2.1925 流転[3/4]
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宝治朗は年の離れた兄のような存在であった。
煬介はこの頃になると、姉や祖父が薬師以外の何かを職としていることに気づき始めている。幹久が己に教える忍び文字やその会話法、身体の鍛錬などが、他の子もおしなべて教わるものではないということを知っていた。だがそのことを指摘しようとも、幹久や灯里は、その一点でのみまるですきがない。一方で、宝治朗は非常にとっつきやすかった。煬介は皮肉にも、宝治朗から、忍天狗という組織の存在を教わったのである。
「朱雀、白虎、玄武の順番に偉いのさ。玄武は大体が薬師や陰陽師、占い師で戦わない。白虎は武芸に秀でているが、それだけだ。朱雀はみな表の顔を持ちながら、裏で忍びとして活動しているのだよ」
「じゃあ、じいちゃんは玄武?」
「いや、狗堂は朱雀一族の家系だよ。俺の鹿代もそうさ。基本的に、四神それぞれの一族は、長の家系以外一族内にしか関わりがないからね」
宝治朗は庭の土に線を引いた。三つの円にそれぞれ朱雀、白虎、玄武の名を記し、朱雀の円の中にクドウ、カタイと記す。
「朱雀一門で、最も偉いのが焔村って家だ。四神はそれぞれかしらの家系をもつが、焔村は忍天狗全体を束ねる家で、いわば大頭というわけだね」
三つの円をさらに大きな円で一括りにすると、宝治朗はそのてっぺんにホムラと書いた。
「知ってるかい、忍天狗は大昔、神様から授かった力を日本の大地にお返しするために存在する一族なのさ」
「うん、それはじいちゃんに聞いた」
誇らしげな宝治朗は、うんうんと頷いた。
「その力ってのを受け継いでいるのが、頭の家系なのさ。力は全部で四つあり、四神それぞれが一つずつ継いでいる」
「それで、せいりゅうが力をひとつ無くしてしまったから、追放されたんでしょ。知ってるよ」
煬介はそこで首を傾げた。
「でも力なんて目に見えるものなの? 念力みたいなもんかな?」
「なんでも、子どもの掌に収まるほどの球だそうだよ。俺も人聞きでしか知らないがね、当代様が呑み込んで、胃袋の中に入れておくんだそうだ。そうして亡くなったあとに身体を焼いて、焼け残った球を次代様が呑む……という形で継いでいくらしい」
「うへ、気持ち悪ィなあ」
「昔は目ン玉代わりに使ったりもしてたそうだがなあ、呑み込むのが一番確実なんだろうよ」
そんなものが果たして力というのだろうか。ただ“力”という名の虚飾であるような気もする。忍天狗であるはずの祖父も姉も、そして宝治朗も、煬介にとっては妖術を使ったりしない、普通の人間なのだ。
「まあ、俺たち下忍の家は生まれながらに下っ端なのだから、無関係なのだがね。一応、焔村様をお守りするのも使命の一つなのだよ」
「知ってるよ、おいらも天狗の訓練を受けてんだもの」
「おお、さすが指南役のお孫さまだ。賢くていらっしゃる」
おどけたように畏まって言う宝治朗に、煬介は尋ねた。
「ねえ、宝治朗の兄ちゃんは、じいちゃんにどういう武芸を習ったの?」
「うん……指南役こと幹久どのは、体術の武芸者なのさ。白虎の武芸、玄武の知識、そして朱雀の技術を兼ね持ったお方だから、御引退されるまで朱雀の当代様には重宝されていたんだが」
ちらと宝治朗は背後を見た。まだ夕暮れどきだから、幹久が帰ってくる気配はかけらもない。
「―――こんなところに閑居されているとは、どういう風の吹き回しなのか……まあ、そのおかげで俺は助かったのだけれどね」
顔をほころばせる宝治朗は、煬介の目にすら呑気だなあと映ったのである。
「薬、薬はいらんかね」
「おい、じいさん!」
立ち止まっていた店の中から、洋装の店主が出てきて怒鳴った。
