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一話

 揚げ物というのは、一体何故、機能食品として賛美されないのだろうか。タンパク質と脂肪と炭水化物を一度にそれも大量に摂取することが出来る素晴らしい食品ではないか。まあ、その脂肪が良くないといえばそうなのかものかも知れないが、しかし脂肪というのは大変に熱効率の良い栄養素であるはずなのだ。

 ……ああ、やはり問題はそこか。熱効率が良いという事は、そのまま代謝が悪いと言い換えられる。あちらを立てればこちらが立たず。相反する要素が存在する限り、総てを満たすのは不可能だ。このことは、口で茶を飲みながら鼻から炭酸水を飲むことが現実的に不可能であるという事から容易に証明することが可能である。まあ、する必要もないだろうが。

 ま、今現在は太らない体質であるところの俺には縁遠い話だが、しかし十年後に十年後には、切実な問題になって来るのかも知れなかった。

「…………」

 昼休み。現在、俺と綾瀬は、美術室で昼食をとっている最中であった。

 少し気になって、綾瀬の弁当箱を覗いてみる。やはり揚げ物の類は存在しないが……何というか、実に食欲をそそられるような弁当だった。自分でつくったと言っていたから、綾瀬は料理が得意なのかも知れない。鑑波とは大違いだ。俺は、あいつは母親が弁当を作ることが出来なかったとき、アボカドを一つだけ持ってきて、それをカッターで剥いて食っているのを見た事があった……。

「……勇気」

「ん。何?」

 その声で、俺は弁当の世界から引き戻された。とはいえ余韻は未だ残る。紫蘇とチーズのハーモニーが二律背反で差延だ。自分でも何を言っているのかわからない。要するに、俺は一瞬前まで忘我郷にいた。

「これはあなたの本?」

 綾瀬は、その手に一冊の文庫本を持っていた。

「あ……あー、そうだ、俺のだよ。一体何処に行ったのかと、それこそ半ば諦めていたんだがよ……どこにあった?」

「勇気の机の上」

「……流石にそんな所にあったら、俺だって気付くはずなんだ」

「……にあったから、今の今まで、勝手に借りていたの」

「酷い話だな……」

 というか、酷い奴だ。

「ほぼあなたの私物であろうという確信があったから、まあいいかなと」

「良いわけねえだろ。……いや、まあ別に構わねえけど」

 私物を持っていかれるのは、実際あまり好きではない――まあ好きな奴はいないだろうが、俺は割合そういうのが気になる方である。所有欲が強いのかも知れない……などと自己分析の真似ごとをしてはみるものの、こんなのはやはり真似ごと止まりだ。

「そう。それは何より……ところで。優希はポオが好きなの?」

「ああ。モルグ街なんかは、正直あれはどうかと思うけど……でも好きだな。ここだけの話、俺の初恋はリジイアだった」

 ここだけと言っておいて気付いた。そういや、あいつにも話したことがあったよなあ……。ま、口には決して出せないが。

「度し難い変態なんだね……」

「…………お前さ、他人の気持ちを慮ったことはあるか?」

「慮っていなかったら、今頃あなたは屋上の柵を越えているところじゃないかな……」

「……まあいいや。で―――そう。お前はどうなんだ。その文庫本にリジイアはない筈だから、その口ぶりだと読んだことあるんだろ。か……お前だって、割合本は読むほうだろ」

 ……鑑波程では、ないにしろ。口に出すことは何とか思いとどまる事が出来たが……これで綾瀬が気付かないという事もないはずだ。

 しかし綾瀬は、素知らぬふりで会話をつづけてくれた。

「そうだね……私も好きだよ。シニョーラ・サイキ・ゼノビアは、私が二番目に尊敬に値すると考えるジャーナリストね」

「ああ……ええと……そんなに嫌いなのか、ジャーナリスト」

 というか、あれはジャーナリストじゃないと思うんだが……。

「そうでもないけれど」

「参考までに聞くんだが、一番目は誰なんだ?」

「エドウィン・M・リリブリッジ」

「……もしかして、死んだジャーナリストだけが良いジャーナリストだとでも言うつもりか?」

「長期的にみれば、死なない人間などいない。それは考えすぎで、穿ち過ぎよだよ。……とはいえ、その意見には賛成だけれど」

「考えすぎ、ね……初めて言われたぜ、そんなの。迂闊な奴だとはよく言われるんだがな」

 主に鑑波に、だが。

 綾瀬は、自慢の髪を、食事のときはピンで留めて邪魔にならないようにしていた。

「他人の人格を想像で歪めるのは良くない――なんて言うわよね」

「ん?」

 いきなり話題が飛ぶのは、綾瀬にもよくあることだった。出会った当初はさほどでもなかったように思うので、恐らくは鑑波にうつされたというところだろう。あるいはまあ、俺が知らなかっただけで、もともとそういう人間だったのか。……まあ、きっとそちらのほうが正解だろう。これはこういう、とりとめのない女なのだろう。理解の放棄は、有限であるところの現実生活における時間という概念を効率よく消費していくためには、恐らく必要悪とでも言うべき行為であるはずだ。……とはいえ、現在交際している相手に対してそれを行うのは、不遜であるようにも思ったが。

