犬猿の仲の冷徹魔術師様、毎晩私に甘いラブレターを送ってくるのはやめてください! ~匿名魔道具から始まるすれ違い恋愛~
王立魔法研究所の廊下が、また静かになった。
研究員たちが、音を立てずに遠回りしている。
クロエとユリウス局長が口論を始めると、廊下の空気が変わる。
それを全員が知っていた。
「エフェクタス第三回路の接続方式ですが」
ユリウスは書類を机に置きながら言った。
「先週の審査で却下された方式と、本質的に同じ構造ですね」
「違います」
クロエは即座に言った。
「先週のは並列接続で今回は直列です。根本的に別物です」
「結果として同じ熱暴走リスクを抱えているなら、別物とは言えません」
「熱暴走リスクの計算が間違っています。冷却術式との干渉係数を考慮していない」
「考慮した上での判断です」
「していません。係数の計算式が三年前のものです。去年更新されました」
一瞬の沈黙。
「……更新された計算式を資料に添付してください。再審査します」
「最初からそうしてくれれば五分で終わった話では」
「添付していなかったのはそちらです」
「局長が古い資料で判断するとは思っていなかったので」
「次回から全ての参照資料を添付することを推奨します」
「次回から局長が最新資料を確認することを推奨します」
ユリウスがクロエを見た。
クロエがユリウスを見た。
廊下の端で、先輩研究員のオットーが後輩に小声で言った。
「見ろ、今日も始まった」
「あのお二人、いつもあんな感じですか」
「局長は他の研究員に、あそこまで返さない。クロエも他の上司には、ああはならない」
「なんでですか」
「さあ」
オットーは言った。
「でも三年間、毎回あれだ」
後輩が小声で続けた。
「なんか、楽しそうに見えるんですが」
「俺もそう思ってる」
「以上です」とユリウスは言った。
「以上です」とクロエは言った。
二人は反対方向に歩き去った。
クロエは自分の執務室に入ってから、少しだけ気づいていた。
(また、言い返してしまった)
他の上司の理不尽には、適当に流せる。
なぜかユリウス相手だけは、全部正面から受けてしまう。
(なんでだろう)
理由は分からないまま、三年が経っていた。
◇
クロエの試作品の中で、現在最も面倒な存在が「魔導日記」だ。
魔力を込めて文章を書くと、対になった日記帳に文章が現れる。
完全匿名。書いた人間の情報は一切残らない。
試作品なので対は一冊だけ。
クロエは片方を手元に置き、もう一冊を研究所の共有棚に出した。
誰かが使えば動作確認になる。
そう思っただけだった。
【魔導日記より】
クロエ 文章が本当に届いて、驚いた。試作品が実際に機能するとは。あなたは誰ですか。
??? こちらも驚いた。棚にあったので試しに使った。あなたこそ誰だ。
クロエ 作った本人です。名前は教えられないけど。
??? こちらも教えられない。ではそういうことにしよう。
それから三週間が経った。
最初は動作確認のつもりだった。
いつの間にか、夜に日記帳を取り出すのが習慣になっていた。
相手のことは何も知らない。
ただ文章の端々から、分かることがある。
几帳面で、語彙が豊富で、論理的だ。
でも時々、妙に不器用な一文が混じる。
その不器用さが、なぜか好きだった。
【魔導日記より — 三週間の核心】
クロエ 今日、職場で口論になった。相手は間違っているのに、なぜか私の方が感情的だと言われた。
??? 内容が正しくても、伝わらなければ意味がない。あなたの相手は、傷ついていないか。
クロエ ……考えたことがなかった。あなたはなぜそんなに、相手の側を考えられるんですか。
??? 私も今日、同じ失敗をしたから。正しいと思ったことで、相手を怒らせた。だからまだ、答えが分からない。
クロエ 同じだ。私たち、似ているかもしれない。
??? そうかもしれない。それが、少し意外だった。
クロエ 今日も口論になった。あの人は古い資料で私の研究を却下した。頭が固い。でも、論理は通っている。悔しいけど、それだけは認めている。
??? 認めているなら、それはもう嫌いではないだろう。
クロエ 嫌いではない。むかつくけど。その違いは自分でも分からない。
??? むかつく相手と嫌いな相手は、心の置き場所が違う。むかつく相手のことは、無意識に気にしている。
クロエは日記帳を閉じた。
開けた。
(気にしている、か)
三年間、毎回言い返してきた。
他の上司には流せるのに、あの人相手だけは。
クロエ ……会いたい。
送った後で、少し後悔した。
でも返事はすぐに来た。
??? 私もだ。
◇
その日記を読んで、ユリウスは固まった。
今日も口論になった。あの人は古い資料で私の研究を却下した。
資料の問題。
今日の午前。
(……まさか)
職場の上司は頭が固くて、いつも形式にこだわる。でも論理は通っている。認めたくないけど、認めている。
ユリウスはゆっくりと息を吸った。
(クロエだ)
三週間。
毎晩、クロエと話していた。
ユリウスは日記帳を閉じた。
開けた。
もう一度閉じた。
(どうする)
正直に言う?
