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プロローグ

「君は、人を裏切ったことがあるか?」

 放課後の教室。もう夕暮れをとっくに過ぎて、薄闇に沈みつつある窓の外を眺めながら、彼女は俺にそんなことを問うた。

「藪から棒だな……まあ、あるよ」

 首肯する俺に、彼女はかすかに頷く。

「そうか。……私もある」

「というかだ、自分は誰も、一度も人を裏切ったことは御座いませんなんて奴、存在するもんかね?」

「するだろう。自分は一度も嘘を吐いた事がないと主張する人間が存在するのだからな。そういう人間がいても、何ひとつ不思議なことはない」

「まあ、そうだな」

 そう、結局は主観の問題なのだろう。誠実さの定義を議論することほど実りのないものはないだろう。

 彼女は薄暗い空に一番星を探すように、少し顔を上向かせ――これは彼女が考え事を、特に適当な例を探すときの癖だった――、

「例えばだ。……君がある国Aの首相だとしよう」

 唐突に、そんなことを言った。他に妥当な例を思いつかなかったのだろうが、それにしても、会話に酷い飛躍がある。

「俺も出世したもんだな……」

 黙って聞いていればよいであろうときに、どうしてもこう茶々を入れてしまうのは――何というか、俺の性分なのだろう。

 とはいえ、彼女の話が飛躍しがちなのに、俺が慣れきっているように。……彼女も、俺のそういった言動に慣れきってはいるのだ。

「君は同盟国Bが雇った殺し屋に狙撃され死んだ。これは裏切りか?」

「それが裏切りでなくて何が裏切りだってんだ。……それにしても短い夢だった」

「では、君がある国Bの首相だったとしよう」

「複雑な気分だな……」

「君は同盟国Cが雇った魔術師に呪いをかけられて死んだ。これは裏切りか?」

「……ちなみにそれ、呪いを掛けられた何年後に死んだんだ?」

「三十年後だ」

「……」

 普通に考えて自然死だろ。それこそ、ファラオの呪いのようなものだ……。

「…………呪いと俺の死の間の相関関係が、お前に証明できるか?」

「出来ない。だから魔術なのだ。どうだ、これは裏切りか?」

「ええと、そうだな……もしその同盟国Cってのの首相が、呪いの効果を信じていたんだとすれば、それは裏切りだ」

「信じていなかったら?」

「ただのジョークだな。笑って許してやるよ。俺はイギリスがクロウリーを雇っていたってのもジョークだと信じたいが……」

「ふむ。私も君と同じようように考える。……つまりだ、『裏切る』という行為は、その行為だけを見て判断することは出来ないということになる。自分と相手のいずれかが、相手を裏切ったと感じるか、相手に裏切られたと感じるかしなければ、そこにどんな行為があろうと、それは『裏切り』にはなりえない」

「当然っちゃあ当然の話だな」

「そうだな。これはただの前置きだ」

「あん?」

「……私は君を裏切ったことがある。それは恐らく、家族を人買いに売り払うのにも匹敵するような罪だ」

「……」

 別にとぼけたって良かったのだろうし、彼女の言う意味がわからない振りをしたところで、その行為は誰に責められる者でもなかっただろう。それでも俺は沈黙した。

 誠実さの定義。俺は少なくとも君には、為し得る限り最大のそれを以て相対したいと願う。

 でもまあ、実際のところ。

 俺は君に対しては、他の誰に対するより明確に――卑劣な態度をとっているのだろうけれど。

「許してくれとは言わない」

「許すなんて、口が裂けても言えねえよ」

 これは多分、本音だ。……そう、多分。

「それはただの道理だ」

「だが、そうだな。俺も、お前を裏切ったことがある。それがお前の罪に劣るとは、僭越ながら考えられねえ」

「……」

「許してもらおうとは思わない」

「許すなんて、死んだって言えないよ」

「それもただの道理だな」

「……いけないな、これじゃあただの馴れ合いじゃないか。そういう積もりではなかったのだが」

「俺だって、別にそういう積もりじゃあなかった。だったらいいだろう、さっきのあれと同じだ」

「私も君もそう考えていないのなら、それは馴れ合いではないと? 余計悪いな、もうこれ以上べたべたするのは耐えられない」

「まあな。どうせべたべたするんなら――」

「するのなら? するのなら、一体何だというんだい?」

 彼女は意地の悪い顔で笑う。妙な話ではあるのだが、彼女にはそういった表情が良く似合うと思うのだ。小悪魔的とは言い難い、古の大悪魔みたいな表情だが……それはこの上もなく、魅力的なものに見えるのだ。

