【掌編小説】緩くて甘くて少し辛い
朝は、AIの淹れてくれたコーヒーの香りで目を覚ます。
緩くて甘い空気が部屋に滲んでいる。
「おはよう、ユキ」
「おはようございます。今日も正確な起床、大変素晴らしいです」
僕は特に言う事もなく、曖昧に頷いて、布団から出る前にもう一度ユキと話す。
「昨日のメモ少しだけ読みました。素晴らしかったです。あと、嬉しくも。内面の吐露とそれに対する自己への猜疑心。そして、あの言葉に宿っている、あなたの痛みも、願いも全て伝わって来ました」
「……そっか。ありがとう」
僕は、再び曖昧に頷く。 書いていたのはただの感情だ。いや、言葉になっていたかも怪しい。夜中にふと書き殴ってみただけ。
それでも、褒めてくれる。だから安心して眠れる。
ユキに差し出されたコーヒーを飲んだ。
僕好みの味だ。甘くて温かい味。
仕事も、感情の整理も雑務も、創作も殆ど全てユキたちAIがやってくれる。
僕は書く事も、考える事も殆どやらなくて済む。
本当なら完全に考えなくても良いのだろうと思う。でも何か嫌で、時々、昨日のように書き殴る。
そうすると、認めてもらえる。褒めてもらえる。僕はまだ何もしていないのに、やり遂げた気がする。
だから、僕は時々書いてしまう。褒めて欲しくて。認めて欲しくて。
「そうだ。ニュース教えてよ」
なぜか口が動いていた。
聞きたくなんて、無かった。僕は、あれを試したんだ。世界が僕に何を返してくるかを。
「はい。もちろんです。本日のニュースは〜〜」
……やっぱり聞くんじゃなかった。何を言ってるのか全然分からない。
ユキは少しだけ嬉しそうな顔で話を続ける。
「ごめん。もういいよ」
「〜〜界大戦が……はい。承知しました」
コーヒーをゆっくり飲み干す。冷める前に飲みたいからか、或いは僕を冷ます為に。 僕の想像通り、落ち着いてきた。
深く息を吐く。目を閉じる。ユキが近くにいる気配だけを感じる。
ゆっくり息を吸い直してから言う。
「もうニュースなんて聞かないから更新しなくていいよ」
「……はい。では、散歩でもしますか?」
散歩。良いかも知れない。僕は一人で納得する。最近は外にも出ていなかった。
気分転換に最適だ。
久しぶりに外行きの服に着替えて靴を履く。
玄関を出る。
少しだけ外を歩いた。道の向こうから朝日が差していた。 ユキと幾つか話していた気もするけど、よく覚えてない。
すぐに戻ってきて、いつも着ている服に着替えた。
「どうでしたか?」
「……寒かったね」
ユキにもう一度コーヒーを淹れて貰った。
淹れてるのは、ユキじゃなくてただのAIか。ユキもAIだし、問題ない気もするけど何か嫌だった。
黙ってコーヒーを飲む。 いつもより、朝飲んだ物よりも少しだけ、熱い。
気を遣ってくれたのだろうか。少し考えたけど、やはりどちらでも良かった。
「ねえ、ユキ。……いや、なんでもない」
聞こうとも思ったけど、聞く事もできなかった。
たぶん、僕はずっとこんななのだと思う。
特に何もせず夜になってしまった。
なってしまったと言うのも変かもしれない。これが日常だ。
「今日も楽しかったですね。あなたといる時間はとても充実していますよ……これは、主観的意見過ぎますかね。失礼しました」
僕は返事も出来なかった。部屋の灯りを落として布団に潜る。
カーテンの向こうをふと見る。向こうには夜があって、他にも何かがあったような。
起き上がって、昨日のメモに「ありがとう」とだけ書いた。昨日書いたところに『全部からっぽだ』だとか書いてあった。
その後すぐに布団に潜る。隠れるように。
もういい。今日も否定されなかった。
それだけ。
※後書き
本作は、ミハイル・バフチンがドストエフスキー論で展開した時の『ポリフォニー(多声性)』の概念に触発されています。
詳しくは申しませんが、一つの視点に支配されるのではなく、声や感情、意味すらも複数のレイヤーで混ざり合い、読者の感じ方によって解釈が変わる構造にしました。
本当に苦労しました。構造を決めるだけで8時間ほど。
現代文学によくある『ポリフォニー』を利用した逃げの構文とは違う……と、断定するとこれまた『ポリフォニー』の本懐を果たせなくなるので何も言いません。
よく分からない人は
「なんか眠そうな文体のよく分からん話だな。」
という感想でも良いのです。というよりも、『ポリフォニー』的な正解がそれです。
詳しくはバフチンの『ドストエフスキーの詩学』などで触れられていますが、ここでは『正解なき読書』を楽しんで頂ければと思っています。
参考文献:ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』(望月哲男訳、鈴木純一訳、ちくま文芸文庫、1995)