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2.1925 流転[2/4]

[2-2/4]

 前にもまして祖父は家に帰るのが遅くなっていった。街の女学校に進学した姉も、日が暮れかけてからでなければ村に戻ってこない。

 煬介は相変わらずいじめられていたが、年下の男の子たちとは遊べるようになっていた。煬介の優しい気質は幼いものにとって良いものに映ったらしい、農作業に忙しい村の女たちに、子守を頼まれることもしばしばだった。

「姉ちゃん、おせえなあ……」

 腹をすかせながら、煬介は自宅の軒先でしゃがみこんでいた。もう夕闇すら西の山の向こうに消え去ろうとしている。空を見上げれば、瞬く星々と丸いお月様が浮かんでいた。

「じいちゃんも……腹減ったよー」

 ぎゅるり、と腹の虫が鳴る。

 それに、煬介はぎょっとして飛び上がった。今のは、自分の腹が鳴ったわけではなかったからだ。

 たしかここから、と板塀の向こうを覗くと、ぐったりとしゃがみこんでいる影を見つける。

「も、一歩も動けねえ……もうだめだ」

 袴を着込んだ若い男が、板塀によりかかって土気色の顔をしていた。煬介はぴょんと塀の上に乗ると、男の頭上から声をかける。

「兄ちゃん、どうしたんだい」

「わっ、びっくりした」

 期待していた通りの反応が返ってきて、煬介は気を良くした。

「ここらじゃ見ねえ顔だな。よその人だろ?」

「人を訪ねてきたのだが、お留守のようでね……弱った。その人頼りだったもので、財布の中身もからっけつなんだよ」

「だったら、おらんちで飯食っていきなよ」

 ひらりと塀から飛び降りて、煬介は男の隣に立った。男の気色がやや良くなる。

「良いのかい?」

「うん、どうせもうすぐ姉ちゃんが帰って……あっ、噂をすりゃ姉ちゃんだ!」

 大きく手を振る煬介に、歩いてきた灯里が応じてくれる。が、煬介の傍に見知らぬ男を見つけたらしい、その眉が曇った。

「なあに、その人」

「ここで行き倒れてたんだよ。腹減って動けないみたいなんだ。なんか食わせてやってよ、おいらもぺこぺこだ」

 灯里はまじまじと男を見た。農村にいない優男の風体の彼は、顔を赤くして愛想笑いを浮かべる。

「ま、いいわ。おあがんなさいな」

「ほ、本当ですか。ありがとうございます」

「大したおもてなしはできませんけどね。煬介、あんたも手伝うのよ」

「ちぇっ、姉ちゃんの帰りが遅いんだよ」

「手伝いな」

「あでででっ」

 耳を引っ張られ、煬介は悲鳴を上げた。


鹿代(かたい)宝治朗(ほうじろう)さんね。ご立派なお名前」

「いや、名前負けもいいとこですよ」

 夕餉を済ませても、まだ幹久は帰ってこない。

 ちゃぶ台を片付けている灯里と宝治朗の会話を聞きながら、煬介は庭に降りた。よっと逆立ちをする。それを見て、宝治朗が感嘆の息をついた。

「煬介君は身軽だね、さっきも塀の上にひょいと登ったりなどして」

「あっ、しいー!」

 時すでに遅し、灯里の目じりが吊り上っている。

「あんた、またそこらに登って。猿じゃあるまいし」

「へへ……でもよう、高いところで動くのは、逃げるのに役立つんだぜ」

「また苛められたの? あきれた」

「だから、ちゃんと逃げたよ!」

 姉弟のやりとりを、宝治朗は丸い目で見ていた。

 そこに、幹久が帰ってくる。

「じいちゃんだ!」

「じいさま、お帰んなさい」

「誰か来とるのか?」

 敷居を跨いだ幹久は、宝治朗と目を合わせて、あっと声を上げた。

「おまえ、宝治朗!」

「し、指南役!」

 ばっと宝治朗は居住まいを正すと、畳に額をつけた。

「これは、指南役のお宅だったとは……天命でしょうか、お久しぶりにございます」

「うむ……」

 複雑な表情をしながら、幹久は居間に上がる。煬介と灯里は顔を見合わせていた。

「じいさま、お知り合い?」