 ……理解などしなくとも、会話は成り立つ。人と人の間における断絶は、もはや決定的なものなのだろうか。

 ――なんて、考えちゃいねえけど。端的に言えば、面倒なのだ。怠惰。どちらにしろ害悪かよ。

「ああ、確かに。その割に、相手の気持ちを想像しなさいなんて風にも言うけどな」

「そうね。あの言葉は本当に不毛だと思う。想像は良いけれど妄想は駄目――想像と妄想の間に、一体どれほどの違いがあるのかしら」

「他人にとって――観測される側にとって有害であるかそうでないかってなとこだろ」

「そうね……要するに、それだけのことなのに」

 大抵の分類は、それで事足りるのではないかと思う。是か非か。実用的な概念ほど、そうやって分類されることが多いように思う。

「他人なんていう存在は、結局のところ主観の中に存在する幻想なのに……ね」

「…………」

 生理なのか? とよほど聞こうかと思ったが、過去の記憶のお陰で思いとどまる事が出来た。そのときの相手は鑑波だったが、一生記憶に残る程の怒られ方をした。女、怖い。

 というか、もっと楽しい話題はないのだろうか。これでも俺達は、付き合ってるはずなのだが……。

 まあしかし、綾瀬はこういう難儀な性格のお陰で、あの鑑波と気が合うのかも知れなかったわけで。そういう目で見ると、確かに綾瀬は、鑑波と似ている。……いや。綾瀬が鑑波に似ている、のだろうか。俺が異性を見る場合、その比較対象は常に鑑波優希であったから。幼馴染というのは、いかにも因果なものであるように思う。

「『あの人は、私の胸の中で生き続けている』――この言葉が、それを端的に表しているわね。誰もが妄想の中に生きている。主観から逃れ得る生物など存在しない。脳髄の牢獄――脳髄は牢獄よ」

 そう言って、綾瀬は机を撫でた。それは何気ない動作であったのだろうが――

「あ、痛」

 綾瀬は言いながら、素早く手を引っ込めた。

「おいおい、血が出てんぞ」

「『いいかねお嬢さん、人が撃たれたなら、血は流れるものだ』。大したことはないよ」

「まあそうだろうがよ」

 綾瀬は玉のように血が浮かんだ右手の親指を、口にくわえた。何となく、微笑ましい絵ではある。赤ちゃんプレイ? 役者が逆か……。

「舐めれば治るよ。……それとも勇気が舐める? もう舐めちゃったけど」

「遠慮するよ……」

「そう。残念ね」

 ――幹久は残念な人ね。

 綾瀬は本当に残念そうに、しばらくそうしていた。

「さて、と……」

 綾瀬は親指を気にしながら、後片付けに取り掛かった。ふと時計を見ると、昼休みももう残り僅かだ。……アインシュタインの遺したあの言葉は、恐らくは一般相対性理論より圧倒的に正しい。

綾瀬は空になった弁当箱を、巾着袋にしまいながら言う。

「そろそろ昼休みもお終いね」

「そうだな」

「それだけ?」

 綾瀬は意地悪そうに笑う。

「……あん?」

「折角こうして二人きりなのに」

「……止せよ」

 俺達は本当に二人きりだった。綾瀬は美術部員である。彼女は『昼休みを使って、部活動で課題になっている絵を仕上げたい』という口実をもって、美術室の鍵を手に入れたらしい。悪い奴だ。まるで鑑波みたいな、或いは俺みたいな奴だった。類は友を呼び――朱は交われば赤くなる。そのうえで情に竿など差してみろ、もうどうなるかわからない。……いや、嫌という程に、分かるというものではあるが。正直、そういう事を考えると嫌になる。

「幹久は本当に甲斐性がないよね。いえ、それとも――何か、他の理由があるのかな」

「ねえよ。純情なのは血筋なんだ、放っておいてくれ」

 完全な嘘だが。家で心が白いのは、それこそ俺くらいのものだ。

「別にいいけどね……まさかとは思うけど、何も期待していなかったの?」

 言いながら、綾瀬はこちらに身を乗り出してくる。近い――吐息すら届く距離。

「するかよ」

 何とか、そうとだけ答える――と、

 生暖かいものが、俺の頬を撫でていった。酷く生理的で生々しい、この感触は――

「ぎやあッ! な、何を、」

「幹久。これは嘘を付いている味だぜ」

「――お」

 こ、こいつ――舐めた。俺の頬を舐めやがった……。犬にしか、舐められたことないのに――!

「『お』? 『う』の間違いじゃないの? 『ウはうれしいのウ』」

「お前はそんな事を言うために、俺の顔面を舐めたのか!?」

「そうだよ。どんな味がしたのかというと、結局のところただの塩味ね……特に深みも何もない。まさか甘酸っぱいわけもない」

「当たり前だ……」

「初心なんだね……ええと」

「…………」

「一応、今のが初キスだったんだけど……」

「は……初めてがこれかよ」

「そう考えると……ああ、やったったかなーって……」

「後の祭りだ……」

 俺も『ぎゃあ』とか言っちまったしよ……。もう何がが何やら。

 ――そのとき計ったように、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴り出した。同じ音階であるはずなのに、授業の終了を告げる鐘と休み時間を告げる鐘は、どうしてこれほどまでに、俺に与える印象が違うのだろうか。

 脳髄は牢獄――か。

 さ、楽しい時間もこれでお開き。まあ実際のところ、丁度いいタイミングではあったんだが……これは正直な話、少しだけ残念に感じた。何、気にすることはない。生きている限り、有限であるとはいえ次はある。

 俺達は、とっとと美術室を後にした。

 教室に戻り、ふと気になって鑑波の席を窺ったが……鑑波は、そこにはいなかった。


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