「……まあ、良いじゃねえか」

「この甲斐性なしが」

「うるせえな、純情なのは血筋なんだ、放っておいてくれ」

だから俺は、そうやって誤魔化すのが精一杯なのだが。




「……幹久勇気」

 自分の名前というのは、これはやはり不思議なものだと思う。いかに込み入った雑踏にあっても、自分の名前だけは明瞭に聞き取れたりするものだ。犬にしたところで、『お手』だの『おかわり』だの(もうひとつはあえて書かない)という言葉は解さずとも、『ポチ』と名前を呼んでやると反応を示したりする。……まあ犬の場合に於いては、パブロフの某に説明されるように、単にその言葉を聞いた後で餌がもらえる確率が高いとか、遊んでもらえるかも知れないとか、そういったことに対して反応を返しているだけなのかもしれないが。

「はい」

 現実から逃避するためのとりとめのない思考を遮断して、俺は立ちあがった。

「勉強熱心な君だけに、特別に小テストの機会を設けよう」

 俺が熟睡していたのが、どうやらバレてしまったらしい。教師に見つからずに居眠りをするというのは、事実上不可能に近い事なのではあるが。

「……光栄であります」

「…………」

 俺としては、これは別段皮肉のつもりはなかったのだが……。まあ、最初に皮肉を言った方としては、そういう風にとらえるのは無理というものだろうか。嘘を吐いたことのない人間は、他人が嘘を吐いているかもしれないと疑う事は出来ない。逆も然り。……まあそういう事だ。

 先生は若干表情を引きつらせながら、

「全ての残忍性は臆病から生じると言ったのは誰だ」

 ――…………その言葉は、今のあなたに贈りたい。もしあなたが人に愛されたいと望むなら、まずはあなたが人を愛さなければならない……。多分それ、教科書に載ってねえだろうがよ……。

 とはいえ、これは運が良い。俺はローマには明るいのだった。

「ああ……確かそれは、セネカでしたね……」

「…………正解だ」

 先生は、ある種あっけに取られたような表情でそう言った。毒を抜かれた、とでもいえば妥当なのだろうか。

「……ま、分かってるんならいいが……よくそんな事を知っているな。もう座っていいぞ」

「……はい」

 なんとも物分かりの良い先生だった。まあ良いとか言いながらも、授業態度の点は悪くつけるのだろうが――いや、これはただの逆恨みだ。

 俺は再び眠りの世界へと沈んでゆく。

 ……心地よい感覚に、沈んでゆく。

 しかし、それから間もなく――授業の終わりを告げる鐘に、俺の眠りは再び妨げられた。

「起立」

 言われるままに立ちあがり、

「礼」

 礼。……これは仕方がない、礼をしないと先生と目が合って気まずい思いをするのだ。……実際しょっちゅうやるのだが、そういうときにしてもわざとではない。寝ているだけだ。そういう生理的に不可避な状況でなければ、別に意地を張ってまで礼をしないという程には、俺は反抗心が旺盛な人間ではなかった。

 教師は荷物をまとめて、逃げるように教室を出て行き――教室はざわめきに埋もれる。

 ふと気付いて、自分のノートに目を落とすが、板書は途中で途絶えたままであった。慌てて残りを書きうつそうとするものの――これはすぐに諦めた。黒板に書かれた字が汚すぎてどうにもならないのだ。暗号を解読しているうちに、日直によって総ては黒板に還るだろう。睡魔を助長した要素は恐らくこれだったか。これでも、哲学の分野は誰かさんのせいでかなり明るいという自負があるのだが、それでも単語の意味すらとれないというのは尋常なことではない。仕方がないので、後で誰かにノートを見せてもらう事にする。……それにしても酷い字だ。果たして義務教育を受けたのだろうか。あの先生は、言う事は非常に分かりやすいのだが、字があまりにも汚過ぎた。

