[1908 晩秋]
[1908 晩秋]
燃えるような紅葉とはよく言ったものである。
見事に色づいた葉隠山を麓から見上げ、娘は感嘆の声を上げた。汽車の車窓から見るあの山が近付くたびに、胸にある不安と期待のせめぎあいは大きくなっていった。山の美しさによるものだけでは勿論ない。
「もういいか」
呼びかかった声に返事をすると、娘は車に乗り込んだ。運転席には白髪混じりの壮年の男が座っている。娘の父であった。彼は、葉隠山の麓の駅と山中の宿を往復する、送迎車の運転手を勤めている。紅葉も見慣れた景色であろうが、娘は初めてこの山に登るのだ。
娘はここから離れた大きな街で生活していた。が、不況のあおりを受けて職を失う。娘はまだ若く、父も裕福とはいえない。働かねばならなかったが、いかんせん仕事がなかった。
そこで父の伝手で紹介を受けたのが、葉隠山の中腹にある、ある宿であった。
宿の名を朱雀亭という。秋色に染まる山が由来らしい。
車が坂道を登るにつれ、娘の心を不安がみるみる占めていった……遠くから山を眺めていたときにはあった期待が、波のようにひいていったからだろう。紅葉は車窓からでは見えない。見えたとしても、先を急ぐ車からの景色は川のように流れていくばかりだ。
やがて車は速度を落としていく。
娘は気付いた。眼前の山楓の木の狭間に、門があることに。
「着いたぞ」
運転手である父はそう言ったが、娘には門以外、人が建てたものは見当たらなかった。不安に父を見つめるが、彼は急かすように顎をしゃくるだけだ。
「お迎えがきている」
そう言われて初めて、娘はその存在に気付いた。
いつからいたのか。木製の門は半開きになり、腰を屈めた着物姿の男が一人、立ち尽くしていた。あれが“お迎え”なのだろうか。父の方を見ると、彼は軽く頷いて応じた。
車から我が身と荷を降ろし、娘は父と相対する。父は、普段から無表情な顔をほんのわずか歪めた。別れを惜しむように。
「わしはこの先には行けぬ。朱雀の奥様には、よく言ってあるからな。失礼のないようにせいよ、こずえ」
父が何故こんな今生の別れのようなことを言ったのか、娘―――こずえには明らかではない。
だが父から離れ、案内人のあとについて門を潜ったその折に、たしかにもう引き返せぬ何かを思ったのだ。
案内人は兎丸銀二と名乗った。
朱雀亭の下男下女を統括する役回りらしい。ひどく曲がった腰の様から随分年寄りのように思えたが、顔の皺や黒々とした髪色からして、こずえの父より若いのだろう。銀二はひどく浮き足立ったような甲高い声で、朱雀亭にお勤めするものの心構えを説きながら進んでいた。
「いいですか、ここにお泊りになるお方々は並大抵ではございません。政府の関係者から、財閥のご重鎮まで。この国にとって大事な方々ばかりです。朱雀亭は江戸古来より、そういったお方々のお世話をしてきた宿なのです。そのところを心してお勤めなさい、よろしいかな」
炎の色の中をくぐり、こずえが行き着いたのはまた門であった。今度は木々に隠れず、塀も見ることが出来る。銀二のあとに続いて門を潜ると、今度はすぐに屋敷があった。山の中にこれほどの平地があるのかというほど広い敷地内にあって、これもまた大きな平屋である。
裏口より通された和室で、こずえは大女将と面会した。
目尻がつりあがった、きつい雰囲気の美女、というのが大女将の最初の印象である。この印象は中身からくるものであったらしく、こずえがお勤めを始めてからもずっと、大女将の下人に対する冷たく凛然とした態度は変わらなかった。
