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素人探偵集

幽霊になった私を差し置いて、彼氏がトンチンカンな推理を始めた件。〜私のツッコミは届かないのに、なぜか事件は解決に向かっています〜

作者: 凪波はるか
掲載日:2026/05/18

 ――あ、これ駄目なやつだ。

 

 高校二年の秋。

 彼――悠(はるか)と『アトリエ・ランタン』に立ち寄っていた私は、中二階に上がる、ゆるく螺旋を描いた細い鉄製の階段から突き落とされた瞬間、そんなことを思った。

 

 背中を強く押された瞬間、ふわりと浮くような感覚があった。

 とっさに後ろに手を伸ばし、自分を突き飛ばした手にしがみつこうとする。しかし、必死に伸ばした指先はわずかに何かを掠っただけで、私の手は虚しく空を切った。


 手すりは段差の両側にあるけれど、それを掴めるような距離ではなかったし、そもそも背中を押された勢いというのは、想像していたよりずっと意地が悪くて、一切の抵抗を許してくれない。

 足が踏み板に着くよりも前に身体が前方に回転し始めていて、咄嗟に受け身を取ろうと段差に手をついたところで、勢いは止まるどころか、ただ私の手首の関節を裏返しにねじっただけだった。

 

 私はそのまま段差の角に、思い切り頭を打ち付けた。

 視界に閃光が走り、耳鳴りが膜のように世界を覆う。

 状況を飲み込む暇もないまま、身体は横向きに回転を続け、ドサッ、という、自分のものとは思えないほど鈍い音を立てて、冷たい踊り場に倒れ込んだ。

 煉瓦造りの店内のひんやりした空気が、頬と、首筋と、剥き出しになった膝の裏に、不均等に触れる。

 中二階の壁際で、いつも換気のために開け放たれているオーニング窓から、秋の冷たい外気が、ふわりと、舞い込んできていた。

 

「うぅっ……!」

 

 息を呑むようなうめき声が、喉の奥から絞り出された。

 

 頭が割れるように痛い。いや、もう割れているのかもしれない。怖い。

 指一本もまともに動かせなくて、自分の身体じゃないみたいだった。

 鼻の奥に、鉄錆のような匂いがじわりと広がっていく。ああ、これ死ぬんだ。そんな他人事みたいなぼんやりとした思考が、血溜まりみたいに黒く塗りつぶしていく。

 

 頭の中で、いくつもの思考の断片が、形を取ることもなく浮かんでは消えていく。

 昨日の夜に途中で投げ出した小説の続きとか、明日の現代文の小テストの範囲とか、来週貸してもらう約束だった悠のお気に入りの音楽プレイリストの名前とか、そういう、ちっとも切実じゃないものばかりが、靄のような薄さで通り過ぎていった。

 

 階段の上方へ向けられた視界に、動く人影が見える。

 

 ぼやける景色の中、その影に向かって私は視線だけを動かした。

 たった今、私を突き飛ばしたばかりの犯人が、踊り場の上の最後の段に、まだ立っていた。

 

 吊られたアンティーク・ランタンの橙色の温い光が、その肩にかかったアイボリーのカーディガンを、ぼんやりと照らしている。

 袖口は手の甲を半分隠す長さで、左の裾には、いつも茜(あかね)さんが「これ、コーヒー零した跡なんだ、もう取れないの」と笑っていた、小さな染みがあるはずだった。

 

 ――あかね、さん?

 

 その名前を、私は、声にしようとして、できなかった。

 息がもう、音にならない。

 嘘でしょう、と思った。


 時に同世代の友達のように親しく、時に姉のように厳しく、まるで家族のような存在だった茜さん。

 その彼女が、どうして私のことを――。どうして……。


 そんな問いの答えが得られるはずもなく、頭の中をぐるぐると回り続ける。

 しかし、次第に身体が急激に冷えていき、次第に私の頭の中は空っぽになっていった。

 

 それから、世界の輪郭は、白く溶けて消えていった。


  ✼ ✼ ✼

 

 どれほどの時間が経っただろうか。

 次に意識が戻ったとき、私は、自分の身体の真上にいた。

 

 しかし、それはどこかふわふわとした感覚で――、浮いているというのが正しいだろうか。

 アトリエ・ランタンにいるのは間違いない。

 それなのに眼下に広がるのは天井から見下ろしたような景色で、踊り場に投げ出された自分の身体が、まるで他人みたいに不自然なポーズで、そこに転がっていた。

 

 私の頭の周りには、もうほんのり赤い液体が広がっていて、それが今も、煉瓦の継ぎ目に沿ってじわじわと滲んでいく。


 (……うわぁ、めっちゃ血が出てる。私の頭から)

 

 その光景を、私はぼんやり眺めていた。

 これ、もしかして私って今幽霊になってるってこと?

 

「茉莉(まり)ちゃん――! 茉莉ちゃんっ、しっかり、ねえ、目開けてっ」

 

 階段の下から駆け上がってきたのは、茜さんだった。

 さっき私を突き落としたばかりのはずの茜さんが、エプロンの紐を解きかけのまま、青ざめた顔で私の身体の脇に膝をついている。華奢な指先は、その身体に触れていいのか迷うように宙で止まっている。

 

 (は……?)

 

 浮いている私は、それを見下ろしたまま、間抜けな声を出していた。

 

 いやちょっと待って、と、ちゃんと言葉にしたかった。あなたが今、私を、と言いたかった。

 けれど、どれだけ叫んでも、茜さんは私の声に反応しない。

 

 遅れて一階から駆けつけた拓海(たくみ)くんが、「うわ、嘘、ちょっ、救急、救急車っ、誰か、――いや俺呼ぶ、呼びます!」と上ずった声で叫びながら、中々ポケットから取り出せないスマホに四苦八苦しているのが見えた。

 普段はカウンターの内側で、私が来店するたびに「茉莉ちゃん今日も来てくれたんすね、悠さん大事にしてあげてくださいよ」とにやにや笑って囃し立てる、あの拓海くんが、だ。

 

 尋常でない様子が伝わったのか、奥の工房からは、店長の佐久間(さくま)さんが、修繕用の細い鑿(のみ)を持ったまま、静かに出てきていた。

 踊り場にやってくると一瞬息を呑んだが、事態を把握するや、落ち着いた声で言った。

 

「拓海、慌てるな、深呼吸。落ち着いて住所だけ伝えなさい。茜さん、頭を動かさないで。下に何か、薄手のもの、――そうそれでいい」


 拓海くんは言われた通りに大きく息を吸うと、電話を掛け始めた。茜さんは手持ちのハンカチを四つ折りにして、そっと私の頭の下に添える。

 寡黙そうな顔つきに似合わず、店長の指示は、信じられないくらい簡潔で正確だった。

 テーブル席を見れば、常連の老夫婦が口を半開きにしたまま、固まっている。

 

 そして最後に、悠がやってきた。

 

 先程までトイレに行っていた悠が、静かに階段を下り、踊り場の縁に膝をつく。

 茜さんがその姿を心配そうに見つめ、悠のために少しだけ身体の位置をずらすと、悠は震える右手で私の頬に触れた。

 

「茉莉」

 

 たった一度、悠は、私の名前を呼んだ。

 その声が、私がこれまでに聞いた悠の声の中で、いちばん低くて、いちばん静かだった。

 それから彼は、たった一筋だけ、信じられないくらい綺麗に、ひとつぶの涙をこぼした。


 茜さんが、小さくこぼした。


「気づいた時には、茉莉ちゃんはもう倒れていて……。階段を下りる時に踏み外しちゃったのかしら」


 その言葉に、全身の毛が逆立つような感覚を覚える。

 自分でやっておきながら、なんて白々しい……!