「旧友の息子でな。……わしの弟子でもある」

「弟子って何の?」

「武芸に決まっとろう、おまえらの兄弟子のようなもんじゃ」

「指南役にはボロ雑巾になるまでお相手していただきました」

 さわやかな笑みをほころばせ、再び宝治朗は額を擦りつけた。

「指南役のお子がたとはつゆ知らず、とんだご無礼を」

「これは孫じゃ。いいから顔を上げい、久しぶりに会うのにそんなに面を隠してはいかん」

「はい」

 粛然と、宝治朗は顔を上げた。

―――曰く、宝治朗は幹久を訪ねてきたらしい。

 何の用なのか、は煬介には聞かれなかった。本題に行く前に、夜も遅いからと寝間に行かされたからである。

「何でおいらだけ仲間はずれなのさ」

「あんたが大人の話を聞いてたって、せんないでしょうが」

「でもお」

「しつこい、寝るっ」

 ぴしゃりと灯里に襖を閉められ、煬介は頬を膨らませる。

 なんだよ、宝治朗の兄ちゃんを見つけてやったのはおいらなのに。

 だが間もなく、夜のとばりは煬介を眠りに連れて行った。


 宝治朗は忍天狗だ。幹久が忍天狗の道場に指南役として招かれたときの教え子の一人である。もう二十年近くも前の話で、宝治朗は当時、煬介と同じくらいの歳だった。それでも彼は幹久のことを覚えていた。

「よくここが分かったな」

「連絡役に教えられて。どうも、指南役がうちの隊に加わるとお聞きしたんです」

 例の、無産政党の監視の件だろう。とすれば、宝治朗は支持者のふりをして内実を探るネズミ役のはずである。

「指南役は引退したと聞いていたんで意外でしたが、納得ですよ。お孫さんがいたなんて」

 ちらりと灯里に目をやり、宝治朗は続ける。

「しかし指南役がいてくだされば百人力です。うちは若い者ばかりで、シャンと立つことも出来ない蛸みたいな連中ばかりですから」

 忍天狗はあまり内情を話すことはよしとされない。それが仲間うちであってもである。ましてや作戦行動中の下忍が、連絡役として以外で己の隊を話すことなど許されない。

 しかし幹久は宝治朗を窘めることなく、その話を聞いていた。それが今度の幹久の任務であるからである。

 旧友の子であろうがかつての弟子であろうが、そこに情けは加えられない。

 宝治朗は道場を持つ天狗の家系の子の生まれである。十分な学力と学費をもって帝国大学に進み卒業したものの、今は表の顔としての仕事は持たぬらしい。いわゆる高等遊民というものらしかった。

「ふらふらしているうちに、親父が激高しちまいましてね。性根を叩きなおして来いと……下忍の仕事を引き受けたわけですよ」

 そして隊付の連絡役に、幹久が近くにいることを聞いたというわけだ。

「それでわしのところに来たのか。そりゃ、鹿代どのも憤慨されよう」

 怒るどころか呆れて、幹久は呻いた。当の宝治朗はへらへらしている。

「指南役、よろしければしばらく置いてはいただけませんかね。勿論、指南役のお仕事の邪魔はいたしません」

 幹久は思案する。あの抜け目ない連絡役がわざわざ寄越したということは、宝治朗を使えということだ。口の軽いこの男を間に立てれば、直接隊の者たちに会い触れることなく、監視を行うことが出来るだろう。あとはこの男に、幹久のことを黙らせておけばいい。

「ねえ、じいさま。宝治朗さん困ってるみたいだし、いいんじゃないかしら」

 灯里が幹久の袖を引く。心なしか期待した孫娘の視線に複雑なものを抱きつつ、幹久は膝を打った。

「あい分かった、いいじゃろう。ただし宝治朗、わしがここに住み家を構えること、孫たちのことは誰にも明かしてはならぬ。よいな」

「お約束しますとも、ありがとうございます!」

 宝治朗はひれ伏した。どこまで信用できるか分からないが、使ってみるだけの価値はある。

 幹久だけではない。忍天狗は身内の者に対する以外、悉く冷徹なのであった。

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