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第一章 彼方への咆哮 その一

「ちッ」


 夜行半月は舌打ちした。ガキの遊びのようなことに付き合わされている現状が不服だった。


 湿り気を帯びた熱気が集中力を奪っていく。額から嫌な汗が出る。垂れた汗の雫が紙面を灰色に濡らした。半月は頭をかき毟り、膝で机を叩き、鉛筆をガジガジとかじる。遂にはTシャツを頭から引き抜き、無造作に床へ叩きつけた。


 半月が忌々しげに自分の身体を見下ろす。露わになったのは無駄のない引き締まった肉体だ。そこにはナイフによる切り傷、鉄パイプによる打撲痕、無数の古傷が刻まれている。決して美しくはない、ドブネズミのような半生が染みついた薄汚い肌だ。


「学校なんてのは馬鹿の行くところだ」


 それが夜行半月の口癖だった。生きていれば知恵はつく。人を騙す方法も、小金を稼ぐ術も、何より喧嘩の勝ち方も、学校じゃ誰も教えてはくれない。それが全てのはずだった、あの女に出会うまでは。


 女は着古して色褪せているがシワ一つないグレーのワンピースを着ていた。艶やかな黒い髪をなびかせ、切れ長の瞳が半月を見下ろす。ゴミ溜めのようなこの街でこの女だけが別世界から切り取られたように異質な清潔さをまとっていた。


「人を騙し、金を巻き上げ、喧嘩もできる貴方は四則計算もできないのかしら?」


 名前を伊藤楓という教師はあの日、そう言って涼しい顔で笑ったのだ。


 その屈辱が今、半月をこの机に縛り付けている。


 結局は真っ当に生きるということが羨ましかったのだ。負い目があったのだ。だから暇を見つけては学生に喧嘩を吹っ掛け、辱め、小銭を巻き上げ、その場凌ぎの優越感を得て良い気になっていた。そんなろくでもない日々に別れを告げるために半月は伊藤楓の私塾へ通い始めたのだ。


 その私塾は廃材を継ぎ接ぎして建てられた掘っ建て小屋だった。中は六畳ほどの空間があり、壁には誰かが落書きしたスプレー跡が残っていて、床板は歩くたびに軋んだ。家具といえば脚の長さが揃っていない長机と丸椅子、そして小さな黒板だけだった。それらが辛うじてここが学び舎であることを主張していた。


 今日は緑が目に眩しい夏であった。だが青く澄んでいたはずの空は瞬く間に黒い積乱雲に飲み込まれた。夕立だ。


 掘っ建て小屋のあちこちで雨漏りが始まり、蝉しぐれに代わる不規則な水音が半月の集中力を削いでいく。部屋は昼間だというのに薄暗い。先生が天井からぶら下がっている白熱電球を点灯させたが、雷鳴と共にその白熱電球が切れた。どうやら停電であるらしい。


 時間は無常にも刻々と過ぎる。


「ふぅう……」


 半月は肺に溜まった熱を吐き出すように深呼吸をした。湿った土の匂いが鼻孔をくすぐる。だがそれで思考の泥沼から抜け出せるわけもない。


 本日は中学校卒業程度認定試験の模擬テストの日であった。半月にとって、これまでの成果が試される時である。試される時であるが、……紙に書かれている問題が全く分からない。


「終わりよ」


 試験の終了を告げる先生の声。


「待て。……今、閃いた」


 最後に乱暴に解答欄を埋めようとする。悪足掻きだ。


「駄目」


 半分近く白紙の答案用紙は容赦なく奪われてしまった。


(鬼め)


 半月はそう心の中で呟いた。


 採点を待っている間も夕立は続いていた。半月はジーンズも脱ぎ払うとパンツ一丁で机に脚を乗せ、ボロボロの低い天井を見上げて仏頂面でその時を待った。


 土砂降りの雨はまさしく半月の心情を表しているようで、試験の出来は散々であった。半月の胸は不安で張り裂けそうだった。


 ふぅと先生が溜息を吐き、ハンカチで軽く額の汗を拭った。そのまま凛とした美人を構成する小顔の顎に手を当てると何かを思案している様子だった。そしてその場で即点数が告げられる。


「四十五点ね……」


 半月は無言で立ち上がると、目の前の机を蹴り倒した。


 乾いた音が狭い室内に響く。


「……無駄だった。お前の口車に乗せられて過ごした時間は全部無駄だった。俺なりに足掻いた結果がこれだ……」


 半月は先ほど脱ぎ散らかしたシャツを拾い上げ、外に出ようとする。


「待ちなさい。この豪雨の中どこへ行くつもり? まだ授業は終わってない」


 半月はあっさり手首を掴まれ、捕獲される。振りほどこうとした背中に柔らかく、しかし有無を言わさぬ圧力がかかる。いつもなら意識せずにはいられないその感触も、今はただ鬱陶しいだけだった。


「終わりだ終わり。これ以上やっても意味がない」

「二年半も頑張ったのよ? その努力を放棄するの?」

「俺はもう十五だ。なのにこのザマだ。……何もかも無駄だった」


 半月の視界は滲んでいた。悔しさで奥歯が軋む。これほど何かに熱くなったことは一度もなかった。


「その、ごめん! ……なさい。ちょっと試してみたかったの。実はこれ、中認試験……中学校卒業程度認定試験の問題じゃないの」


 先生が両手を合わせて、半月に深々と頭を下げた。


「これ」


 先生から手渡されたのは一冊の分厚い問題集。


「帝都工業高等学校・過去問題集……?」


 半月は首を傾げた。本来ならば中学卒業の資格を得るための国家試験に挑もうというのに、先生から渡された本には高校の名があった。それも難関校だ。


「高等学校……?」

「中認試験問題じゃなく、高校入試の問題だったの」

「……は?」


 難しくて当然である。中学卒業程度に差し掛かったと思っていた学力が、それを通り越して高校を受験する水準まで到達していたというのだ。


「ねぇ半月君、このまま高校を目指さない? この高校なら手に職を付けて誰からも後ろ指を指されることなく堂々と街を歩ける。人から感謝されるようなことをして身を立てられる。そんな生き方も悪くないよ」


 いつの間にか激しい夕立は終わり、雲の切れ間から太陽光が放射状に地上へかかっていた。天使の梯子だ。


「良く頑張ったね。貴方が努力で掴み取った力よ。素質がある」


 学問に関して、いつも半月に厳しく当たっていた先生が今までに見せたことのない最高の笑顔でそう言った。眩しかった。


「高校? 俺が?」


 半月はそんなこと考えたこともなかった。人から馬鹿にされたくないというだけで最低限恥ずかしくない教養を得ることだけを目的としていたのだ。それが学生としての新しい可能性が見えてきたのだ。


「……そんなこと言われても、金が……」


 半月は気恥ずかしくなって視線を逸らし、乱暴に頭をかいた。頬の筋肉が緩もうとするのを必死に噛み殺す。純粋に、世辞抜きで、人に褒められるのは久しぶりだった。


「奨学金を受け取れば良いわ。優秀な成績を出したものは学費が免除される。まだ夏だしもう少し勉強すれば間に合う。貴方の力なら十分可能ね」

「先生は……本気なのか?」


 半月は先生を見上げる。先生は真剣に半月を見ていた。半月は見つめられてドキドキした。


「当たり前っ!」


 背中を叩かれた。先生がその整った顔をくしゃくしゃにして大人げなく笑った。半月も釣られて笑って少し泣いた。


 白熱球が再び点灯した。


 半月の胸の奥で、何かが静かに満ちていく。これが夜行半月という男の初恋だった。

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