 先程の老夫婦が階段を上がってくる。

 旦那さんがおずおずと口を開いた。


「誰かが、その子を突き飛ばしたように見えたよ。座っていた位置からだと、その姿はほとんど見えなかったが……」


 悠は、その言葉に、手の甲や袖で乱暴に涙を拭い去り、その勢いのまま顔を上げる。

 その瞳の奥には、私がこれまで一度も見たことのない、奇妙に冷えた光が、ぽつんと灯った。

 

「――俺が、解く」

 

 悠が、誰にともなく、ただ自分に言い聞かせるように、そう言った。

 その後に訪れたのは、針の落ちる音すら聞こえそうなほどの完全な無音だった。誰もが息を呑み、次に放たれる言葉を待っている。部屋を満たすのは、ただ重苦しい沈黙の圧力だけだった。


 ……。


 (いやいやいや、ちょっと待って)


 なんか場がどんどんシリアスになってる。いや、こんな明らかにサスペンスみたいな現場にいたらそれはそうなんだけど。

 そうじゃなくて、なんで悠がそんない(・)か(・)に(・)も(・)探(・)偵(・)みたいな雰囲気になってるの? 周りの人たちも神妙な顔になってるし。


「……ごくり」


 いや、店長も固唾をのんじゃってるじゃない。しかもはっきりと口に出してるし。

 

 私は慌てて両手を振った。

 だが幽霊みたいにフヨフヨと浮いている私が何かしたところで、もちろん誰の目にも映らない。

 

 (悠、それより救急の人と警察の人に任せようよ、ね? あなた成績優秀なのは知ってるけど、現役高校生探偵とかって柄じゃないでしょ。てゆうかまずは私の身体に必死に呼びかける、とかする場面じゃないの?)

 

 必死で口を動かすが、もちろんその声は届かない。私の願いも虚しく、悠は早速周囲を探り始めていた。

 踊り場に落ちていた私のスマホを、指紋一つ残さないようにハンカチ越しに持ち上げ、画面の傷の角度をじっと観察し始めている。

 

 その横顔は、もう、私のよく知っている、要領がいいのにどこか能天気で隙のある、あの悠の横顔ではなかった。

 

 いや、正確には一度だけ覚えがある。

 あれは一年前。悠の家で偶然ミステリー映画を観たときの話だ。


 その頃、悠はミステリーにハマっていた。アニメか漫画に触発されたのだろうが、それに付き合わされて一緒に観る羽目になったのだ。

 「俺がすべてを解き明かす」と息巻いていた悠だったが、その推理は悉く外れていた。

 それなのに、本人は「また、名探偵に一歩近づいてしまった」などと満足気なのだから、始末に負えない。


 あれからも、何度か同じようなことがあったが、悠が名探偵となる日は一度も訪れなかった。

 

 ――嘘でしょ、悠。

 

 この人、本気でやる気だ。

 ポンコツな迷探偵が、よりによって私が被害者になってしまったこの事件を、解き明かそうとしてるってこと――?


  ✼ ✼ ✼


 救急隊員が踊り場まで上がってくるのに、思ったよりも時間がかかった。

 

 細い鉄製の階段は、ストレッチャーをそのまま通すには明らかに幅が足りていなくて、結局、屈強な男の人が二人がかりで私の身体を肩で受け止め、店長の指示通りに首と腰を固定しながら、ゆっくりと一段ずつ下ろしていく羽目になった。

 

 悠は、その作業の間ずっと、ひとことも口を利かなかった。

 ただ階段の手すりに片手を添えて、隊員さんの足元と、私の手首が不自然な角度で揺れないかどうかを、穴が開きそうなくらいじっと見ていた。

 

「ご家族の方ですか?」

 

 ストレッチャーの脇で書類にペンを走らせていた隊員さんが、悠と茜さんを順番に見て、そう尋ねる。

 悠が答えるよりも先に、茜さんは首を振ると、私のスマホ画面に表示された緊急連絡先、要するにお母さんの番号を隊員さんに見せた。

 

「ご家族には、私からすぐ連絡します。彼は、――彼氏さんなので、できれば一緒に病院に行かせてあげたいんですけど」

 

 茜さんは、いつもよりほんの少し早口に、それでも一音一音が聞き取りやすいはっきりとした声でそう言った。

 

 その手際の良さに、私は浮いたまま、なんとも言えない居心地の悪さを感じる。

 

 (いや、めちゃくちゃ気が利く風を装ってるけど、あなたが犯人でしょうがっ)

 

 とはいえ、悠は、その茜さんの提案に小さく頷きかけ、そこで、ぴたりと動きを止めた。

 

「いえ。俺は、ここに残ります」

 

 彼の喉仏がごくりと上下し、それから数ミリだけ顎が引かれた。一切の迷いを削ぎ落としたその横顔は、周囲の空気を凍らせるのに十分だった。

 

 茜さんが「え」と眉を上げる。隊員さんも怪訝そうにペンを止めた。

 悠は、私の身体ではなく、なぜか踊り場の煉瓦の継ぎ目を見つめたまま、ゆっくりと言葉を継いだ。

 

「茉莉のことももちろん心配ですが、俺がやるべきことは泣くことじゃない。茉莉の無念を晴らすことです。彼女を突き飛ばした犯人を突き止められるのは、彼氏である俺しかいない。……きっと、天国の茉莉も、それを望んでいると思うから」


 酔いしれるように自身の言葉に浸る悠。

 茜さんは肩を震わせ、両手で顔を覆った。指の隙間から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。必死に声を押し殺そうとしているのか、喉の奥から小さな嗚咽が漏れている。

 隊員さんも、涙を溜めながらも、すべてを受け止めるような優しい瞳を向け、悠の肩をそっと叩いた。


 (いやいや。え?)


 平然と自己陶酔的な発言をしている悠もだが、周りも周りである。

 誰も止める者がいない。え、もしかして私がおかしいの?

 

 そうして悠は、自分が「彼氏」であることを理由に病院に同行する権利を、自ら放棄したのだった。

 

 茜さんは少しだけ唇を噛み、隊員さんに小さく頭を下げた。

 ストレッチャーが、ゆっくりと店の外に運ばれていく。

 硝子のドアにかかった真鍮のベルが、ちりん、といつものお客さんの帰り際と同じ音で、ひとつだけ鳴った。

 

 (待って、置いてかないで、ねえ、私)

 

 私は反射的に、自分の身体の後を追って外に出ようとした。

 

 けれど、店のドアの真ん中あたりまで近づいたところで、――胸の奥に、変な引っかかりを感じた。

 言葉にするなら、首根っこをゴム紐みたいなものでやんわり後ろから引っ張られている感じ。痛くはない。痛くはないけど、それ以上は、進めない。

 

 (うわ……、もしかして、私、ここから離れられないの?)