「見て分かんねえか、ここは薬局だよ! こんなところで薬なんか売るんじゃねえ」
「あれま」
目をぱちくりとして、弱弱しい老爺は頭を下げた。
「これは済まなかったね」
「まったく、営業妨害もいいところだ。余所行っておくんな」
薬売りは薬箱をよろよろと持ち上げ、再び道を行脚し始めた。夏も近づき暑さがじりじりと堪える。目深に被った傘を押し上げる。
「火に入る虫の言伝に」
ふと落ちた声に、薬売りの目つきが変わる。
「……何用じゃ」
「いえ、首尾はいかがです」
声はすれども、相変わらず姿はない。周りを見るわけでもなく、薬売りは歩みを進めながら答えた。その足運びに隙はない。
「鹿代の若造をよこしたのはおまえか」
「ええ。鹿代はああ見えて頭の切れる男です。ゆめゆめ油断なさらぬよう」
その言葉に、薬売り―――幹久は立ち止まる。
「やはり、そうか」
「そう、とは?」
「若衆の監視とは名ばかり。本当は既に、彼らの心は傾ききっているのではあるまいか? 共産主義とやらに」
「……鋭いですね」
幹久はため息をつき、再び歩き始めた。
「彼奴はわしを仲間に引き込もうとするじゃろうな」
「そうですね。しかし、彼らが本来無産政党の支持者の監視役として任についたのは本当ですよ。裏切り者の指揮は鹿代が執っています」
なるほど、ネズミとして取り入ったはずが、本当に支持者になってしまったということだ。
しかしまともに忍天狗の務めを果たしている者もおろう。おそらくそれが、こっそり密告したのだ。
「下忍とはいえこうもあっさり裏切り者を出してしまっては、示しがつきませんし一族の恥です。裏切りの決定的になった暁には、狗堂どのに“処分”をお願いしたい」
「密告者はどうした?」
「彼は殺されました。一足先に、粛清にあって」
幹久は顔を歪める。
「……密告者を粛清したのか、かしらは」
「密告者といえど裏切り者一派と寝食を共にした仲、寝返らぬとは限りませんからね」
「それは当代様の方針か? いくらなんでも、無体な」
「いいえ、次代様のご命令です。このたびの任は、次代様が指揮を執られておりますので」
幹久はより顔つきを険しくした。次代様、すなわち旦影である。
「それにしても、先に裏切り者を処罰する方がさきであろう。順序が違う」
「ですから、裏切りの明らかな証拠はまだないのです。彼らは共産主義を支持する側に回ったということしかありませんし……鹿代家は朱雀天狗の下忍の中でも、道場を持っているがために下忍らからの支持が厚いのです。おいそれと処分するわけにはいきません」
それでも納得がいかず、幹久は厳しい顔を崩さない。
「……最近の御山の様子はいかがじゃ」
葉隠山、ひいては朱雀亭のことをさして尋ねるが、連絡役の声は淡々と応じる。
「私はただのカラスです。朱雀の内実までは」
「朱雀亭で働く娘から手紙が途絶えた。御山で、何か起こったのではないか?」
街の端まで来た幹久は、振り返った。
「このところのお務めにしてもそうじゃ。……わしは納得いかぬ」
「ではお孫たちはいかがします」
切り札のように持ち出す声に、幹久はある家の軒上を睨んだ。
「おぬしは知らぬかもしれぬが、焔村家にとってもあの子らはあっさりと失えぬものよ―――わしは一度葉隠山に行こう。当代様に直にお聞きしたいこともある」
「務めはどうされるのです?」
「灯里がおろう。わしがおらぬとなれば、鹿代は孫を引き入れようとするかもしれぬ。泳がせるにはいい機会じゃ」
姿なき声は小さく笑った。
「お孫さままで利用召されるか。さすが、稀代の鬼天狗と呼ばれただけはある」
「何か変わりがあれば知らせよ。わしはこのまま発つ」
踵を返し、幹久は伏雁村の方に向かって歩き出した。




