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2.1925 流転[1/4]

[2-1/4]

「ああ、もう! 姉ちゃんのばか! なんで起こしてくれなかったのさ!」

 時計に視線を送りながら、煬介は下駄に足を滑り込ませた。駆け出す瞬間、怒鳴り声が追いかけてくる。

「煬介! お弁当!!」

「もー!!」

 制服で顔を出した姉の差し出した包みをひったくると、煬介は家を飛び出していった。その背に灯里(あかり)はこぶしを振り上げる。

「ありがとうございますくらい言わんかー!」

「ありが十匹、ありがとさーん! 行ってきまーす」

「もー……」

「毎朝毎朝、騒がしいの」

 ゆっくりと茶を飲む祖父の姿に、灯里は仁王立ちで眉を寄せる。

「だったらじいさまからも言ってやってよ。あたしの女学校の方が、小学校の方より遠くて大変なんだから」

「そういうおまえは、ゆっくりしとってもええのか」

「あっ!」

 灯里は自分の分の弁当包みと鞄を持ち上げると、玄関に駆けていった。

「行ってきます!」

「気を付けてな」

 灯里の女学校は街にある。が、灯里の脚は普通の女学生の何倍も速いので遅刻はしないだろう。

「じいさま」

 もう行ったかと思われた灯里が、玄関戸から覗いている。

 隣に、背広にネクタイを締めた男性が立っていた。男は帽子を脱ぐと、灯里を見た。

「灯里さん、お久しぶりです。セーラー服がお似合いですよ」

 灯里は不愉快そうに顔をしかめる。

「あたし、学校行かなくちゃ」

「まあお待ちなさい。ゆっくりお話ししたい案件もあることですし、今日ぐらいはいかがですかな」

 男の有無を言わせぬ雰囲気に、灯里はたじろいで幹久を見る。

 幹久は告げた。

「灯里、行きなさい」

「……うん」

 灯里は男の脇を過ぎ去ると、逃げるようにいなくなった。

 その背を見送り、男は玄関口から幹久を覗く。

「煬介君はいらっしゃらないので?」

「家に来るなと何度言ったら分かるのだ」

 押し殺した怒りを滲ませながら幹久が答えると、男は飄々と応じた。

「なに、お子らのご成長を見たかっただけですよ。他意はありません」

 男は家に入ってこない。今立ち入れば、己がどんな目に遭うか理解しているのだろう。

「おぬしら、既に灯里に“おつとめ”をさせておるらしいな。わしが誤魔化せると思うたか」

「思っておりませんよ。狗堂(くどう)どのこそ、いずれは灯里さんも歩む道だとご存じだったはず。煬介君も」

「たわけ、まだ言うか!」

 怒声を浴びせると、びりびりと長屋が揺れた。男は肩を竦ませるが、応じた声音は落ち着いている。

「それはそうと、要件をお伝えしてもかまいませんか。火に入る虫の言伝に参りましたので」

 幹久は険の帯びた目を、ゆっくりと閉じた。歯ぎしりする。

「……入れ」

「では、お言葉に甘えて。失礼致します」

 男は音もなく進むと、玄関戸を閉めた。

 座敷に上がり、幹久が差し出した座布団の上に座すと、男―――忍天狗(しのびてんぐ)の連絡役は口を開いた。

「治安維持法が、春口にも制定されるそうです」

 過激な共産主義―――ひらたくいえば、反政府活動を取り締まるための法律だ。男は続ける。

「同時に、普通選挙法も改正されるそうです」

「飴と鞭というわけか、ふん」

「先月に、我が国とソビエト連邦の間に国交が樹立しました。まあ、それに引きずられて革命運動が激化するのを抑えるためでしょうな」

「しかし普通選挙か……枢密院がよく許したの」

「おっしゃる通り、飴と鞭ですよ。普通選挙自体もすぐさま行われるというものではありません。実質、政治活動に対する圧力は増すものと思われます」

「それで、本題は何じゃ。数日のちには新聞に載るようなことを談義しにきたわけでもなかろう」

 幹久がそう振ると、連絡役はにいと笑った。

「狗堂どのにお願いしたいのは、無産政党支持者の監視です。共産主義と社会主義が非合法とされる上で、彼らの支持を受け合法的に政党として活動できるのはご存じのとおり、無産政党のみです。すでに何人か若いネズミを潜らせていますが、狗堂どのには彼らの手綱を握って頂きたい」

「おぬしらとネズミの橋渡しをせいということか?」

「さすがご察しが早い。表向き、支持者の監視ですが、実質ネズミたちの監視ですね」

 男は困ったように続けた。

「無産政党の支持者は、そのほとんどが労働者、そして農民です。下忍の若者の生家もそれらであることが多いのですし、彼らもある意味下級労働者ですからね。影響される者も中にはいるのですよ」

 見下した口調だが、使い天狗などこんなものだ。幹久は鼻を鳴らした。

「わしもそのうちに入るのじゃが」

「あなたは裏切りませんでしょう?」

 ごく当然のように言い返され、幹久は答えに窮す。

 幹久には孫らがいる。

 彼らを守るために、幹久は再び忍天狗に舞い戻ったのだ。

「……裏切らぬ」

 連絡役は満足そうにうなずくと、立ち上がった。

「近日中に別の連絡役を派遣します。では」

 来たときと同じ唐突さで連絡役は去っていった。

 幹久は深いため息をついた。老いぼれになおも働けと命ず組織にも、またその任務の内容にも。幹久はこの仕事を再開してから隊を組む任務に従事したことはなく、忍天狗の頭たちとその連絡役以外にその復帰を知る者もなかったのだ。疎遠になっていた忍天狗の旧知たちと再び関わることになれば、灯里や煬介の存在は自ずと広まろう。ただでさえ灯里は、既に忍天狗の連絡役と接触しているというのだ。

 推測なのは、灯里がはっきりとそのことを幹久に告げたことはないからだ。しかし先の玄関で鉢合わせたときの反応から鑑みても、灯里は連絡役の顔を知っている。幹久を介さず灯里が“お務め”をしている―――これは幹久の今までの努力の一部が水泡に帰したことを意味する。

 また、幹久は懸念していた。灯里と煬介には武術を手ほどきしているが、到底それで人をあやめられるものではない。そのことを連絡役も把握しているはずだ。しかし万が一にも、人を殺さねばならぬような任務に灯里が巻き込まれれば―――そして、返り討ちに遭うようなことがあれば。

 幹久は殺人の技能を持っている。一子相伝のそれを孫に伝えることもできる。だがその行いはこずえの、そして今は亡き子らの父の願いに反する。一方で、既に子供らを一族の運命の渦中に引きずり込みつつある今、生き残るための術を授けねば彼らはどこかで命を落とすかもしれない。

 親としての情念か、養育者としての理性か。

 その狭間で、幹久は揺れていた。

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