 地縛霊、という単語が頭をよぎる。

 昨日まで幽霊なんて信じてもいなかったが、今の自分がそういう存在になってしまったのだと、胃の腑がぐにゃりとねじれるような感覚に襲われた。

 

 だが今は、そればかり考えていても仕方がない。

 振り返ると、店内に残った悠が、私の運ばれていった硝子戸の方を名残惜しそうに見つめて、それからすっと視線を切った。

 その切り方が、抱えた色々なものを断ち切るように見えて、私は、ああ、と、変なところで納得してしまう。

 

 ――本当にやるつもりなんだ。

 

 心に蓋をして、代わりに別のスイッチが、ぱちん、と入る音が、こっち側からははっきり聞こえた気がした。

 

  ✼ ✼ ✼

 

 所轄署の制服警官が二人、それから少し遅れて私服の刑事さんがひとり、店に到着するまでの、たぶん十五分くらいの間、悠は、店内のほとんどあらゆる場所に視線を走らせていた。

 そして同時に、まだ店内にいる三人の店内関係者と、テーブル席に残された一組の常連客とを、順番に、ゆっくり眺めていく。

 

 幽霊の私は、悠のすぐ斜め後ろに、ふわふわと浮きながら、その様子を眺めていた。

 もう、開き直った。声が届かないなら、せめて目の前で起きていることに、ちゃんとツッコミくらいは入れさせてもらう。

 

 まず一人目。

 階段下のスツールに腰を下ろして、私が運び出されるところまで見送ったあと、両手をぎゅっと膝の上で握りしめている、茜さん。

 

 二十六歳。アトリエ・ランタンに勤めて三年目の、いわゆる「顔の見えるスタッフ」というやつで、雑貨売り場の仕入れも、カフェのコーヒー豆のセレクトも、ぜんぶ任されている。

 私よりもずっと年上なのに、華奢な可愛らしい見た目で、一緒に並んで歩いても同年代の友達みたいに見える。

 茶色のロングカーディガンの代わりに、今は店のロゴ入りエプロンを着けたままで、その胸元には、なぜか、ほんの少しだけ、白っぽい粉――小麦粉だろうか――が、ほんとうにささやかに、付着していた。

 

 (茜さんは普段ほとんどキッチンに立たない。仕込みは店長の担当だし、茜さんはホールとレジが基本だし。それなのになんで……)

 

 悠もしばらく茜さんのことを眺めていたが、その違和感を捉えていたかは分からない。


 二人目。

 刑事さんに向かって、両手をぐるぐる回しながら、自分の証言を一生懸命に組み立て直している、拓海くん。

 

「あー、だから、ですね。俺、ちょうど中二階のテーブルで、その、空いた食器の片付けをしたとこっすね。トレーが結構重くて、両手とも塞がってて。それでちょっと遅くなったっつーか。気づいたら茉莉ちゃんが、踊り場に。いや、ほんと、マジ、信じらんないっす。――あ、すみません、ちょっと手汚れちゃったんで洗ってきてもいいですか?」

 

 二十一歳の、小柄とも長身ともつかないくらいの痩せぎすで、近所の専門学校に通う学生兼バイトリーダー。

 普段は接客中ですら、客の女子高生に対して片手にトレー、片手にスマホを構えて自撮りに巻き込もうとしてくるくらいのいわゆるチャラ男である。

 休みの日にはボルダリングジムに通うのが趣味で、来店するたびに「茉莉ちゃんも一回やってみたほうがいいって、絶対」と勧誘されかけたことが、何度かあった。

 痩せた身体つきからは想像しにくいけれど、見せてもらった指先のタコだけは、たしかに本物だった。

 だが、そんな彼も、今はシャツの背中をじっとりと汗で濡らしている。


 手を洗ってもいいですか、と拓海くんは黒ずんだ両手を刑事さんに見せた。その手の甲には絆創膏が貼られている。

 そう言えば、と、浮いている私はぼんやり思い出す。あれは、たしか、私と悠が店に入って、最初に注文を取ってくれたのも拓海くんだった。

 たった四十分くらい前のことだ。あのとき、伝票を持ってきてくれた彼の右手の人差し指には、絆創膏どころか、目に見える傷の一本さえ、なかったはずだった。

 

 刑事さんが了承すると拓海くんは裏のトイレの方へと向かっていった。

 

 三人目。

 工房の入口に、壁にもたれるようにして立ったまま、刑事さんから「お手数ですが」と一言断りを入れられただけで、こちらにはほとんど近づいてこない、店長の佐久間さん。

 店長はいかにも職人然とした偉丈夫で、煤けた手や、厳しい顔も相まって熊のように見える。

 

 三十八歳。十年前にこの店を継いだ二代目で、銀のカトラリーやアンティーク家具の修繕を本職にしている、要するに職人さん。

 その傍ら、良いものに囲まれながら憩いのひと時を楽しんでほしいという思いで、カフェも経営している。

 

 店長は私と目が合ったわけでもないのに、ちょうど、私の浮いている空間の、少し下あたりに視線を上げて、ふっと、深い息をついた。

 

「茉莉ちゃんは、――いいお客さんだったんだ。三年前、まだ中学生のとき、悠くんに連れられて初めてうちに来た日のことも、よく覚えている。あの日は店の隅にあった、誰も買わない古いランプにずっと触れていてね」

 

 店長の言葉は、刑事さんか悠に向けたものか、それとも少し離れたところに浮いている私自身に向けたものか、誰に向けたものとも知れない、不思議な距離感を持っていた。

 

 最後に、四人目。

 テーブル席で、湯気の落ち着いた紅茶のカップを二つ並べたままじっと座っている、常連の老夫婦。

 

「私は、座っていた位置からはね、ほんとうに、人影が一瞬、すっと動いたのが見えただけなんですよ。色は、たぶん白っぽい、なんていうのかしら、淡い色味のもの。でも、男なのか女なのか、それはもう、ほんとうに、ごめんなさいね、わからない」

 

 ご婦人が、申し訳なさそうに、悠と刑事さんを交互に見ながら、丁寧に首を振った。

 その隣で、旦那さんが、奥さんの言葉を補うように、けれどぼそぼそと、自分の角度から見えた範囲を、几帳面に付け足していく。

 

 (白っぽい、淡い色味……)

 

 幽霊の私は、自分が階段の上でぼやけた視界に見た、あのアイボリーのカーディガンを、もう一度、頭の中に呼び戻していた。

 白っぽい。アイボリー。色しか、わからない。

 

 ――だめだ。

 

 はっきり「茜さんだった」と言える根拠が、自分の頭の中にあったはずなのに、こうして他人の証言を改めて聞かされると、それが急に、薄い氷の上に乗っているみたいに、不確かに揺らぎ始める。

 悠は、店内のおおまかな配置と、そこに立っている四人の様子をひととおり眺め終えると、ふと、カウンターに目を移した。

 

 そこには、レジの脇に置かれた伝票差しがあった。

 

  ✼ ✼ ✼

 

 アトリエ・ランタンには、伝票差し、要するにレシートや手書きの注文票を、上から串刺しにして保管しておく、ちょっと古臭い金属の道具が、レジの脇にひとつ立っている。

 オシャレな雑貨カフェの店内で、その伝票差しだけは、町の食堂みたいなレトロさを残していて、私は来店するたび密かに気に入っていた。

 

 悠は、刑事さんが拓海くんとのやり取りに集中している隙に、ハンカチ越しに、そこから一番上の一枚を、そっと抜き取った。

 

「これ、見てもいいですか」

 

 すかさず店長が、悠の手元に視線を寄せて、けれど咎める様子もなく頷いた。

 

 佐久間さんは、悠の思いにある程度気づいているのだろう。個人的には止めてほしいところだが、本人の好きにやらせるつもりらしい。

 悠はその許しを律儀に確認してから、抜き取った一枚を、ふたつのテーブルランプの真下にかざした。

 

 黒いボールペンで書かれた、四つの文字と、ひとつの時刻が、橙色のランプの光に浮かび上がる。

 

 『カフェオレ、チーズケーキ、追加クッキー 15:47』

 

 悠の眉が、ぴくり、と動く。

 

「……茜さんは、普段、ブラックしか飲まない方ですよね。チーズケーキも、確か、糖分が高いからって、レジ前のショーケースを通り過ぎるたびに、いつも目を逸らしてる」

 

 悠が、ぼそりと呟く。

 

 茜さんが、突然名前を呼ばれて、スツールの上でびくっと身体を起こした。

 

「え、――そうね。ええ、私は、コーヒーも、ケーキも、基本的に……。あの、悠くん、その伝票は、たぶん――」

 

 茜さんの説明を、悠は、最後まで聞かなかった。

 

「つまりです」

 

 悠は、伝票をハンカチごと胸の前に持ち上げ、そのまま、決意の籠ったようなはっきりとした声で続けた。

 

「事件のほんの少し前に、普段は絶対に糖分を口にしない茜さんが、カフェオレと、チーズケーキと、しかも『追加クッキー』までオーダーしている。これは、ご自身の中に、何かしらの強い情緒の揺らぎがあった証拠です。具体的に言えば、これから自分が踏み出そうとしている行為に対する、無意識下の罪悪感、その代償としての、極端な糖分依存」

 

 悠は、たぶん本人としては、人生でいちばん格好いい声を出していた。

 ランプの光が、彼の横顔を、温い橙色に縁取って、悠は、ほんの一瞬、間違いなく、テレビの二時間サスペンスの最終盤に立つ名探偵そのものだった。

 

 (……は?)

