忍者は何人じゃ?
フランスのUBIソフトが派手にやらかした影響で、我が国の歴史に興味を持つ方が増えているようです。
そういう意味では、派手なやらかしも損して得取れの一種とも言えるのでしょうか?
そのような状況の中、女性の忍者、いわゆる「くノ一」が実在したのかという議論もあるようですね。
私が調べた限りでは、忍者の存在はあってもそれが現代に伝わる過程で多くの創作や誇張表現が入り込み、実態とはかけ離れている印象です。
忍者と一括りにしている為に、誤解を招いてしまいそうなのですが、大雑把な分類表現としては他に適切な表現がありません。比喩としては犬と同じです。
犬と一言で表わしても、犬種の多さが豊富なように、忍者と言っても各地で呼び方も特性も違いがあります。
最も有名なのは畿内にいた忍者、伊賀衆と甲賀衆でしょう。次点で相模の風魔、或いは信濃の戸隠でしょうか。忍者を題材にした漫画やラノベもありますので、根来や黒脛も知っている人は知っているでしょう。
このように各地で呼び方が変わりますが、現代に伝わる忍者の伝説は奸、乱波や透波と呼ばれていた存在を統合したような存在です。
多くの者は金銭で雇われ、武士や侍が行わない仕事を請け負っていました。
奸は傭兵集団のような存在で戦がない時は、主君に仕えない野武士や郷士が主体の組織です。戦がない時は山賊海賊湖賊を生業にしていました。戦地では敵の攪乱を任されたようですが、乱取りなどの掠奪行為を優先する場合もあって雇った側が被害を受けることもあったと記録が残っています。ただ、強力な存在でしたので各地に人を派遣していました。歴史的には、後に大名にまで出世する蜂須賀小六正勝が所属していた川並衆がこの奸に分類できるでしょう。
乱波や透波もまた傭兵集団の一種で、奸や忍びの役を受け持つ存在です。普段は野武士や強盗をして生活していたようです。多くは地理に明るく、脚の早い者もいたので、偵察や見張り、使い番としての働きの他、夜討ちなどの奇襲攻撃で道案内もさせていたようです。
忍びは自領、他領に潜入して情報収集と攪乱、放火や刺客としての働きを行っていました。これが現代に伝わる忍者の印象に近いでしょう。
いずれも身分は低く、特に乱波や透波は被差別民も含まれました。金銭で雇われているので武士や侍のように手柄を立てても恩賞に与ることもなく、日陰の存在であったのは変わりありません。
伊賀者の服部半蔵が松平家に仕えていたのは例外的な存在のようです。
幕藩体制に入ると、隠密と呼ばれる存在が全国各地に派遣されました。意外な存在としては松尾芭蕉が挙げられます。奥の細道が陸奥から始まるのも仙台の伊達家を偵察に訪れたからとする説すらあります。松尾芭蕉の足跡は徳川幕府が警戒していた大名への偵察と考えると、身内であるはずの結城松平家にまで警戒していたのでしょう。
この隠密の潜入を阻む為に、薩摩では独特の方言を用いていたとされます。余所者が簡単に潜入できない工夫が、各地の方言に「お国訛り」として残っています。
さて本題の「くノ一」ですが、戦国時代には「歩き巫女」という存在がありました。
歩き巫女は鎌倉時代頃から存在し、甲斐の武田信玄は周辺諸国の情報収集に利用したと言われています。一説には出雲の阿国も歩き巫女の一人とされます。
恐らくはその歩き巫女の事績と忍者の風説が渾然一体となったのが「くノ一」でしょう。
物語で登場するような華々しい活躍をする忍びはほぼ創作です。
実際には庶民として地域社会に溶け込み、誰が忍びの者なのか判然としません。その存在が明るみになるのは、何か下手を打って正体が暴露された時です。
そうなると、命じた者はトカゲの尻尾切りと同じように、忍びの者と無関係を装います。
まさに、死して屍拾う者なしですね。