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3.1926 氷の花

[3-1/1]

 新しい年が来る直前に、狗堂一家は引っ越しをした。

 煬介にとっては初めての引っ越しであった。といっても幾里もいかぬ、伏雁村の端っこの山裾が新しい住処であったが、住み慣れた長屋を出たばかりの煬介には、何もかも新鮮で眠れなかった。

 それが、悪い夢を引き寄せたのかもしれぬ。

 気づけば煬介は、家の裏の畑に立っていた。月光がわずかに射す、九分の闇の底、鍛えられた忍びの目に映るものがある。

 それは、天狗の面であった。

 闇に浮かんでいるように見えたが、それは誤りで、天狗の面をつけた誰かが正面に佇んでいるのだった。天狗の面の耳上には小さなとんがりがあり、まるでそれが般若のようにも、鬼のようにも見えたのだった。

 鬼天狗ともいうべきか、そいつはこう叫んだ。

「これからおまえに、技を授ける」

 朗々と響き渡る声に、煬介は目を擦った。

「わ、技?」

「そうだ。死にたくなければ、それを覚えよ」

 天狗は素手であった。音もなく煬介に忍び寄り掴みかかると、突然投げつける。

 地面の上に強かに体を打ちつけた煬介は、襲う痛みに咳き込んだ。

「なっ……」

 夢ではない。

 鬼天狗は煬介の胸倉を掴むと、持ち上げ、立たせた。突き飛ばす。

「な、何すんだっ」

 抗議の声を上げる煬介を、鬼天狗はまたも容赦なく肩に担ぎ上げ、投げた。

 畑の土はけして柔らかくはない。咳き込む煬介に、また天狗は迫ってくる。

「受け身を取らねば、死ぬぞ」

 投げられ続ければ、いずれ立ち上がる力も失せるだろう。

 次に投げられたとき、煬介はとっさに空中で身をひねり、ようやく足で着地した。動転していた気も静まり、落ち着いてきた頭で、何度も投げられ、受け身を取りながら、考える。

 体格差はあまりない。逃げるだけなら可能かもしれない……

 そう考えた瞬間、足を払われる。

「うわっ」

 正確に言えば、足は、掬われた形で開いたままだった。体勢を整えようにも、変な姿勢で固定されているせいで体重が戻せない。なすすべなく、煬介は顎から地面に着地した。

「走る前に動作を見せるな。それと、逃げようとするでないぞ」

 鬼天狗は軽く、家の方向をしゃくった。

 煬介は戦慄する。あの家には、祖父と姉が寝ているのだ。

「何しようってんだ!」

 思わず叫んで掴みかかるが、簡単に絡め取られ、倒される。

「いてえ!」

 倒される瞬間肘を打たれたのだ。馬乗りになった鬼天狗の、指が目を突きに来る。必死に首を動かして避け、その際わずかに空いた隙間を使い、煬介は天狗の身体の下から抜け出すことに成功した。

 天狗と距離を取り、向き合う。

 ……延々とそんなことをしているうちに、煬介はやがて疲れ果てて意識を失ってしまった。


 翌朝目覚めると、煬介はうちの、布団の中にきちんといた。

 すぐさま昨晩のことを姉に訴えたが、「あんた、ずっと布団の中にいたわよ」と言われてしまった。しかし体中が痛むのは明らかで、歩くどころか立ち上がるのにも苦労するほどだ。

 あの鬼天狗は一体何だったのだろう。

 しかし疑問に思う間もなく、そんな晩は毎晩のようにやってきた。

 突如畑に現れる鬼天狗に、痛めつけられる夢。しかし着実に、体には傷痕だけが刻まれていく。このままいけば殺されるのではないか―――恐怖が煬介を襲う。だが姉や祖父はそれを夢の出来事だと否定するばかりだった。

 いつしか煬介は家の中で、無口になっていった。煬介は尋常小学校も後半を迎えた少年期、すなわち思春期に入っていったのである。

 その頃、村には一つの問題が大きくなっていた。先の大地震―――関東大震災の折に親を亡くし、孤児となった子供たちのことである。

 彼らは浮浪児としてのコミュニティを作り上げ生活していた。それが余所の街からも集まりだし、徐々に大きくなりだしたのである。食い扶持が増えれば、施しや靴磨きだけで生きていけるはずもない。伏雁村はこの年は不作で、生命線である施しすら減りつつあった。少年たちはついに、盗みを働き始めたのだった。