 

 その台詞を、一拍遅れて、浮いている私の脳が、丁寧に、丁寧に、咀嚼する。

 

 ――普段は絶対に糖分を取らない茜さんが? 罪悪感の代償? 極端な糖分依存……?

 

 (いや待って待って待って、悠、それ、レシートじゃなくて、オーダー伝票だからね?)

 

 幽霊の私は、両手を盛大に振って、悠の鼻先に必死で割って入ろうとした。

 

 (オーダー伝票って意味わかる? お客さんが頼んだものを、ホールスタッフが厨房に通すための、控えの紙! その伝票に書いてあるのは、茜さんが食べたものじゃなくて、茜さんがその時間にお客さんから取ったオーダー、つまり茜さんが、その時刻に、レジでお客さんと向き合って接客していたっていう、ただそれだけの記録っ!)

 

 一気にまくし立てるが、もちろん、その声は一語たりとも届かない。

 

 悠は、自分の迷推理に、心底満足したような顔で、もう次の段階に進み始めていた。

 

「茜さん。確認させてください。事件発生時刻――俺の腕時計でだいたい十五時五十分前後だと思いますが、その直前直後、あなたは、この店のどこに、いましたか」


 いや、とそこで店長が割って入った。


「その前に、悠。それはレシートではなく、オーダー伝票だ。茜さんが購入した記録ではない」


「……へ?」


 悠が素っ頓狂な声を上げた。

 私は共感性羞恥と言うべきか、いたたまれない気持ちになって思わず顔を覆った。


「その、す、すみません……」


 彼氏が、ダサい……。

 

 もしかしたら私はもう二度と目覚めないのかもしれない。

 それなのに、なんで最期かもしれないときに見るのが、彼の盛大なやらかし姿なのだろうか。


 ――でも。


 推理はめちゃくちゃだが、初手から茜さんに目をつけたことには正直驚いた。

 何か別の証拠を見つけられれば、このまま追い込めるのではないか。そんな期待に胸の奥で高鳴る鼓動が早くなる。

 

 茜さんが、口を開きかけて、けれど、何か言いかけたまま、迷うように視線を伝票差しに泳がせる。

 

 その視線を、悠は、見逃さなかった。

 悠は、そこから、二枚目、三枚目と続けて伝票を抜き取って、ランプの下に並べていく。

 

 二枚目。『紅茶(ストレート)、スコーン 15:49』

 三枚目。『ホットチョコレート、追加マシュマロ 15:51』

 

 全部、同じ筆跡だった。

 茜さんの、几帳面なのに、少しだけ丸みを帯びた、よく見慣れた字。

 

 悠は、伝票三枚を順番に指差してから、ようやく、ほんの少しだけ、ふっと、表情を緩めた。

 怖いほど冷たかった瞳の奥に、ちらりと、昔の悠の要領のいい優しさみたいなものが戻ったような気がした。

 

「……茜さんは」

 

 悠は、静かに切り出した。

 

「事件の前後に、立て続けに三組分のオーダーをここのレジで行い、その記録をご自分の手で書いていらっしゃる。つまり、茜さんは三分以上、この一階のカウンターやホールに拘束されていたことになる。中二階の階段を登りきって、誰かを突き落とすような時間はない」

 

 悠の声は、迷探偵モードに入る直前の、ほんの少しだけ素の悠に戻りかけていた。

 

「茜さんは、犯人じゃありません」

 

 その言葉を、悠は、茜さんではなく、なぜか、私の浮いている方角に、ほんの少しだけ顔を向けて、言った。

 

 もちろん、悠には、幽霊の私の姿は見えていない。たまたまだったと思う。たまたま、視線を逃がした先が、私のいた方角だっただけだと思う。


 (え。――じゃあ、私が階段の上で見た、あのアイボリーのカーディガンの人影は……)

 

 言葉を、最後まで頭の中で繋げることが、できなかった。

 それは、まさしく突き飛ばされた当の本人である私が、階段の上に見た犯人と異なるということを意味していた。

 

 茜さんは、犯人じゃない。

 じゃあ、私を、突き落としたのは、誰?

 

 悠は、伝票を三枚とも丁寧に元の位置に戻し、それから店内に残る他の面々に、もう一度だけ視線を巡らせた。

 

 その視線を最後に長く留めた先で、拓海くんが、汗の浮いた額をエプロンの裾でぐいっと拭った。

 その手の人差し指のまだ新しい絆創膏が、橙色のランプの光にほんの一瞬、つやりと光った。


  ✼ ✼ ✼


 悠は、もう一度踊り場に目を向けてから、ゆっくりと視線を落とす。

 その先には、踊り場の真下の壁面、つまり雑貨売り場の最深部にある、スタッフ用の事務室の扉が見えた。

 その引き戸が、半分だけ開いた状態で、橙色のランプの外側に、ひっそりと佇んでいた。


 悠は、刑事さんに聞こえない程度に、店長に耳打ちした。

 

「店長。少しだけ、バックヤードを、見せていただけませんか」

 

 小さいが、それでいてはっきり伝わる言葉が、私の耳にも届く。

 店長は、工房の入口にもたれたまま深く息をつき、それから、自分の喉仏のあたりを軽く撫でるような仕草で頷いた。

 

「悠くん。ひとつだけ、頼みがある。触れていいものとそうでないものは、君の常識で判断しなさい。それさえ守ってくれれば、好きにしていい。茉莉ちゃんのために、君が何をしたいのか、私は大体わかっているつもりだから」

 

 店長の言い回しは、相変わらず落ち着いていた。

 「わかっているつもりだから」のところだけが、まるで店長が私自身に頷きかけてくれたような、そんな不思議な響きをもっていた。

 

 悠は、礼を述べる代わりに軽くお辞儀をした。

 

 バックヤードの入口まで向かうと、もう一度ハンカチを出して指先に巻き、引き戸の縁に手をかけて、そっと奥へ滑り込んだ。

 幽霊の私は、その背中の真後ろを、ふわふわと追いかけた。

 

 バックヤードは、想像していたよりずっと、生活感にあふれていた。

 

 左の壁にはずらりと並んだ細いフック。そこには、茜さんのものらしいベージュのトートと、店長の作業用エプロン、拓海くんのものらしい黒いパーカーが、ロッカーらしいロッカーもないまま、ただ仲良く隣り合っている。

 その下に、業務用の小さな救急箱と、半分開いたままの工具箱。

 その工具箱の口元からは、店長の修繕道具にはなさそうな茶色いロープの端が、ほんの少しだけ覗いていた。

 

 さらにその奥に、家庭用と業務用の中間くらいのサイズのドラム式洗濯機が、低い、唸るような音を立てて、ゆっくりと回っていた。

 その洗濯機の隣の壁には、店の裏路地に面した、すりガラスの小さな窓が、こちらも事件のときから半分開いた状態で、室内に冷たい外気を流し込んでいる。

 秋の風が、洗濯機の唸りの音にまぎれて、ひゅう、と一度だけ、低く鳴いた。

 

 悠は、しばらくの間、フックに並んだ私物の配置を、ひとつずつ、目で確かめていた。

 一通り確認した後、今度は洗濯機のほうへ視線を移した。

 ドラムの中で、ぐるぐると、見覚えのある淡い色の布が回っている。

 

 (……あれって、もしかしてあのときのカーディガン?)

