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犬猿の仲の冷徹魔術師様、毎晩私に甘いラブレターを送ってくるのはやめてください! ~匿名魔道具から始まるすれ違い恋愛~

作者: 江合 花果
掲載日:2026/03/19

 王立魔法研究所の廊下が、また静かになった。


 研究員たちが、音を立てずに遠回りしている。

 クロエとユリウス局長が口論を始めると、廊下の空気が変わる。

 それを全員が知っていた。


「エフェクタス第三回路の接続方式ですが」


 ユリウスは書類を机に置きながら言った。


「先週の審査で却下された方式と、本質的に同じ構造ですね」


「違います」


 クロエは即座に言った。


「先週のは並列接続で今回は直列です。根本的に別物です」


「結果として同じ熱暴走リスクを抱えているなら、別物とは言えません」


「熱暴走リスクの計算が間違っています。冷却術式との干渉係数を考慮していない」


「考慮した上での判断です」


「していません。係数の計算式が三年前のものです。去年更新されました」


 一瞬の沈黙。


「……更新された計算式を資料に添付してください。再審査します」


「最初からそうしてくれれば五分で終わった話では」


「添付していなかったのはそちらです」


「局長が古い資料で判断するとは思っていなかったので」


「次回から全ての参照資料を添付することを推奨します」


「次回から局長が最新資料を確認することを推奨します」


 ユリウスがクロエを見た。

 クロエがユリウスを見た。


 廊下の端で、先輩研究員のオットーが後輩に小声で言った。


「見ろ、今日も始まった」


「あのお二人、いつもあんな感じですか」


「局長は他の研究員に、あそこまで返さない。クロエも他の上司には、ああはならない」


「なんでですか」


「さあ」


 オットーは言った。


「でも三年間、毎回あれだ」


 後輩が小声で続けた。


「なんか、楽しそうに見えるんですが」


「俺もそう思ってる」


「以上です」とユリウスは言った。


「以上です」とクロエは言った。


 二人は反対方向に歩き去った。


 クロエは自分の執務室に入ってから、少しだけ気づいていた。


(また、言い返してしまった)


 他の上司の理不尽には、適当に流せる。

 なぜかユリウス相手だけは、全部正面から受けてしまう。


(なんでだろう)


 理由は分からないまま、三年が経っていた。


     ◇


 クロエの試作品の中で、現在最も面倒な存在が「魔導日記」だ。


 魔力を込めて文章を書くと、対になった日記帳に文章が現れる。

 完全匿名。書いた人間の情報は一切残らない。

 試作品なので対は一冊だけ。


 クロエは片方を手元に置き、もう一冊を研究所の共有棚に出した。

 誰かが使えば動作確認になる。

 そう思っただけだった。


【魔導日記より】


クロエ 文章が本当に届いて、驚いた。試作品が実際に機能するとは。あなたは誰ですか。

??? こちらも驚いた。棚にあったので試しに使った。あなたこそ誰だ。

クロエ 作った本人です。名前は教えられないけど。

??? こちらも教えられない。ではそういうことにしよう。


 それから三週間が経った。


 最初は動作確認のつもりだった。

 いつの間にか、夜に日記帳を取り出すのが習慣になっていた。


 相手のことは何も知らない。

 ただ文章の端々から、分かることがある。

 几帳面で、語彙が豊富で、論理的だ。

 でも時々、妙に不器用な一文が混じる。

 その不器用さが、なぜか好きだった。


【魔導日記より — 三週間の核心】


クロエ 今日、職場で口論になった。相手は間違っているのに、なぜか私の方が感情的だと言われた。

??? 内容が正しくても、伝わらなければ意味がない。あなたの相手は、傷ついていないか。

クロエ ……考えたことがなかった。あなたはなぜそんなに、相手の側を考えられるんですか。

??? 私も今日、同じ失敗をしたから。正しいと思ったことで、相手を怒らせた。だからまだ、答えが分からない。

クロエ 同じだ。私たち、似ているかもしれない。

??? そうかもしれない。それが、少し意外だった。


クロエ 今日も口論になった。あの人は古い資料で私の研究を却下した。頭が固い。でも、論理は通っている。悔しいけど、それだけは認めている。

??? 認めているなら、それはもう嫌いではないだろう。

クロエ 嫌いではない。むかつくけど。その違いは自分でも分からない。

??? むかつく相手と嫌いな相手は、心の置き場所が違う。むかつく相手のことは、無意識に気にしている。


 クロエは日記帳を閉じた。

 開けた。


(気にしている、か)


 三年間、毎回言い返してきた。

 他の上司には流せるのに、あの人相手だけは。


クロエ ……会いたい。


 送った後で、少し後悔した。

 でも返事はすぐに来た。


??? 私もだ。


     ◇


 その日記を読んで、ユリウスは固まった。


今日も口論になった。あの人は古い資料で私の研究を却下した。


 資料の問題。

 今日の午前。


(……まさか)


職場の上司は頭が固くて、いつも形式にこだわる。でも論理は通っている。認めたくないけど、認めている。


 ユリウスはゆっくりと息を吸った。


(クロエだ)


 三週間。

 毎晩、クロエと話していた。


 ユリウスは日記帳を閉じた。

 開けた。

 もう一度閉じた。


(どうする)


 正直に言う?


