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第一章 彼方への咆哮 そのニ

 八カ月が経過した。


 伊藤楓という教師の存在は半月にとって一筋の光だった。未知の言語を知り、数式を解き、歴史を学ぶ。脳が渇きを癒すように知識を吸収していく。そこには静かで強烈な高揚感があった。


 だが半月の世界が内側へ向かって広がっていくのとは裏腹に、日本は崩壊を始めていた。


 西暦二〇四〇年。


 後に『大断絶』と呼ばれる未曾有の衝突があった。それは統治機構や人々の思想までも無惨に引き裂いた。旧政府の残滓と軍閥が支配する『東日本連合』と、巨大複合企業体が牛耳る『西日本共同体』の二つの日本は互いを敵性国家とみなし、冷え切った緊張関係の果てについに戦端を開いたのだ。


 それは半月のような若者にとって死刑宣告に等しかった。半月は身寄りのない孤児であるため、徴兵名簿の最上位に名前が載っているであろうことは想像に難くない。街には国家総動員法のポスターが貼られ、かつての不良仲間達がろくな訓練も受けないまま愛国の御旗の下、西の戦線へと送られていくのを半月は何度も目にした。そしてそのほとんどが二度と帰ってはこなかった。


「行っちゃ駄目よ、半月君」


 出頭すべきかと思い悩む半月に先生はきっぱりと言った。先生の瞳には強い意志の光が宿っていた。


「今、貴方が行ってもただの駒として使い潰されるだけ。犬死にするだけだわ。それは名誉の戦死なんかじゃない。ただの無駄死によ。……貴方には生きて、未来を創ってほしいの」


 その日から、半月の隠遁生活が始まった。


 塾である掘っ建て小屋の床下、先生が密かに増築していた大人一人がようやく横になれるだけの狭い隠し部屋が半月の居場所となった。昼間は息を潜めて先生が買ってくる僅かな食料を分け合う。夜になると外に光が漏れないよう分厚い毛布で窓を覆った部屋で、二人きりの授業が続けられた。


 カビと埃の匂いが充満する息の詰まるような閉鎖空間であった。だが半月は不思議と苦しくはなかった。ひそやかな声で語られる歴史の物語、数式を解く鉛筆の音、そしてすぐ隣で感じる先生の存在、それら全てが外界から自分を守っている温かい繭のように感じられた。


 先生への想いはもはや単なる初恋ではなかった。伊藤楓は先生であり、家族であり、そして半月が命に代えても守りたいと願う唯一の存在となっていた。同時に激しい罪悪感が半月の心を苛んだ。先生をこんな危険な日々に巻き込んでいるのは紛れもなく自分なのだ。この安穏は先生の犠牲の上に成り立つ砂上の楼閣に過ぎない。


 その夜もいつもと同じ夜のはずだった。


 遠くで鳴り響く空襲警報のサイレンがまるで子守唄のように聞こえるほど、戦争は日常に溶け込んでいた。半月はランプの頼りない光の下、どこからか手に入れてきた古い物理学の専門書を読み解いていた。


「……ここが分からない」


 半月が指し示した数式を覗き込もうと、先生が身を寄せた。


 その時だった。


 唐突に扉が悲鳴を上げた。


 ノックではない。巨大なハンマーか何かで叩きつけたような、暴力的な破壊音だ。


 先生の体が強張るのを、半月は肌で感じた。


「開けろ! 公安保安局だ! この家に非国民を匿っているという通報があった! 開けない場合は強制的に突入する!」


 拡声器を通した声が嵐のように小屋を揺さぶる。


 半月の血の気が一瞬で引いた。公安保安局、東日本連合の思想・良心の自由を弾圧するために設立された秘密警察だ。彼らに捕らえられた者に明日はない。


「半月君、裏からっ!」


 先生が叫ぶが遅かった。バリバリバリという耳障りな破壊音と共に、粗末な扉が蹴破られる。


 なだれ込んできたのは黒い戦闘服に身を包み、醜悪な目出し帽で顔を隠した男達だった。その手には鈍い光を放つ自動小銃が握られていた。


「動くな!」


 銃口が寸分の狂いもなく二人に向けられる。


 半月は先生を庇うように一歩前に出た。頭の中ではどうやってこいつらを叩き伏せるか、その算段だけが目まぐるしく回転していた。


 だが一人の男が先生の細い腕を掴み、その後頭部に冷たい銃口を押し当てた。そこで半月の思考は完全に停止した。


「……この子を離して! 関係ないわ、この子は!」


 先生が悲鳴に近い声で叫ぶ。その声が半月の凍り付いた身体を再び動かした。


「やめろ……触れるな!」


 地を這うような声で呻き、半月はゆっくりと両手を上げた。抵抗は先生の死を意味する。それだけは絶対に避けなければならなかった。


「夜行半月だな。徴兵義務を無視し、敵性思想に感化された危険分子として身柄を拘束する」


 男は宣告するように言った。


「待って! 違うの! 私が無理に……」


「黙れ、女。お前も反逆者への幇助及び利敵行為の現行犯で連行する」


 無慈悲な言葉と共に先生の腕が背後に捻り上げられる。苦痛に歪む先生の顔を見て、半月の頭の中で何かが焼き切れた。


「お前らッ!」


 獣のような咆哮と共に半月は床を蹴った。


 だがその動きはあまりにも無力だった。銃床による腹部への痛烈な一撃が半月の肺から全ての空気を奪い去る。崩れ落ちる半月の目に映ったのはひっくり返された机、無残に散らばった教科書やノート、そして床に転がるランプだった。


 それは二人だけで必死に築き上げてきた、ささやかで温かい世界の残骸だった。


 意識が遠のく中、引きずられていく先生の「半月!」という悲痛な叫びだけが半月の耳にこびりついて離れなかった。

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