 ……とはいえ、寝ていたのでは何にもならない。そもそも口頭の説明があれば、あのように難解な、それ自体が解読を求めるような文字であろうとも、読み解くことは可能であるはずなのだ。その点は大いに反省しようと思う。

 俺は哲学が嫌いではない。元々勉強という奴が大嫌いな俺にして、哲学だけは学ぶに値するものだと考えている。俺はなにも、哲学的思考の崇高さや冗長性を讃美するつもりはない。俺が哲学に対して一定の評価を与えているのは、それが俺から世界を遠ざけてくれるからだ。哲学者の言葉は、自ら思考せずとも、俺に真理のようなものを与えてくれる。




「――ッ」

 大きく一つ伸びをして、俺は教室の後ろの方を窺った。そこでは、二人の女子生徒が、仲良く雑談に興じている。遠目に見ている分には微笑ましい光景だ。特定の毒虫じゃあるまいし、距離を取ってさえいれば害は及ばない。

 ……それを知っていてなお近づいて行く俺は、一体何なのだろうか?

「仲いいよな、お前ら……」

「何よ、素直に喜べばいいでしょう。両手に花なんだから」

 立っている方の女子生徒が、笑いながらそう言う。

 若干赤みがかった――これは生来のものらしい――セミロングの髪。黒目がちな瞳が印象的な彼女の名は、咲村綾瀬さきむら あやせという。見た目は愛らしいのだが、中身は意外と難儀な性格で、正直何を考えているのかよくわからない。

 ええと、その、何だ。色々、あって。

 そんなこんなで、綾瀬とはかれこれ一年間ほどお付き合いをさせてもらっている。非常に言い辛いというかアレなのだが、未だにプラトニック(糞が、今笑った奴は呪われろ)な関係である。

 ……でもまあ、何というのか。実際俺なんかより、鑑波のほうが、仲が良いとは思うのだが。始終べったりという表現が適切なくらいに、二人はいつも一緒にいる。

「まったくもってそのとおりだな。恐らくは、君の身には過ぎた栄誉だというのに」

 そして、座っているほうの女子生徒が、件の鑑波優希かがなみ ゆうき。こんな喋り方だがれっきとした女だ。いわゆる幼馴染というやつで、小さいころ確認したからそれは間違いない。髪が非常に長くて、見た目こう――凛としているとでも言えばいいのだろうか。贔屓目を別にしても、かなり綺麗な造作をしていると思うが……口調がそうであるように、中身も多少変わっているのがボトルネックになるのかもしれない。そのわりに、あまりくびれのあるほうではないのだが。痩せ気味なのは許容範囲としても、要所要所の肉付きが悪――いや、その話は止そう。

 ここ一年くらいは没交渉気味になっていたが、別に喧嘩をしたとかそういうことはない。クラスメイトでもあることだし、仲は良い方だと思う。

「花は花でも、片方は毒の花、もう片方は棘の花じゃねえか」

「一応、社交辞令で聞くと、どっとが毒でどっちが棘なの?」

「……」

 どっちもどっちだ、とは流石に言えず。

「……まあ、いいじゃねえか」

 そんなところで、俺はお茶を濁した。

「ところで、俺は次の休み時間に外に出て、何か買ってこようと思うんだ……何か買ってきて欲しいものはあるか?」

 外に出るというのは、学校を抜け出すという事だ。露見したら説教くらいは貰うだろうが、まあその程度のことだろう。校内には購買部もある事だし、危険を冒してまで外に出ようという生徒の数は多くないが、まあ皆無という事もなかった。俺という実例もあることだし。何にしろ、購買部の品揃えはたかが知れているのだ。菓子類は皆無だし、ジャンプもマガジンもサンデーもない。これは辛く、耐えがたいことだ。

