第一章 彼方への咆哮 その三
ガタリと硬い振動が全身を揺さぶり、半月の意識は泥の底から引きずり上げられた。
「……ッ、ぁ……?」
半月が目を開けると、そこは揺れる軍用トラックの荷台だった。
荷台の中は油と鉄の臭いが鼻を刺し、木製の床は冷たく埃っぽかった。トラックが揺れるたびに荷台の奥に積まれた缶や木箱ががらがらと音を立てる。暗く、狭く、息苦しい空間だった。
半月は両手足をプラスチック製の拘束バンドできつく締め上げられ、拘束されていた。
「目が覚めたか、検体九号」
暗闇の中から感情の抜け落ちた声が響く。
数人の兵士と共に、軍帽を目深に被った大きな初老の男が半月を見下ろしていた。その手には怪しげな薬剤が入れられた注射器が握られていた。
「儂の名は風馬蒼蝉、東日本連合の軍人だ。そして君の飼い主になる」
「……先生は、どこだ……ッ!」
半月は乾いた喉で吼えた。だが風馬は答えなかった。代わりに半月の首筋に無造作に針を突き立てた。
「が、ぁ……ッ!」
「今投与した薬は『タナトス・インデューサー』と呼ばれているものだ。脳の扁桃体を刺激し、生物としての生存本能を極限まで高めて暴走させる。たっぷりと地獄を味わうが良い」
薬液が血管を焼きながら脳髄へと到達するのに、時間はかからなかった。
心臓が内側から肋骨を粉砕せんばかりに跳ねた。血管を流れる血が瞬時にして氷水に変わり、次の瞬間には重たい鉛へと変わる。視界が明滅を繰り返し、精神が爆発しそうなほど高揚していた。
トラックが停車し、半月の拘束バンドが断ち切られる。そして半月は兵士達によって荷台から地面のぬかるみへと蹴り落とされた。
「立て」
半月は兵士達によって銃床で背中を殴打される。
そこは夜の森だった。枝葉は幾重にも折り重なって月明かりを完全に遮断し、足元には墨汁をぶちまけたような濃密な闇がわだかまっていた。風がザワザワと葉擦れの音を立てる。
「歩け。止まれば射殺する」
兵士達が一斉に銃身の下にあるタクティカルライトを点灯させる。鋭利な白い光の束が暴力的に闇を切り裂く。
半月は物資が不足した時代には珍しい、最新鋭の自動小銃を装備した六人の兵士に囲まれていた。逃げ場はない。その人工的な光の道だけが半月に許された唯一の進行方向だった。
半月はまるで鎖を付けられた囚人のように重い足取りで歩き出す。
薬物の作用か、それとも極限の恐怖が見せる幻覚か、風にざわめく枝葉の音が亡者達の忍び笑いに聞こえる。ねじくれた木の幹は苦悶の表情を浮かべる人の顔に見える。
「……クソ、がっ……」
歯の根が合わない。寒いわけではない。怖いのだ。理屈では説明できない純粋な生物学的恐怖。細胞の一つ一つが「死ぬな」「逃げろ」「死が迫っている」と絶叫し続けている。
心臓の鼓動が早すぎて呼吸が追いつかない。
そこから先の記憶は混濁していた。
時間の感覚がなかった。森の中を二時間歩いたのか五時間歩いたのか不明だった。そして道中、水も食糧も一切支給されない。半月は脱水症状を引き起こし、何度も意識を失いかけてはそのたびに軍靴で蹴り上げられ、無理やり立たされた。
顔面は蒼白で、唇はカサカサに乾きひび割れている。苦しい息をなんとか整えながらの、終わりのない死の行進。
「素晴らしいだろう、この静寂は」
兵士達の中心で風馬が朗々と語りかけてくる。その声は恐怖に支配された半月の脳にはどこか神聖な啓示のようにすら響いた。
「世界は不平等だ。西の豚どもは金で命を買い、我々を資源として搾取する。だが君達は違う。君達は愛国の志士であり、未来に残すべき東日本連合の財産なのだ」
誰かが「耳には瞼がない」と言っていたが、まさにその通りだった。心を強く持とうとしても極限の恐怖と疲労の中で、風馬の言葉は抵抗なく脳の深層まで突き刺さってくる。
(俺は……選ばれた……? だから死なないのか……?)