 

 私が、誰にも届かない声で、ぼそりと呟いた。

 脳裏に、踊り場から見上げた先の人影を思い出す。光に照らされた、アイボリーのカーディガン。

 

 悠は、洗濯機の前に屈み込んで、ドラムの中の布の輪郭を、しばらくじっと観察してから、操作パネルの「一時停止」をハンカチ越しに、ぽつ、と押し込んだ。

 ぐるぐると回っていたドラムが、ゆっくりと減速して、最後にぽとんと止まる。

 悠は、扉のロックが解除される短い電子音を確認してから、そっと扉を開けた。

 

 中から、洗剤の柔らかい匂いと、ほんの少しだけ漂白剤の鋭い匂いの混じった、湿った空気が、ふわりと外に零れる。

 悠は、ドラムの中に丁寧に手を入れて、濡れて濃い色になったカーディガンを、両手で受け止めるように外へ引き出した。

 

 私は、その瞬間、なんだか、自分の身体のいちばん奥が、ひゅっ、と冷えるのを感じた。

 

 (あれ……? なんか、変だ)

 

 何が変なのか、すぐには言葉にならない。

 ただ、そのカーディガンを目にした瞬間、頭の奥の、まだ正常に動いている部分のほんの片隅で、何かが強く警告音を鳴らしていた。

 

 悠は、引き出したカーディガンを、低い作業台の上にそっと広げる。

 濡れた繊維が、台の木目に、ぺたりと張り付いた。

 

 ――あ。

 

 ようやく私の中で、違和感の正体が輪郭を持った。

 

 (左の裾。コーヒーの染み。茜さんがいつも「もう取れないの」って笑ってた、あの染み。あれが、ない)

 

 私は、両手を慌てて広げて、悠の目線の高さに、ふわっと回り込んだ。

 届かないことは、わかっている。それでも今はただ、頭の中で組み上がりかけている言葉を失いたくない。

 頼りなさそうでいて、けれど確かな手応えのある手がかりを、何としても彼に届けたい。

 

 (悠! 悠っ、ねえ、これ、染み! 左の裾の、コーヒーの染み! 茜さんがいつも『もう取れないの』って言ってた、あれが、ないの!)

 

 そうして私は強く念じる。何も起きない。

 それでも私は諦めず、力いっぱい目を閉じて、ありったけの集中を込めた。

 

 どれほど時間が経っただろう。

 やがて、テーブルに置かれた悠のスマホに、ぴこんと着信があった。

 ロック画面上に、メールの受信通知が映っている。

 

 悠が、その音にようやく顔を上げる。

 ハンカチで包んだ指で、ロックを外しメールアプリを開くと、新着メッセージの欄に、差出人不明で、何の飾り気もない二文字の言葉が表示されていた。

 

 『清美』


 届いた。そう直感した。


 何も仕組みは分からない。けれど、どういうわけか私の思いが届いて、悠にメッセージを送ることが出来たらしい。

 でも、その文字列は私が送りたかったものとは全く異なっている。

 

「……清美?」

 

 悠の眉が、わずかに寄った。

 

 (違うっ! しみ! 染み!)

 

 私は、もう一度念を込め直す。

 ぴこん、とまた通知音が響く。

 

 『ジミー』

 

「……ジミー」

 

 悠が、ゆっくりと一音ずつ読み上げる。

 

「ジミー……ヘンドリックス? いや、……まさか、店内のBGMに、何か、暗号が……?」

 

 (違うって言ってるじゃん! なんで音楽の話になるの! しみ! し、み!)

 

 ぴこん。

 

 『ジム』

 

「ジム……つまり、犯人は、ジムに通うほどの、筋肉質の――いや、この店のスタッフでそういうタイプはいない。常連にも心当たりはない。となると、これは何かのメタファー……?」

 

 (違う違う違う、違うって! 何回間違えるの! もう一回いくよ、いくからね、ちゃんと、受け取ってよ、悠!)

 

 幽霊の自分にできるありったけの集中を、もう一度両手の指先のような感覚で束ねて、念を込めなおす。

 

 ぴこん。

 

 『染み』

 

 今度こそ、悠の眉間の皺が、すっ、と抜けた。

 

「……染み」

 

 悠が、ようやくそれを確信に近い声で呟いた。

 悠の視線がゆっくりと作業台の半乾きのカーディガンに向けられる。その左裾には何の染みも残っていなかった。

 

「……ない」

 

 悠は何かを思い出そうとするように、じっとその袖を見つめていた。

 

  ✼ ✼ ✼

 

 悠は、作業台の上のカーディガンを両手のハンカチでゆっくりと持ち上げ、左の裾を自分の目の高さまで掲げた。


 そして、引き戸の向こう側にいる茜さんを振り返る。

 彼女はまだ、スツールに座り、両手を膝の上で握りしめたままでいた。

 

 茜さんに声をかけ、再びバックヤードへと戻ってくる。

 

「茜さん。お尋ねしてもいいですか。このカーディガンの、左の裾のコーヒーの染み、いつ消えたんですか」

 

 茜さんは、一瞬何を言っているのか分からないという表情をした後、カーディガンの袖を見て、目を丸くした。

 

「え、消えてる? そんな、もう半年以上、何をやっても取れなかったのに……」

 

 茜さんは作業台の上の自分のカーディガンを、まじまじと見つめる。

 

「……ほんとうにない。今朝ここに掛けたときは確かにあったはずよ。ホールに出たときもそのまま。私、染みの位置を目印にして表裏を間違えないようにしてるくらいなのに」


 悠は、その茜さんの言葉を最後までじっと聞いていた。

 それから、カーディガンの袖の内側をほんの少しだけ捲って、ランプの光にその縫い目を晒した。

 

「見てください。袖の内側の糸がこすれてほつれています。かなりこすり洗いしないと、こんな風にはヨレません。それに色もここだけ落ちている。おそらく誰かが漂白剤をつけて、全体を強く洗ったんだ」


「そんな……。私、そんなこと誰にも頼んでない」

 

 カーディガンを茜さんから受け取り、悠はもう一度作業台の上に丁寧に戻した。

 

「……染みを消すのが目的というより、もっと別の目的のために、そうせざるを得ない状況になったのかもしれません。たとえば、犯人はこれを着て茜さんのフリをして、犯行に及んだ。その後その証拠を洗い流そうとして、袖の染みに気づいた。犯人はこう思ったはずです。『いつの間に染みが。落とさなければ』と」

 

 その言葉に、部屋は静寂に包まれる。

 誰かが息を呑む音がいやに大きく響く。


 ――そんな。誰かが茜さんのフリをしたって。そんなことが出来るのなんて……。

 

「茜さん。ひとつだけ確認させてください。このバックヤードには、鍵のかかるロッカーはありませんよね」

 

 茜さんは返事の代わりに、こくりと、頷く。

 その表情は固く、彼女もすでに悠の言わんとしていることが分かっているようだった。

 

「つまり、その気になれば、従業員なら誰でもカーディガンを持ち出せる状況だった、ということになります」


「……君の言うとおりだよ、悠くん」


 その声は、バックヤードの入口から届いた。

 

 視線の先には店長がいた。

 店長は、ただ目を伏せて、深い息をついた。

 

「元々うちは私一人で始めた店だったからね。茜さんのように一緒に働いてくれる人が増えても、そのあたりの配慮が欠けてたのは私の落ち度だ。……すまないね、茜さん。せっかく来月から独立だというのに」


「え、茜さん、独立って――」


 突然店長の口から漏れた情報に、悠が目を丸くして聞き返した。

 私もそんな話は初めて聞いた。


 茜さんは困ったように眉を下げた。


「……ごめんね、中々言い出せなくて。私、来月から自分のお店を持つの。店長が色々とサポートしてくれてね」

 

 (……来月から、別のお店に)


 その意味を咀嚼するのに、少し時間がかかった。

 それは、もうこのお店で働く茜さんとは会えないということ……?

