1.1923 夢滴と消ゆ [4/4]
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「ねえ、ようちゃん。どこまで、行くの」
紫は息を弾ませながら言った。煬介が立ち止まると、自然と二人の手は離れる。
無我夢中で駆け抜けて、気づけば二人は隣の集落までたどり着いていた。あまり来たことがない町並みを煬介が見渡すと、その背後から声がかかる。
「おっ、ハナタレヨースケじゃねえか」
嫌な奴に見つかってしまった。
そこにいたのはガキ大将のマサカズであった。一緒に遊んでいたとみられる、小僧たち数人と一緒である。
「二人でお手手つないで、なかよしこよしの花いちもんめかあ?」
「おはじきか、それともゴムとびか?」
「跳んでみせろよ、ほれ、ぴょん、ぴょん」
ウサギの物まねをする取り巻きの一人が、紫を体当たりで突き飛ばした。
「あっ」
「紫ちゃん!」
ころんだ紫を助けようとして屈んだ煬介は、もう一人近づく少年に気づかなかった。
勢いよく肩を押されて、煬介は側溝に転落する。
「ようちゃん!」
げらげらと上がる笑い声。ドブ水を頭からかぶった煬介は、半泣きで身体を起こした。
「おいやめろ」
マサカズが言うと、哄笑はぴたりと止まった。
紫の手を借りて側溝から上がった煬介の眼前にしゃがみこみ、マサカズは煬介の胸倉を掴む。
「おまえ、調子に乗ってんじゃねえぞ。なんでいつもおれの言うとおり集まらないんだ」
「く、くるしい」
「おれに逆らえるのかよ、弱虫のくせによ」
突き飛ばされ、煬介は再びドブに落下する。上がった歓声に、紫が怒った。
「なによ、よってたかって、ひきょうじゃない!」
「卑怯だって?」
「そうよ。ようちゃんは弱虫じゃないわ。おおぜいでいじめる、あんたたちのほうがよっぽど弱虫よ!」
「紫ちゃ……」
やめてと言おうとしたが、煬介はドブ水に咳き込んだ。
マサカズはふんと上向きの鼻を鳴らす。
「おれは女にもようしゃがねえぞ。いいか、あやまんなら今のうちだ」
「あやまるのはあんたたちよ、ばか! 弱虫! いくじなし!」
マサカズは茹蛸のように真っ赤になると、紫をどんと突き飛ばした。
紫の身体が宙に浮く。妙にゆっくりに感じる。側溝に降った彼女を、煬介は下敷きになって庇った。ドブ水が飛び散る。圧力に、煬介は息を詰まらせた。
「けっけっけ、ドブ川で二人なかよくおよいどけ!」
「マサカズに逆らうから、こんな目にあうんだぜ」
声ははっきりと聞こえるが視界がちかちかしている。むきになっているらしい紫が、甲高い声で叫んでいた。
じわと、煬介の目に涙がにじむ。
だめだ。泣いちゃだめだ。―――それでも感情は正直だ。
やっぱり、おいらは弱虫なんだ。
「おい、もう行こうぜ」
「あばよ、弱虫! あとでちゃんと顔出せよ!」
「誰が弱虫だって?」
割り込んだ声は女のものだった。
ようやく落ち着いた視界が開く。とまどうようにあとずさる、マサカズ一行の正面に、鬼の形相の娘が一人立つ―――
灯里である。
灯里はむんずと、マサカズの取り巻きの胸倉を掴むと、えいやっと投げ捨てた。
放り投げられた身体が別の取り巻きにぶつかる。灯里はマサカズにすらグーで殴り掛かると、男の子たちを独りでぼこぼこにノしてしまった。
泣きながら逃げ帰るマサカズたちをよそに、灯里は紫を側溝から引きあげてやる。紫は半泣きだったが、泣いてはいなかった。
煬介は自力で上がった。わんわんと泣いていた。
「泣くな! じいさまに言われて探しに来たら、紫ちゃんをケンカに巻き込むなんて、この馬鹿!」