朱雀亭は山宿であるものの、旅籠のように通りがかりの人々が気軽に一夜を明かせるような宿ではなく、どうにかしてあらかじめ予約を取った、それも身分のある人々が何らかの目的を持って泊まりに訪れるような宿であった。数日、または数週間に一度は立派な紳士服を召しまとった壮年の男たちがこずえの父の車で朱雀亭を訪れ、離れで秘密の会合をし、飯を食い、翌日か翌々日には来た時と同じように帰っていってしまう。少なくとも、彼らに温泉宿を楽しみに来た明るさはない。皆が皆唇を引き結び、緊張した面持ちで離れに案内されるのだ。
ここは普通の山宿ではない。
働き始めて一月で、こずえは違和感を抱いていた。
厳しい教育を受けた一月であった。とりわけ、使用人が行き来して良い門や廊下は限られていた。
下女の先輩にミキという娘があった。彼女は低い背に丸々とした体つきの明るい女で、一番新入りのこずえの世話を何かと焼きたがった。お喋りなミキは、こずえが聞かなくとも朱雀亭、ひいてはこの葉隠山についてを教えてくれたのだ。
ミキが言うに、葉隠山には天狗が住んでいるという。かなりの昔から、神社に祭られ、大切にされてきたのだという。
天狗を見た者もあるらしい。明治の世に入ってからはとんとそれも少なくなったようだが、天狗は山で道に迷った者や怪我をして動けなくなった者を、ひそやかに麓まで連れて行ってくれる。祟るから祀ってきたわけではなく、天狗はこの山の神であるらしい。
朱雀亭の当主はその天狗神社の神主であるのだ。姓を焔村一族といった。焔村は士族でもある。その誇りが高いのであろう、泊まりに来る客に対してもへりくだったところは使用人には見せない。また客も客で、朱雀亭の大女将が己たちを迎えることを、恐縮しているようである。
こずえは天狗の存在を素直に信じたわけではなかったが、葉隠山がどこか神秘を帯びた山であるのは感じていた。朱雀亭にいても、明らかに使用人や家主一族以上の人の多さを感じることがある。この人気が天狗のものならば、こずえはそれを敏感に感じ取っているに違いなかった。
焔村一族はこずえが知る限り四人であった。
まず大女将と、その旦那である朱雀亭の当主。この二人は使用人たちの前にもよく姿を現した。士族らしく、堂々とした立ち居振る舞いである。
そして、紅葉に透けるような美しさを持つ少女。この少女は兎丸銀二が敬語を使っていることから焔村の姓を持っているのだろうとこずえは推測した。使用人が上がれぬ屋敷の縁側に座しているところをよく見る。庭を掃く下人たちの様子を、睨むような目つきで眺めているのだ。
ミキが言うに、彼女は大女将の娘であるという。なるほど、美しいが厳しい顔つきはよく似ている。名は秋ノといった。しかし、こずえがこの少女と初めて言葉を交わすのはもっとあとの話であるから、秋ノの話は一旦ここまでにしておこう。
ところで、焔村一族の最後は男である。この男性は滅多に見ることがなく、外から彼が帰ってきたとき、こずえははじめお客さまだと思って接待してしまった。立派な余所行きの着物を着ていた男は高笑いをし、名乗った。俺は焔村旦影、焔村の家の子息であり、客ではないと。
謝罪して許しては貰ったが、旦影は陰湿な男であった。次代当主の顔を知らなかったことが、彼の一族としての誇りを傷つけたらしかった。そう、旦影はいずれ焔村当主に座す男であり、大女将の息子である。彼が告げ口をしたのか知らないが、こずえが彼を客と勘違いした件は使用人全てにいつの間にか伝わっており、銀二にも叱られるわ、その上もっと肩身の狭い思いをさせられることとなった。
何の悪戯心か、こずえはその次代当主の世話係りに回されたのである。
こずえのような下っ端の端女には過ぎた大役である。それも、まだお宿に来てまもない新参者が。
ミキにすら嫉妬されるようなこずえの日々が始まった。