 

 学校の悩み事や勉強の相談にも優しく応じてくれて、時折コーヒーの話になると別人のように饒舌になる茜さん。

 その姿が、途端に遠くの存在になったみたいに、輪郭が薄く感じられた。


 悠も同じことを考えていたのかは分からない。その顔は俯き、前髪に隠れて表情は見えなかった。


  ✼ ✼ ✼


 俯いていた悠は、やがて顔を持ち上げた。

 前髪の隙間から覗く双眸には、いつのまにか揺るぎない光が宿っている。

 その真っ直ぐな眼差しには、どんな困難にも立ち向かう覚悟があった。


 悠は、バックヤードの引き戸を抜けて、橙色のランプの下に戻る。

 

 刑事さんが、拓海くんとのやり取りを切り上げて、手帳の角でこめかみを掻きながら、こちらを見ていた。

 悠はその刑事さんにほんの一礼だけ済ませて、それからゆっくりと、店内を見回した。

 

「皆さん、事件の真相が分かりました」


 その静かな声に、アトリエ・ランタンに残る全員の視線が、悠の元に集まる。

 悠が唾を飲み込む音がする。すぐ横にいる私にしか聞こえないくらい、小さな音だった。


「まず、茉莉は十五時五十分頃、何者かに中二階から突き落とされた。一人で落ちたのではなく、第三者の手によって。それはそちらのご夫婦の証言から明らかです」


 悠は階段下のテーブルに座る老夫婦に目を向けた。

 先程、誰かが突き落としたのを見たと言っていた旦那さん。構造上、カフェの建物内は入り組んでいて、特に一階から中二階の見通しが悪いが、犯行時に人影の一部が見えたと話していた。


「そして犯人は、突き飛ばしたとき、このカーディガンを着ていた」


 そう言って、悠はバックヤードから持ち出したカーディガンを正面に掲げる。


「それは、茜さんの……。ということはもしかして、茜さんが」


 拓海くんが、ふと気づいたように恐る恐る言った。

 悠は首を振る。


「いえ、それは不可能です。見てください」


 悠は、今度はレジの正面に行くと、伝票差しの上から三枚分を取り出した。

 そこには、茜さんの接客記録が残っている。


「茜さんは事件の前後、立て続けに三組分のオーダーを、ご自身の手で書いていた。十五時四十七分、四十九分、五十一分。三分間以上、茜さんはこの一階のカウンターやホールに拘束されていた。この間に階段を上がり、茉莉を突き落とすだけの時間はありません」


 悠は伝票を戻すと、もう一度、カーディガンを手元に戻して言葉を継いだ。


 「では、誰がこれを着ていたのか。このカーディガンは、バックヤードの洗濯機の中で、漂白剤と一緒に、激しくこすり洗いされていました。バックヤードに入れるのは、店長と、茜さんと、拓海さん、――この店の従業員、三名だけ」

 

 悠の視線が、バックヤードの側に立つ店長に移った。

 

「失礼ながら、店長の佐久間さんは、お見受けする限り、肩幅も背丈も、茜さんの倍はあります。いくらなんでも、このサイズのカーディガンを着ることはできません」


 店長は、わずかに苦笑するように口の端を持ち上げ、頷いた。

 悠は、それを見届けて、視線をランプの真下に戻す。

 

 ランプの光の輪の中に、ぽつんと汗を浮かべて立っていた拓海くんが、ほんの一拍だけ、自分の足元の煉瓦の継ぎ目を見つめた。

 そして彼の元へ、全員の視線が向かった。


「そう、これを着られるのは、唯一あなただけなんです。拓海さん」


 そう突きつけられた拓海くんの首筋が、橙色のランプの光の中で、ぴくり、と引き攣った。

 そしてすぐさま、その顔を勢いよく上げて、悠を睨みつける。


「ま、待ってくれ、俺はやってない! そもそも犯人がそのカーディガンを着ていたなんて証拠、どこにもないじゃないか」


 拓海くんが、急に犯人呼ばわりされたことに目を吊り上げ、声を荒げた。

 しかし、悠がそれに動じる様子はない。


「もちろん、現場を見ていた人はいません。しかし、カーディガンは洗われていたんです。持ち主の茜さんがそうしたわけでもないのに」


「そんなの、茜さんが嘘を付いてる可能性だってあるじゃないか」


「いえ、それもありません。なぜなら、このカーディガンは『洗われすぎてる』んです」


 そう言うと、悠はカーディガンの左袖を内側を持ち上げて見せた。

 そこには本来、茜さんがいくらやっても落ちない、と言って諦めていたコーヒーの染みがすっかり落ち、元のアイボリー色すら抜けて白くなった生地があった。

 

「ここには元から黒ずんだ染みが付いていた。でも、犯人は知らなかったんでしょう。これを見た時に焦ったはずです。もしかして犯行時にそれが付いてしまったんじゃないかとね」


 拓海くんの表情がピクリと動くのが見えた。

 彼の瞳がふいに行き場を失って、左右に揺れている。


「そして何度も、何度も漂白剤をつけて、こすり洗いをした。その結果がこれです」


 拓海くんは、血の気の引いた額に脂汗を滲ませながら、それでも反論した。


「い、いや。茉莉ちゃんが転落したとき、俺は下の階にいたんだ。なあ、茜さん、それを見てたはずだろ。茉莉ちゃんが落ちた音がして、最初に駆け上がったのは茜さんで、その後を追って俺も一階から階段を上がってきた。階段はあの一本しかないんだぞ。俺がもし中二階で茉莉ちゃんを突き落としたなら、どうやって誰にも見られずに一階まで下りたって言うんだ!」

 

 拓海くんの反論は、もっともだった。

 あの細い鉄製の螺旋階段は、店内のちょうど真ん中を貫いていて、一階のテーブル席のどこからでも見える。茜さんが上に駆け上がる前にあの階段を下りてくる人影があったなら、茜さんも、それから老夫婦も、絶対に見逃さない。

 

「た、確かに……。悠くん、拓海くんが下から上がってきたのは、本当よ」


 茜さんがおずおずとその事実を認めた。


 思わぬ反撃だった。悠が言い返せずに言葉に詰まるのを恐れ、私は弾かれたように彼を振り返った。

 しかし、予想に反して、悠は落ち着き払っていた。


「でしょうね。だから拓海さんは、階(・)段(・)を(・)使(・)わ(・)ず(・)に(・)一(・)階(・)に(・)下(・)り(・)た(・)」


「い、いや、無理だろそんなの。あの階段以外に、中二階と一階を繋ぐ通路なんて、ないんだから……」

 

「いえ、あります」

 