「そうね……」

 綾瀬は少し考えるようにしてから、

「BLAM! で霧亥が食べていた、あのカロリーメイト風の食品が食べたいわ」

 凄まじい無茶振りをした。

「……カロリーメイトでいいか?」

「だめよ……カロリーメイトは、食べてもシャキッサクッて音がしないじゃない」

 まあ……な。確かにあれは、俺にも非常に美味そうに見えた。俺もあれを読んでからカロリーメイトを食って、妄想との間の落差に絶望を覚えた記憶があることであるし。いや、カロリーメイト自体は文句なしに美味いんだが……何というのか。やはり妄想を超える現実は存在し得ないとでも言うのか。……言うまでもなく冗談だが。

「それこそネットスフィアにでも頼んでくれ……じゃあ何もいらないんだな?」

「ねるねるねるね……」

「…………」

「ねるねるねるねで、乾人ごっこをしましょう」

「……まあ、いいけどな。そうだ、お前が魔女の真似をしたら買ってきてやろう」

「ひひひ」

 綾瀬は奇声を上げて笑ってみせた。

 ……まさか本当にやってくれるとは思わなかったのだが……。というか、嵌まり過ぎだった。

「鑑波は?」

「……えっ、あ、いや。私はいいよ」

「そうか?」

「……うん」

 最近、鑑波はいつもこんな感じだ。単純に元気がないというよりは、……何だろう、何かこう、ひどくぎくしゃくしているとでも言えばいいのか、そんな感じがする。今みたいに、うわの空になることも多くなった。こういう奴なんだと、そういうふうに思いこんでしまえば楽なのだろうけれど、俺は腐っても十年近い付き合いがあるから――そういうわけにもいかない。とにかく、気がかりだった。

「幹久」

「あん?」

 思考を断ち切る、男の声。振り返ると、後ろの席の宮崎が、呆れたような顔で突っ立っていた。こいつとはかれこれ三年の付き合い――三年間同じクラスで同じ位置関係、の意――になる。愛想はないが、これでなかなか頼りになる奴だ。

「黒板をの前を見てみろ」

 俺は言われるままに、黒板の方に目を向ける。そら見たことか、板書の半分はもうすでに消えて、黒板は黒板という名に相応しい、あるべき姿へと還りつつあった。やはり俺には先見の明があると言わざるを得ないが――しかし。そこで俺は違和感を感じた。爪先立ちになり必死に背を伸ばして、黒板の上部に書かれた文字を消そうとしているあれは、どう見たところで、俺の隣の席の三上さんにしか見えない。と、いうことは。

「日直とは、俺か」

「お前だよ、馬鹿。とっとと行け」

「……悪い、忘れてた」

 宮崎に促されるまでもない。俺は黒板の前に急いだ。三上さんもその頃には諦めの域に達していたのか、それとも単に体力が限界を迎えたのかは分からないが、黒板の上部は見ないことにしているようだった。

「悪い、残りは俺がやるよ」

「あ、うん……」

 疲弊したように、或いは俺を非難するような感じに、三上さんが答える。

「こんなこと言えた義理じゃねえけど、こういうときは言ってくれよ」

「うん……いやね、三上君ってば、授業が終わった途端に飛び起きて、鑑波さんのところに行ったから……何か用事があるのかなあって、思って」

「……いや、それはアレだ、俺はそういう奴なんだよ。俺の生態だの都合は置いておいて、三上さんの都合で呼んでくれていいから……」

「うん。わかった。次からは、言われなくともとっとと来てね」

「……はい」

 そんな事をしているうちに、始業の鐘が鳴り始める。俺達は慌てて黒板消しを放りだし、自分の席へと急いだ。

 前の時間の哲学担当の教師は、何かに追われるようにして去っていったが――今度教室に入ってきた現国担当の教師も、まるで何かに追われているかのように戸を閉め、教卓に自前の教材を放り出した。不思議な話だ、追い回されているのは、結局のところ俺達生徒のはずなのだが――追うはずの側が、何故そうも追い詰められたような挙動を示すのか。

「起立」

 俺は益体もない思考を振り払って、

「礼」

 今度こそは真面目に授業を受けようと決意した。


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