 震災より月日が経ち、少年たちは成長しより大人に近づきつつある。日増しに荒々しくなっていく彼らを、伏雁村の住民たちは持て余していた。

 しかし、この頃煬介は、浮浪児たちと交流があった。川に落ちた彼らの年少者を助けたことがきっかけで、知りあうようになったのである。そのせいで級友からは余計にのけ者にされるようになったが、苛められることは減った。浮浪児たちが守ってくれたからであった。

 浮浪児たちとの付き合いに、幹久や灯里は良い顔をしなかった。村のつまはじき者と仲良くするということは、村八分にされてもいいという意思表示であった。不作の名残は今年にも及び、山の幸である薬草も少なくもともと裕福でない狗堂家は困窮していたが、村八分は助け合いの輪からすら弾き出されるということなのだ。

 しかし煬介にはそんなこともどうだって良かった。浮浪児の集まりは、紫がいなくなって初めて出来た、心から安らげる友人だったからだ。


「煬介、畑を―――」

 幹久に皆まで言わせることなく、荷を置いた煬介は家を飛び出していってしまう。

 ため息をついた祖父に、家の中で縫物をしていた灯里が呼びかける。

「無駄よ、じいさま。言うことなんて一つも聞きやしない」

「困ったもんだな……」

 灯里の思春期にも散々悩まされたものだが、大人しかった煬介の方が難儀だったとは。

 胡坐をかいた幹久に、灯里は続けた。

「それはそうと、京都学連のこと、お話ししましたっけ?」

 学連―――学生連合会とは、社会主義を研究する大学生団体の全国組織のことである。京都学連事件とは、去年度から今年にかけて、治安維持法の下に、学連の会員学生たちが多数検挙された事件であった。

「ああ……宝治朗は結局捕まらなかったのか?」

「あの件で、例のネズミの裏切り者たちはついに、忍天狗との連絡を絶ちました」

 それは今まで暗に見過ごされていた裏切りを、自ら明かしたことになる。いよいよ忍天狗の追及は厳しくなるであろう。

 “処分”が始まるのである。

「愚かなことをしたものよ」

「狗堂の家にも監視がつくやもしれませぬ」

 幹久は宝治朗を匿い、その後取り逃がした経歴がある。

「じいさま、煬介はどうしましょう」

 煬介は、忍天狗の連絡役からも逃げ回っているらしい。本当に逃げ足だけは一丁前だ。幹久は呆れとも感嘆ともつかぬため息をついた。

「あれも雛とはいえ天狗の子じゃ。折を見てわしから話をしよう」

「承知しました。……ところでじいさま、煬介につけている稽古のことですけれども」

 咳払いして話題を変えた灯里に、幹久は眉を上げる。

「鬼天狗か」

「そうです。あの稽古、一体何の意味が?」

 普段の武芸稽古とは違うのか、という問いかけだろう。武芸稽古なら灯里にもつけているが、夜半の鬼天狗の稽古の内容を灯里は知らぬ。

 幹久は囲炉裏の火に目をそらした。

「意味のあることよ。……煬介にはの」

「私には意味のないことで?」

 灯里はずいと前に出た。

「狗堂の家を継ぐのは私です。煬介に教えることなら、私を先にしてください」

「あれは一子相伝じゃ。おまえには伝えぬ」

 灯里は傷ついたように目を見開いた。

 しかしきっと眦をつりあげると、きつい口調になった。

「じいさま、厳しい修業は煬介にはまだ早すぎるわ」

「わしももう生い先短い身じゃ。今のうちに、おまえたちに出来ることはしてやらねばならぬ。あれを受け継ぐ者をおまえではなく煬介に選んだのも、わしの思うところあってのことじゃ」

「私には資格はないの? 女だから?」

「そうじゃ」

 断言した幹久に、灯里はぐうの音も出ず黙り込む。

 幹久は低い声音で、呟くように告げた。

「灯里、おまえは己の役目を果たせ」

 灯里は何も言わなかった。

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