半月はその言葉にすがり、服従してしまいそうになった。そうしなければこの圧倒的な死の恐怖に押し潰されてしまうからだ。
そうしている内に視界が開けた。
断崖絶壁の上だった。
波音がする。風が吹き上げてくる。頭上の空には三日月が懸かっていた。近くで大きなかがり火が音を立てて燃え盛っている。火の粉が舞うたび、揺らめく影が禍々しい儀式の場を作り出していた。
磔だ。
崖の淵に立てられた杭に、人が吊るされている。
「罪人だ。斬り殺せ」
半月は肩をポンと叩かれる。すると風馬が耳元で「これは試験で君は最後の受験生だ」と呟いた。
何故わざわざ自分にやらせるのか、処刑の目的が半月には分からない。それに相手の罪状も不明だ。だが混乱する半月をよそに、鞘を払った小太刀が握らされた。
磔にされているのは若い女だ。その人の頭には麻袋が被せられていて顔は分からない。ボロボロの衣服から覗く手足は白く、弱々しい。
「これが……試験、だと……?」
半月は風馬にも聞かれないような、か細い声で己に問いかけた。
(異常だ。狂っている)
自分はへばっているし、間違いなく洗脳されている。半月には辛うじて、そういう理性の欠片が残っていた。
「拒否すればどうなる?」
衰弱した頭を必死に働かせて思考してみる。
「死」
即座に本能が答えを出した。
死臭がする。この場所には濃厚な死の匂いが染み付いている。
(最後の受験生と言っていた。他の受験生はどこへ? 死んだのか? 考えてみれば、こんな非人道的な試験を口外できるようにするわけがない。人目のないところまで連れ去られ、試されている。舞台が整い過ぎている)
半月は間違いなく命の危機に瀕していると確信する。
女を殺さなければ、自分が風馬に殺される。ここで逃げだせば背後から撃たれるか、確実に遭難して死ぬ。
「はッ、はッ、はッ、はッ……」
過呼吸が悪化する。視界が明滅する。
(死体の数が二つになるか、一つになるかだ。死体の数は少ない方が良いに決まっている。誰だってそう思うだろ?)
「はッ、はッ、はッ、はッ……」
(この女は罪人だ。スパイだ。敵だ。風馬がそう言った。だから殺しても良い。殺さなきゃいけない)
「はッ、はッ、はッ、はッ……」
(仮に女が無実で、自分が騙されていたとしても――それは風馬が悪い。時代が悪い。俺は悪くない)
言い訳が脳裏を駆け巡る。だが本音はもっと醜悪で、単純なものだ。
「はッ――――――――――ッ!」
(死にたくない。……生きたい)
半月は獣のような声を上げ、地面を蹴った。逆手に持った小太刀を振りかぶる。狙うは心臓。
鈍く、湿った感触が右手に伝わった。
体重を乗せ、女の左胸を圧し潰すように刺し貫く。ビクンと女の身体が跳ね、すぐに脱力する。生温かい鮮血が半月の顔面を濡らした。半月の鼻孔をくすぐる鉄錆びた血の匂い。その奥から漂う安物の石鹸と陽だまりのような匂い。
「……ぐ、う……」
猿轡越しに、女の最期の吐息が漏れた。
その微かな音を聞いた瞬間、半月の時が止まった。薬による興奮も、死への恐怖も、一瞬で吹き飛んだ。
気がつけば大地が横から縦へと傾いて見えた。遅れてやってきた音と衝撃。地面に倒れ込んだのだと理解するのに数秒かかった。括約筋の力が緩み、脱糞した。だがそんな瑣末な事はどうでもよかった。
「よくぞ断ち切った」
風馬の称賛が雑音となって消える。
半月は悟っていた。
麻袋で顔を隠されていようとも、本当は理解していたのだ。
心臓を刺し貫くことで命を奪ったその人間は、この腐った世界で愛したたった一人の女性だ。自分の命惜しさに自らの意思で、その手でやったことだ。その真実から目を逸らそうとしたが失敗した。
「嘘、だ……」
地を這い、震える手で動かなくなったその人に触れる。ゆっくりと頭に被せられた麻袋を取り外す。
「せ……ん、せい?」
月明かりに照らされたその顔は、伊藤楓だった。
苦しかったはずだ。痛かったはずだ。だがその表情は半月のことを案じているかのように優しいまま止まっていた。
体が、煮え滾るように熱い。
内側から何かが、音を立てて砕け散っていく。
「ッッッッ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」
夜の森に轟く咆哮、声帯が千切れんばかりの慟哭。それは夜行半月という人間が壊れ、人修羅へと変わる産声だった。
風馬は発狂する半月を見下ろしながら、恍惚とした笑みを浮かべる。
「素晴らしい……。これほどの『念』! これほどの『絶望』! 最強の『死ボーグ』の素体に成り得る!」
風馬は腰に差していた軍刀を静かに引き抜いた。刀が月の光で煌めく。
崖の上に一本だけ生えていた山桜が狂ったように花弁を散らす。半月の血塗れの視界の中で、その夜の桜はこの世の物とは思えないほど美しく輝いていた。
次の瞬間、半月の視界が反転した。首を斬られたようだ。
そうして夜行半月は絶命した。