(言えるわけがない。三週間分の日記を全部読んでいた。上司の悪口も、自分への愚痴も、全部)


 しかし何もしないのも、違う。


(では)


 ユリウスは立ち上がった。


(日記の中で分かったことを、現実で使えばいい)


 シンプルな結論だった。

 翌朝から、盛大に空回り始めた。


     ◇


 変化は翌日の午後から始まった。


「クロエ」


 ユリウスが廊下で呼び止めた。


「……なんですか」


「昼食は取りましたか」


 クロエが固まった。


「……はい」


「食堂で取っていましたか」


「研究室で、ですが」


「気分転換が生産性に影響します。食堂の利用を推奨します」


「局長が全研究員の昼食場所を管理するんですか」


「……必要があれば」


「私に必要がある理由は」


「……通りかかったので」


「わざわざ呼び止めておいて」


「以上です」


 ユリウスが歩き去った。


 三メートル離れたところで、オットーが後輩に小声で言った。


「今の見たか」


「見ました。局長、クロエさんに昼食の話を」


「局長が他の研究員に昼食の話を聞いたことがあると思うか」


「……ないですね」


「だろう」


 オットーはメモ帳を取り出した。


「記録しておく」


「なぜ記録するんですか」


「歴史的瞬間かもしれないから」


     ◇


 翌日も起きた。


「クロエ」


 ユリウスが執務室に入ってきた。


「先週の魔道具の再審査が終わりました。承認です」


「……内線で言えばよかったのでは」


「直接の方が正確と思いまして」


「一言で済む話では」


「……その、労をねぎらうべきかと」


「局長が、私の労を」


「職務上の配慮です」


「昨日まで却下していた局長が」


「再審査の結果は承認です」


「急に態度が変わると逆に怖い」


「変わっていません。常にこうです」


「常にこうじゃなかったですよ」


「……気のせいでは」


「気のせいじゃないです」


 ユリウスが少し黙った。


「承認の件は以上です」


 ユリウスが出ていった。


 廊下でオットーがメモ帳に書き込んでいた。


「二日連続。しかも今日は執務室訪問」


「局長、大丈夫ですか」と後輩が言った。


「大丈夫ではないと思う」とオットーは言った。「でも、応援している」


     ◇


 三日目、ユリウスは作戦を根本から変えた。


 廊下での声かけも、執務室への訪問も、全部的外れだと気づいていた。

 日記に書いてあった。

 クロエが本当に好きなのは、研究の話だ。


「クロエ」


 ノックして入った。


「魔導日記の回路について、一点提案があります」


 クロエが顔を上げた。目が、変わった。


「……聞きます」


 ユリウスは図面を広げた。


「この部分の回路を逆順にすると、冷却術式との干渉が——」


「減る」


 クロエが続けた。


「あ、そうか。なんで気づかなかったんだろう」


「先入観があると見えにくい」


「局長、実装まで分かるんですか」


「一通り勉強しました」


「いつ」


「……最近」


 クロエがユリウスを見た。


「最近って、この試作品のために」


「審査するなら、正確に理解すべきかと」


「それは」


 クロエは少し間を置いた。


「それは、すごくありがたいです」


 ユリウスが視線を図面に戻した。


「それより回路の——」


「局長」


「なんですか」


「三日間、変ですよ」


「変ではありません」


「昼食の話、承認を直接伝えに来たこと、今日の回路の話。全部変です。絶対何かある」


「……ありません」


「ある」


「ない」


「絶対ある」


「……」


 ユリウスが図面を持つ手を、止めた。


(言うか)


(言えるわけが)


(でも)


(このままでは、ずっとこのままだ)