 悠の指先が、すっ、と、中二階の壁際を指した。

 その指先の延長線上、ちょうど座席がある位置の、壁際のいちばん奥に、秋の冷たい外気をふわふわと店内に流し込み続けている、橙色のランタンの光に縁取られたひとつの窓があった。

 

「換気のために、いつも開け放たれている、あのオーニング窓です」


 その言葉に、拓海くんは明らかに狼狽の色を見せる。


「そして、もうひとつ」

 

 悠はゆっくりと振り返り、バックヤードの引き戸の方を、指で示した。

 

「先程、バックヤードに入らせていただきました。そのとき洗濯機の隣の壁にも、すりガラスの小さな窓があったんです。半分開いた状態で、室内に外気を流し込んでいました。そしてあの窓は、ちょうど中二階のオーニング窓の、真下の位置にある」

 

 茜さんの肩が、はっと、震えた。

 バックヤードで見た工具箱。その端から覗いていたロープのことが、頭をよぎる。


「拓海さんはこっそりと懐にロープを忍ばせて、中二階の座席エリアに行った。そして茉莉を突き落とした後、オーニング窓のヒンジ部分に、ロープを二つ折りで引っ掛けた。それから、二本になったロープの両端を握って、外壁を伝って降りたんです」

 

 拓海くんの胸の前で組まれていた両手の指が、ぴくり、と、内側に折れ曲がる。

 

「降りた先は、バックヤードの開いた窓。そのまま中に入りロープの片方を強く引けば、ヒンジに引っ掛けただけだったロープは、するりと抜けてあなたの手元に落ちてくる」

 

 拓海くんは、もう、反論する声を、出せていなかった。

 代わりに、彼の右手の親指の腹が、左手の掌を、何度も、何度も、撫でている。

 

「あなたが手を洗いに行ったのは、そのロープを握って降りるときに両手についた麻の繊維と、外壁を擦った煤を落とすためだった」


 拓海くんの首筋を、ひと筋の汗が伝った。

 

「……そんなの。そんなの、全部、状況証拠じゃないか。決定的な証拠があるってのかよ」

 

 拓海くんが、震える声で、絞り出した。


「──では」

 

 悠は、そのまま冷徹に続けた。

 

「拓海さん。その右手の人差し指の絆創膏。それはいつ、貼られたものですか」


 拓海くんは、自分の指を見るのに一瞬ためらった。

 しかし、とっさにその指をもう片方の手のひらでぐいっと隠そうとして、ぎこちなく胸の前で組み合わせる。


「俺と茉莉が今日、この店に入っていちばん最初に注文を取ってくれたのは、あなたでしたよね。あれはたしか、今から四十分ほど前。あの瞬間、伝票を持つあなたの指には絆創膏はおろか、目に見える傷はひとつもありませんでした」


「これはその、紙で切っちゃって」


 そう話す拓海くんの目は左右に揺れていた。


「……拓海さん。あなたに注文を取ってもらって、ほとんど間をおかず俺はお手洗いに行き、そして戻ってきたら茉莉が倒れていた。その間に怪我を負ったのだとしたら、それは事件に関わっていると見る方が自然です」


 悠は続けた。


「茉莉は、落ちる時に、とっさにあなたの手を掴もうとしたんじゃないですか?」


 拓海くんの全身が、橙色のランプの光の下で、ほんの一瞬、ぐらりと傾いだ。


 私自身すら気づいていなかった。

 確かにあのとき必死で後ろ手に掴もうとしたが、何かを掠めただけで、私はそのまま転がり落ちてしまったのだ。

 もしあの掠めたものが、拓海くんの手だったとしたら。


「もし茉莉の指の爪が、犯人の手の皮膚をほんのわずかでも引っ掻いていたとしたら、その爪の内側には、犯人の皮膚片が残っているはずです。今、病院に搬送されている茉莉の身体は、鑑識が必ず調べるでしょう。そうなれば、警察が拓海さんにたどり着くのも時間の問題です」

 

 だから、と悠は続けた。


「どうか、その前に、自首していただけませんか」


 そこまで聞いた拓海くんは、ゆっくりと天を仰いだ。

 その顔から一切の感情が抜け落ち、抜け殻のようになっていく。

 支えを失った膝がカクンと折れ、彼は音もなくその場に崩れ落ちた。


  ✼ ✼ ✼


 その瞬間、私の頭の奥で、ぱしゃ、と水音が聞こえた。

 

 半年と、ちょっと前。夏の終わり。

 私は、レジ前のショーケースに、夏限定のマスカットのタルトが入っているのを覗き込みながら、茜さんと並んで何の気もない雑談をしていた。

 

 ちょうど、トレーを抱えて中二階に上がろうとする拓海くんの後ろ姿が、私の視界の真ん中を横切った、その瞬間。

 

「拓海くんって、茜さんのこと、好きなんじゃないですか?」

 

 私は、そう言った。

 たぶん、半分くらいは本気で、けれど残りの半分は、ただ、その日の昼下がりの心地よくぼんやりとした空気と、マスカットの淡い緑色のせいで、油断していた。

 

 茜さんは、ふふ、と笑って、「またまた、茉莉ちゃんの早とちりよ」と、軽く流した。

 拓海くんの後ろ姿は、その瞬間、ほんの一拍だけ、止まったような、止まらなかったような、今となっては判然としない、そんな曖昧な記憶だけが私の中に残っている。

 

 たった、一度だけ。

 あれから半年と少し、私は二度と、そんな冗談は口にしなかったはずだった。

 

「俺、は」

 

 拓海くんの唇から、震えながら、ほんの一語だけが、こぼれた。

 

「茉莉ちゃんを殺そうなんて、思ってなかったんすよ」

 

 店内は静寂に包まれていた。

 夕日が橙色とは少しだけ違う色で、店内の煉瓦の床に長く差し込んでいる。

 

「ほんとに。中二階だし。落ちても、せいぜい足捻るくらいで。でもそうすれば警察が来て、そうなればもう、茜さんは」

 

 拓海くんが、そこで、また、息を呑んだ。

 

「茜さんは。……どこにも、行けなくなるはずだったのに」


 それは恨み言のような、それでいてどこか儚い気持ちを覆い隠すような、複雑な響きを含んでいた。

 

 悠は、ゆっくりと前に歩き、跪(ひざまず)く拓海くんの横に立った。その目は扉の外へと向けられている。

 

「……拓海さん。続きは、刑事さんの前で、聞かせてください」

 

 低く、底冷えするような声だった。

 しかしその声の端は脆く裂けており、悠の内に渦巻く行き場のない感情が限界に達していることを示していた。

 

 拓海くんは、ぼろぼろと、もう自分でも止められなくなった涙を頬に伝わせながら、ゆっくりと頷いた。

 

 その背中に、刑事さんがそっと、手を、添える。

 硝子戸の外で、ようやく、二台目のサイレンが近づいてくる音がした。


 しばらくして、制服の警官が二人、店の中に入ってくる。

 刑事さんは、跪いたままの拓海くんの肩を、押さえつけるのでも引きずるのでもなく、ただゆっくりと支えた。

 

 拓海くんは、店を出る直前、茜さんの方を向いて言った。

 

「……茜さん、本当にすみません」

 

 その言葉に、返事はなかった。

 代わりに、茜さんは両手で顔を覆い、その指の隙間から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。

 

 刑事さんは、拓海くんの肩を、もう一度、軽く叩く。

 二人はゆっくりと、硝子戸の方へ歩いていく。

 

 ちりん、と。

 硝子戸にかかった真鍮のベルを、おそらくこの店で聞く最後の彼の足音とともに、私はぼんやりと聞いていた。

 