(言えるわけがない。三週間分の日記を全部読んでいた。上司の悪口も、自分への愚痴も、全部)
しかし何もしないのも、違う。
(では)
ユリウスは立ち上がった。
(日記の中で分かったことを、現実で使えばいい)
シンプルな結論だった。
翌朝から、盛大に空回り始めた。
◇
変化は翌日の午後から始まった。
「クロエ」
ユリウスが廊下で呼び止めた。
「……なんですか」
「昼食は取りましたか」
クロエが固まった。
「……はい」
「食堂で取っていましたか」
「研究室で、ですが」
「気分転換が生産性に影響します。食堂の利用を推奨します」
「局長が全研究員の昼食場所を管理するんですか」
「……必要があれば」
「私に必要がある理由は」
「……通りかかったので」
「わざわざ呼び止めておいて」
「以上です」
ユリウスが歩き去った。
三メートル離れたところで、オットーが後輩に小声で言った。
「今の見たか」
「見ました。局長、クロエさんに昼食の話を」
「局長が他の研究員に昼食の話を聞いたことがあると思うか」
「……ないですね」
「だろう」
オットーはメモ帳を取り出した。
「記録しておく」
「なぜ記録するんですか」
「歴史的瞬間かもしれないから」
◇
翌日も起きた。
「クロエ」
ユリウスが執務室に入ってきた。
「先週の魔道具の再審査が終わりました。承認です」
「……内線で言えばよかったのでは」
「直接の方が正確と思いまして」
「一言で済む話では」
「……その、労をねぎらうべきかと」
「局長が、私の労を」
「職務上の配慮です」
「昨日まで却下していた局長が」
「再審査の結果は承認です」
「急に態度が変わると逆に怖い」
「変わっていません。常にこうです」
「常にこうじゃなかったですよ」
「……気のせいでは」
「気のせいじゃないです」
ユリウスが少し黙った。
「承認の件は以上です」
ユリウスが出ていった。
廊下でオットーがメモ帳に書き込んでいた。
「二日連続。しかも今日は執務室訪問」
「局長、大丈夫ですか」と後輩が言った。
「大丈夫ではないと思う」とオットーは言った。「でも、応援している」
◇
三日目、ユリウスは作戦を根本から変えた。
廊下での声かけも、執務室への訪問も、全部的外れだと気づいていた。
日記に書いてあった。
クロエが本当に好きなのは、研究の話だ。
「クロエ」
ノックして入った。
「魔導日記の回路について、一点提案があります」
クロエが顔を上げた。目が、変わった。
「……聞きます」
ユリウスは図面を広げた。
「この部分の回路を逆順にすると、冷却術式との干渉が——」
「減る」
クロエが続けた。
「あ、そうか。なんで気づかなかったんだろう」
「先入観があると見えにくい」
「局長、実装まで分かるんですか」
「一通り勉強しました」
「いつ」
「……最近」
クロエがユリウスを見た。
「最近って、この試作品のために」
「審査するなら、正確に理解すべきかと」
「それは」
クロエは少し間を置いた。
「それは、すごくありがたいです」
ユリウスが視線を図面に戻した。
「それより回路の——」
「局長」
「なんですか」
「三日間、変ですよ」
「変ではありません」
「昼食の話、承認を直接伝えに来たこと、今日の回路の話。全部変です。絶対何かある」
「……ありません」
「ある」
「ない」
「絶対ある」
「……」
ユリウスが図面を持つ手を、止めた。
(言うか)
(言えるわけが)
(でも)
(このままでは、ずっとこのままだ)
「クロエ」
「はい」
「魔導日記の対になる日記帳は、今どこにありますか」
クロエが固まった。
「……え」
「共有棚に置いた一冊を、三週間前に私が持って行きました」
クロエの顔が、少しずつ変わった。
「……え?」
「毎晩、書いていました」
「……え、え?」
「文通相手が君だと気づいたのは四日前です。資料の添付の話を書いた日に」
クロエがゆっくりと立ち上がった。
「……待って」
「待ちません」
「待ってください!!」
声が出た。
かなりの音量だった。
廊下でオットーがメモ帳を取り出した。
「じゃあ廊下で呼び止めたのも、部屋に来たのも、今日の回路の話も、全部日記を読んで」
「全部、君に伝えようとして、全部失敗していました」
「失敗って自覚あったんですか!!」
「ありました」
「あったのに続けたんですか!!」
「他に方法が思いつきませんでした」
「…………」
クロエは窓の方を向いた。
それから振り返った。
「三週間分、全部読んだんですね」
「読みました」
「上司の悪口も」
「読みました」
「上司の肩を持つような返事もしていましたよね」
「していました」
「自分で自分の肩を持っていたんですね」
「……結果的に」
「最悪だ」とクロエは言った。「本当に最悪です」