ごちんと、灯里の怒声と鉄拳が煬介のどたまに落ちる。余計火が点いたように泣く煬介の前に、泥まみれの紫が立った。
「やめて、あかりちゃん。ようちゃんのせいじゃないの」
「あれま、紫ちゃんも泥っカスじゃないの! かわいそうに」
きっと煬介を睨みつける灯里に、紫は触れないようにしながらも、視界をふさぐように腕を振る。
「ちがうの、ようちゃんのせいじゃないの。怒らないであげて! あたしが悪いの、あたしが……」
目を潤ませる紫に、灯里は慌てて言った。
「分かった分かった、怒んないから。あんたまで泣いてちゃ、あたいがじいさまに怒られちまうよ」
その帰り道、先頭の灯里と手を繋ぐ紫はとぼとぼと進んでいく。そして、紫に手を引かれて歩く煬介はまだぐずぐずと泣いていた。
「いつまで泣いてンの、本当に情けないねあんたは」
「だって……」
言われなくても分かっている。情けない自分に煬介は泣いていた。
紫ちゃんを守るだなんて、よくそんなこと言えたもんだ。天国のおばちゃんも呆れていることだろう。こんなんじゃ、紫ちゃんは父ちゃんと一緒に暮らした方が、正解だろう。
「あかりちゃん、ゆかり、ようちゃんとはなれたくないよ。あかりちゃんとも」
ぽつりとこぼれた紫の言葉に、灯里は唸る。
「あたいだって一緒にいたいよ。でも……紫ちゃんの父ちゃんはお金持ちなんだろ、そっちにいった方がきっと紫ちゃんのためだよ」
「ううん、お金なんかいらない。あたしはここがいいもの」
くると後ろを―――煬介を向いて、紫は困ったように訊いてきた。
「ようちゃんはどう?」
そりゃもちろん、ずっと一緒にいたい。
だけれども、即答できるほど煬介は度胸がない。あんなふうにまた苛められたら、紫がかわいそうだからだ。
答えない煬介に、紫は不安そうに眉を寄せる。ジト目をした灯里がふんと鼻を鳴らした。
「臆病モン」
灯里の罵り口にも、煬介はじっと耐えていた。
翌日、紫は父に連れられて、東京へ発つことになった。
急な話だが、紫の父は忙しいらしい。
彼は車で来ていた。集落を出たところのやや広い道に止めてあるそれを、村の子供たちが物珍しげに見ている。庭先からその光景が見えている。紫を泥まみれにさせたことで祖父から大目玉を食らった煬介は、見送りの時間にも縁側でしょぼくれていた。
「紫ちゃん、行っちゃうよ。いいの?」
呼びに来た灯里が、煬介に声をかける。
ずっとしょんぼりしている煬介が、さすがに心配になったらしい。灯里は煬介のとなりに座ると、背中をさする。
仲良しの女の子たちから綺麗なお手玉をもらい、紫が車に乗り込もうとしている。
「もう会えないかもしれないのよ。言いたいことがあったら、今のうちに言っときな」
そう言うと、灯里は庭に降りて、低い柵を乗り越えた。狭い川堀づてに道へ降りると、車へ近づいていく。
煬介はぱっと立ち上がった。
灯里に手を振った紫が、車の扉に閉ざされる。
「紫ちゃん!」
転がるように駆け出して、煬介は柵を飛び越えた。川堀を落ち、道に飛び出して、車を走って追いかける。
車の後ろの狭い窓から、紫が必死に手を振っているのが見えた。追いかけながら、煬介は叫ぶ。手を振りながら、徐々に離れていく距離を感じながら。
「紫ちゃん、また、またね! またねえ!」
真っ直ぐに伸びる土の道を、車は走っていく。
「またね……」
息を切らせながら、煬介は立ち止まった。
車は走っていく。その、先に続く空は快晴だった。
―――また、いつか。
臆病者と呼ばれないくらい、強くなったら。
紫に会いに行こう。
まぶしい空に目を細め、煬介は決意した。