  ✼ ✼ ✼


 すべてが終わった静寂の中、老夫婦の座るテーブルに置かれたティーカップが、微かに光を反射していた。

 誰かが何かを語る気配はない。窓の隙間から吹き込む風が、さっきよりも随分冷えて感じられる。


 茜さんが、ぽつりと言った。


「私が、悪いのかもしれない」


 悠が静かに振り返る。その瞳は穏やかに、続きを待っていた。


「去年の年末くらいにね、私、拓海くんに告白されたの。でも、その気持ちに応えられなかった」


 カフェの店員としてやりがいを感じ、それ以外に気持ちを向ける余裕がなかった。

 元々拓海くんは弟みたいな存在で、そういう対象として見ることが出来なかった。

 そんなようなことを茜さんは言った。


「ごめんなさいって伝えた時、『あ、そっすか』って、すごく軽い感じで。だから、拓海くんもそんなに気にしてないんだって思ってた。――でも、もしそうじゃなかったとしたら」


 私の脳裏に、先程の記憶が蘇る。

 軽い気持ちで拓海くんの気持ちを茜さんに仄めかした、あの記憶。


 茜さんは、それきり再び言葉を失い、静かに泣いた。


「茜さん」


 悠が、ふとランプの光の輪の縁から、静かにその名前を呼んだ。


「もしかしたら、あなたの一言や、それからの行動が少しずつ積み重なって、拓海くんを追い込んだのかもしれない。でも、彼が茉莉の背中を押した、その一押しは、あくまで彼自身が選んだ、誰のせいにもできない選択です」


 その声はどこまでも澄んでいて、真摯だった。


「だから茜さんが、ご自分のせいだと思わないでください。それはたぶん、拓海さんはもう、望んでいないことだと思います」


 茜さんは、また両手で顔を覆う。

 けれど今度は、さっきまでとは少しだけ違う涙だった。


 そして。

 悠が、ふわりと視線を、私の浮いている方向に向けた。

 もちろん、私の姿は見えていない。たまたま視線を逃がした先が、私のいる場所だっただけだ。


 それでも、その目はまるで私にも同じことを言っているみたいで。

 半年前、拓海くんの目の前で、彼の気持ちを冗談混じりに茜さんに伝えた私。

 

 あれは私の選択であり、罪でもあった。

 でも、それを長い間、何度も何度も自分の中で反芻して、私の背中を突き飛ばしたのは、彼自身。

 

 悠の言葉が、私の心の空白に、ストンと収まった気がした。

 

 (ありがとう、悠)

 

 声は、もちろん、届かない。

 悠の視線は少しの間、私のいる方向に滞在して、それから、ふっと外れた。


  ✼ ✼ ✼

 

 夕日の色が急速に赤くなり、私はその光景を眺めていた。

 そして、その瞬間が来る。

 

 まるで靄がかかるように。

 あれ、と思う暇もなく、視界の橙色がゆっくりと薄まっていく。

 煉瓦の床が、ランタンの光が、悠の横顔が、――どんどん、白く、白く、溶けていく。

 

 (あ、これ、たぶん、)

 

 駄目なやつだ、と続けようとした言葉は、最後まで形にならないまま、白い光の中に溶けて消えた。


 ――ごめんね、悠。


 最期に小さな灯のように浮かんだ言葉も、どこにも届かないまま、ふわっと消えた。

 

 ……。

 ……。

 ……。


 深い海の底から浮き上がるような、重苦しい感覚があった。

 自分の身体なのに、まるで他人のものみたいな、ちぐはぐな感覚。

 

 重く。重く。

 目が覚めそうなのに、身体がついてこない。

 海の底から見えない手が背中を引いてるみたいに、それ以上前に進めない。


 ……。

 ……。

 

 遠くから、私を呼ぶ声が聞こえた気がした。

 暗闇の中、見上げた先に、白い、点のような灯が浮かんでいる。

 それに気づいた瞬間、灯が少しずつ大きくなっていった。私の身体も自然とそこへ向かう。


 ……。

 

 ツンとした、消毒液の匂いを鼻の奥に感じる。

 たぶん、人生でいちばん長い時間をかけて、私は目を開いた。

 

 白い天井。

 白いカーテン。

 白いシーツ。

 白い点滴のチューブ。

 

 私は、たぶん、自分の身体に戻っていた。

 病院、と呟こうとした声は音にならず、酸素マスクの内側を白く曇らす。

 

 頭には、ぐるぐると、たくさんの包帯が巻かれていて、首にも固定用の何かが当てられている。

 身体はやはり、一切動かない。まるで自分の意識の回路が、全く身体と接続されていないみたいだ。


 未だぼやけた視界を動かすと、隣には悠が立っていた。

 その奥には、お母さんとお父さんの姿もあった。


 悠は、先程の凛々しい横顔が嘘みたいに、顔をくしゃくしゃにしてこちらを見ている。

 

「茉莉」


 その声は、小さく震えていた。

 

「……ねえ、悠」

 

 必死に声を出したつもりなのに、その音は自分でも驚くくらい、かすれていた。

 ほとんど喋れそうにない。それなのに身体は疲れ切っていて、すぐさま強烈な眠気が襲ってくる。


 どうしても、一言だけ――。


「ありがとう」


 悠は、何か言いかけて、結局、言葉にできなかった。

 代わりに、震える手で私の指のいちばん端を、ほんの少しだけ自分の方に引き寄せた。

 たったそれだけなのに、私の胸の中に、温かいものが流れるような気がした。

 

 しかしその言葉を伝えると、私の意識は再び暗い海の底へと沈んでいった。


  ✼ ✼ ✼


 何時間経っただろうか、私が再び目覚めると、すでに外は明るくなっていた。

 前回起きた時よりは、いくぶん頭がはっきりしている気がする。


 ふと横を見ると、椅子に座ったまま眠る悠がいた。


 悠、と試しに呼んでみた。

 まだ小さいが、今度はちゃんと声が出る。


 すると、眠っていたはずの悠の目がカッ、と見開かれた。

 怖っ、地獄耳かよ!


「よう」


 起き抜けの声はちょっとぶっきらぼうで、でもいつもの悠の声だった。

 きっと、ずっと側にいてくれたのだろう。その目は赤く腫れて、そのうえ隈だらけの酷いものだった。

 でも、今はそれが無性に愛おしい。


「ねえ、悠。私、すごい体験したんだよ」


 相変わらずガサガサな声で言う。

 それでね、と続けようとしたところで、悠が遮った。


「いや、待ってもらおう」


 そう言うと、なぜか片手をこめかみに当てて、決め顔を作る。

 秋の爽やかな風が窓から入り込み、彼の髪の毛を揺らしていた。


「その続き、この名探偵が推理してやるよ」

✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼


ここまでお読みくださり、ありがとうございます!


長編の第2章を書き終えたところで、気晴らしに書いてみました(現実逃避)。


被害者視点のミステリー、というほどちゃんとしたものではないですが、少しでもお楽しみいただけたら幸いです。


最初は、幽霊視点のドタバタ劇がやりたかったんです。

ジャンルもコメディーにしちゃったりして意気揚々と書き始めたのですが、なんか、やっぱり登場人物たちの言動がドロっとしてくる。勝手にシリアスになってくる……。


そして結局、そっと【文芸 - 推理】に戻し、こんな変わり種が爆誕しました。


✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼


まだまだ執筆は試行錯誤ばかりですが、短編って面白いですね!

長編も楽しいですが、まだまだ終わりそうにないので……。なんか、モチベが欲しくて……。


というわけで今後もちょこちょこ短編で「やり遂げた感」という名のガソリンを自給しつつ、長編を書き進めようと思います!

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