煬介は不安になった。泣いているのだろうか?
灯里の肩に手を伸ばす。
「ねえちゃ―――」
「わっ!」
触れた瞬間、がばっと振り返った灯里に、煬介は悲鳴を上げてひっくり返った。それを見て、姉は爆笑する。
「びっくりした?」
「っにすんだよ、もう……」
「ごめんごめん」
にっこり笑う姉は、いつもの灯里だ。そう思うと言葉はすんなりと出てきた。
「姉ちゃん、ごめんな。晩飯……」
「ん? ……まあ、具のお野菜にはごめんなさいだけど、すぐ作り直せるもんだからいいさ。まあ、あたしも悪かったし……ごめんね」
はい、と灯里は紫の手紙を差し出してきた。受け取るとすぐ封を切る。
「紫ちゃん、お元気?」
「うん……父ちゃんの仕事で転々としてたけど、帝都に戻ったらしいや」
「ふうん。なあ、どうせ返事書くんでしょ? あたしのことも書いといてよ」
「なんて書く? “ますます背が伸びて、山猿のように立派になっております”」
「ようっ」
「ふっへへ」
じゃれついていたところに、湯上りの祖父がやってくる。
「何じゃ、また喧嘩しとるんか」
口調も表情も呆れの色しかない。
姉弟は顔を見合わせて、笑った。