「おっしゃる通りです」
「会いたいって書いた時も、読んでたんですね」
「読んでいました」
「私もだって返事、あなたが書いたんですね」
「書きました」
「嘘じゃないですか、それ!」
「本当のことです」
「本当のこととか言っておいて正体を隠していた人の言葉を、なんで信じなきゃいけないんですか!!」
クロエが一度、深く息を吸った。
「怒っていいですか。本気で」
「どうぞ」
「三週間、私が打ち明けたこと、全部知った上で、ずっと黙っていた。それは、ひどいと思います。本当に、ひどい」
声が震えていた。
怒りと、別の何かが混ざっていた。
ユリウスは黙って聞いていた。
クロエが続けた。
「……私、あなたに会いたいと思っていました。日記の相手に。名前も知らないのに、どんな人か、顔が見たいと思っていた」
「……はい」
「それがまさか」
クロエは言った。
「毎日口論している相手だとは」
「……そうですね」
「なんで」
クロエの声が、少し変わった。
「なんで、あなただったんですか」
ユリウスが少し間を置いた。
それから、言った。
「君の知性が、好きです」
クロエが固まった。
「魔道具の回路の話も、議論の組み立ても、日記の文章も——」
ユリウスが、一瞬だけ言葉を止めた。
珍しいことだった。
いつも言葉に詰まらない人が、一瞬だけ止まった。
「……日記を読んでいて、何度か、手が止まりました」
「……手が、止まった」
「君の言葉が、鋭すぎて。正しすぎて。私が気づいていなかったことを、あなたは当然のように書いていた」
「…………」
「文通相手が君だと分かった時、驚きより先に、納得しました。だからあんなに話しやすかったのかと」
ユリウスは言った。
「庶民も貴族も関係ない。君の頭の中にあるものが、好きです。三年間、口論しながら、ずっと」
クロエは何も言えなかった。
しばらく何も言えなかった。
「……それ」とやっと言った。「ずるい」
「ずるくありません」
「怒っている最中に言うのがずるいと言っています」
「怒りが解けてからより、今の方が誠実と思いました」
「誠実の使い方が間違っています。誠実な人は正体を隠して文通しません」
「……それは、申し訳なかったです」
ユリウスは言った。
「ただ」
「ただ?」
「後悔はしていません」
「なんで」
「三週間、君と話せたから」
クロエが黙った。
長い沈黙だった。
「……日記に書きましたよね」
クロエは言った。
「むかつく相手のことは、無意識に気にしている、って」
「書きました」
「あれ、私が書いた言葉ですよ」
「知っています」
「自分の言葉で、返してきたんですか」
「君の言葉は、君に一番効くと思ったので」
クロエが笑った。
怒りと、呆れと、別の何かが全部混ざった笑い方だった。
「……本当に、不器用ですよね」
「自覚しています」
「不器用なのに、三週間、毎晩書いていたんですか」
「書いていました」
「…………」
クロエは窓の外を見た。
夕暮れが石畳を染めていた。
「……一つだけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「これからも、話しかけて良いですか。あなたが日記じゃなく、直接」
ユリウスが、少し目を細めた。
「……それは、私が聞くつもりでした」
「先に聞きました」
「……そうですね」
「良いですか」
「……良いです。むしろ」
ユリウスは言った。
「望んでいました」
クロエは図面を引き寄せた。
「じゃあ、回路の話の続きを。あそこからまだ先がある気がして」
「私もそう思っていました」
二人は図面を挟んで、また向き合った。
五分後に口論になった。
廊下でオットーがメモ帳を閉じた。
「いつも通りだった」と後輩が言った。
「いつも通りじゃない」とオットーは言った。「見ろ、二人とも、少し笑ってる」
◇
その夜、クロエの日記帳に文章が届いた。
ユリウス 今日は直接話せた。怒らせた。それでも、話せた。
クロエは少し笑って、書いた。
クロエ 明日また口論になっても知りません。
ユリウス それでいい。君と口論している時間が、私にとって一番頭が働く。それは三年前からそうだった。
クロエ ……三年前から、って。
ユリウス 気づくのが遅かった。それだけだ。
クロエは日記帳を閉じた。
それから、もう一度開けた。
一行だけ書いた。
クロエ 私も、遅かったです。おあいこ。
返事が来るまで、少し時間がかかった。
いつもより長かった。
届いた文章は、一行だった。
ユリウス ……それは、ずるい。
クロエは日記帳を抱えて、電気を消した。
暗い部屋の中で、少し笑っていた。
自分が使いたくて作った魔道具が、まさかこんな使われ方をするとは思っていなかった。
でも、悪くなかった。
全然、悪くなかった。