「クロエ」


「はい」


「魔導日記の対になる日記帳は、今どこにありますか」


 クロエが固まった。


「……え」


「共有棚に置いた一冊を、三週間前に私が持って行きました」


 クロエの顔が、少しずつ変わった。


「……え?」


「毎晩、書いていました」


「……え、え?」


「文通相手が君だと気づいたのは四日前です。資料の添付の話を書いた日に」


 クロエがゆっくりと立ち上がった。


「……待って」


「待ちません」


「待ってください!!」


 声が出た。

 かなりの音量だった。


 廊下でオットーがメモ帳を取り出した。


「じゃあ廊下で呼び止めたのも、部屋に来たのも、今日の回路の話も、全部日記を読んで」


「全部、君に伝えようとして、全部失敗していました」


「失敗って自覚あったんですか!!」


「ありました」


「あったのに続けたんですか!!」


「他に方法が思いつきませんでした」


「…………」


 クロエは窓の方を向いた。

 それから振り返った。


「三週間分、全部読んだんですね」


「読みました」


「上司の悪口も」


「読みました」


「上司の肩を持つような返事もしていましたよね」


「していました」


「自分で自分の肩を持っていたんですね」


「……結果的に」


「最悪だ」とクロエは言った。「本当に最悪です」


「おっしゃる通りです」


「会いたいって書いた時も、読んでたんですね」


「読んでいました」


「私もだって返事、あなたが書いたんですね」


「書きました」


「嘘じゃないですか、それ!」


「本当のことです」


「本当のこととか言っておいて正体を隠していた人の言葉を、なんで信じなきゃいけないんですか!!」


 クロエが一度、深く息を吸った。


「怒っていいですか。本気で」


「どうぞ」


「三週間、私が打ち明けたこと、全部知った上で、ずっと黙っていた。それは、ひどいと思います。本当に、ひどい」


 声が震えていた。

 怒りと、別の何かが混ざっていた。


 ユリウスは黙って聞いていた。


 クロエが続けた。


「……私、あなたに会いたいと思っていました。日記の相手に。名前も知らないのに、どんな人か、顔が見たいと思っていた」


「……はい」


「それがまさか」


 クロエは言った。


「毎日口論している相手だとは」


「……そうですね」


「なんで」


 クロエの声が、少し変わった。


「なんで、あなただったんですか」


 ユリウスが少し間を置いた。

 それから、言った。


「君の知性が、好きです」


 クロエが固まった。


「魔道具の回路の話も、議論の組み立ても、日記の文章も——」


 ユリウスが、一瞬だけ言葉を止めた。

 珍しいことだった。

 いつも言葉に詰まらない人が、一瞬だけ止まった。


「……日記を読んでいて、何度か、手が止まりました」


「……手が、止まった」


「君の言葉が、鋭すぎて。正しすぎて。私が気づいていなかったことを、あなたは当然のように書いていた」


「…………」


「文通相手が君だと分かった時、驚きより先に、納得しました。だからあんなに話しやすかったのかと」


 ユリウスは言った。


「庶民も貴族も関係ない。君の頭の中にあるものが、好きです。三年間、口論しながら、ずっと」


 クロエは何も言えなかった。

 しばらく何も言えなかった。


「……それ」とやっと言った。「ずるい」


「ずるくありません」


「怒っている最中に言うのがずるいと言っています」


「怒りが解けてからより、今の方が誠実と思いました」


「誠実の使い方が間違っています。誠実な人は正体を隠して文通しません」


「……それは、申し訳なかったです」


 ユリウスは言った。


「ただ」


「ただ?」


「後悔はしていません」


「なんで」


「三週間、君と話せたから」


 クロエが黙った。

 長い沈黙だった。


「……日記に書きましたよね」


 クロエは言った。


「むかつく相手のことは、無意識に気にしている、って」


「書きました」


「あれ、私が書いた言葉ですよ」


「知っています」


「自分の言葉で、返してきたんですか」


「君の言葉は、君に一番効くと思ったので」


 クロエが笑った。

 怒りと、呆れと、別の何かが全部混ざった笑い方だった。


「……本当に、不器用ですよね」


「自覚しています」


「不器用なのに、三週間、毎晩書いていたんですか」


「書いていました」


「…………」


 クロエは窓の外を見た。

 夕暮れが石畳を染めていた。


「……一つだけ聞いていいですか」


「どうぞ」


「これからも、話しかけて良いですか。あなたが日記じゃなく、直接」


 ユリウスが、少し目を細めた。


「……それは、私が聞くつもりでした」


「先に聞きました」


「……そうですね」


「良いですか」


「……良いです。むしろ」


 ユリウスは言った。


「望んでいました」


 クロエは図面を引き寄せた。


「じゃあ、回路の話の続きを。あそこからまだ先がある気がして」


「私もそう思っていました」


 二人は図面を挟んで、また向き合った。


 五分後に口論になった。


 廊下でオットーがメモ帳を閉じた。


「いつも通りだった」と後輩が言った。


「いつも通りじゃない」とオットーは言った。「見ろ、二人とも、少し笑ってる」


     ◇


 その夜、クロエの日記帳に文章が届いた。


ユリウス 今日は直接話せた。怒らせた。それでも、話せた。


 クロエは少し笑って、書いた。


クロエ 明日また口論になっても知りません。


ユリウス それでいい。君と口論している時間が、私にとって一番頭が働く。それは三年前からそうだった。


クロエ ……三年前から、って。


ユリウス 気づくのが遅かった。それだけだ。


 クロエは日記帳を閉じた。

 それから、もう一度開けた。

 一行だけ書いた。


クロエ 私も、遅かったです。おあいこ。


 返事が来るまで、少し時間がかかった。

 いつもより長かった。


 届いた文章は、一行だった。


ユリウス ……それは、ずるい。


 クロエは日記帳を抱えて、電気を消した。


 暗い部屋の中で、少し笑っていた。

 自分が使いたくて作った魔道具が、まさかこんな使われ方をするとは思っていなかった。

 でも、悪くなかった。

 全然、悪くなかった。

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