3-3:悪魔式、見参
どれくらいの時間が経過したのか。
彼方は激しい頭痛と全身の鈍痛にうめき声をあげて意識を取り戻した。未だ衝撃で意識が朦朧とする。一方でようやく天罰が解けたらしく、自然と右手が頭に向かった。
状況はどうなっている。夢生さんは無事なのか。
彼方はうまく力の入らない体に鞭を打ち、まるで鉄の鎧を着せられているかの如く重く感じられる身体を起こした。そして徐々に視界がクリアになってくる。目前に誰かが立っていた。
華奢な足に小さな背中、そしてそこに流れる夜闇のような黒髪。
「夢生さん――」
ぽたりと鮮血が足元に垂れた。夢生が重く肩で息をしていることに気づく。全身から出血しており、気づけばそこら中に血が滴っていた。
「彼方くん、無事でよかった」
振り返った夢生が言う。表情こそ平静を演じているようだったが、額からは出血し、鮮血が通る瞳には色濃く憔悴が見られ、立っているだけで苦しそうだった。
その奥では、今もなお、天使が悠々と宙に君臨している。さらに閉じられていたはずの中央の巨眼が再び見開かれており、輪の壁面にある瞳もほとんどが開眼していた。
そんな......。
その最悪とも呼べる状況に絶望する彼方。
「あいつちょっと無茶苦茶だね」
夢生は意識的に声を明るくしているようだったが、途中で息が絶え絶えになった。
彼方は見た瞬間に理解した。自分が意識を飛ばしてしまった間、夢生は動けない彼方を守るために立ち位置を限定されたうえで戦い続けていたのだ。夢生だけであれば、どうにでもできていた状況だったかもしれない。それなのに、自分のせいで夢生は満身創痍に追い込まれた。すべて自分のせいだ。
俺が気絶なんかしたせいで。
そもそも、天罰にかかったことを忘れて、致命的なミスをしたせいだ。自分がしっかりと光線を後方によけられていれば。自分のせいだ。
彼方が自己嫌悪に陥る中でも、時は流れる。
そして天使は無慈悲にも、再び、核となるひときわ巨大な瞳を明滅させた。
またどでかい光線がくる。
彼方は重い身体を叱咤し、立ち上がった。
「ダメだ、私の後ろに――」
夢生がそれをけん制しようとするが、直後、電源が切れたロボットのようにがくりと力が抜けて地面に手をついてしまう。
「何……」
夢生は荒く漏れ出る息を気力で鎮静化しようと深呼吸するも回復が見られない。
仮想魔術は、魔力を媒介に、自らの脳の演算力を消費してプログラムを書き換える。故に発動すればするほど脳の演算力が漸減し、思考が鈍く遅くなる。そして最後には、五感情報を処理することさえできなくなり、意識を失う。
「夢生さん!」
直後、何かが夢生のスイッチを止めたかのように、夢生の全身が脱力する。そして顔からは一切の表情が抜け落ち、無機質に言葉を読み上げるように言った。
「――演算子、閾値ブレイク。活動限界につき、省電力モードに移行。演算力充電開始。行動不能時間:十分です」
機械的な口調で言い終えるや、首をうなだれるようにして動かなくなった。ゆすってもまるで反応がない。
夢生の瞳からは光が失われていた。それはエデンで消去されたベルが、現実で肉体をグリモアに完全支配された時と同じ。
脳を酷使した夢生は、人間が思考するために必要最低限の演算力を失った。そして生命活動を維持するため、強制的にグリモアによる自動制御下、それもあらゆる行動を禁止し、回復に集中する疑似的な仮死状態へと移行したのだった。
同時に、前方上空の明度が上がっていく。見れば、眼球の前に黄金のエネルギーを凝縮させていた。
残された選択肢はそう多くはない。彼方は意識を失った夢生の前に立ち、右手で銃を持つように形を作った。するとたちまち紫色の光が沸き上がり、銃を形作る。仮想魔術師に与えられし千変万化の杖、オルガノン。
彼方は目を閉じて思い出す。一度、夢生とシンクロし、脳内で直接感じたあの異様な思考を。エデンにて、夢生は彼方のオルガノンを使って仮想魔術師の秘技を使った。それは世界に存在を規定しているプログラムそのものを抹消する黒魔術。あの時、夢生が黒魔術を編み込むにあたって演算した思考が、魔力を通じて密着していた彼方にも流れ込んできていた。それをトレースする。
彼方の脳内に、知りうる限りの死や消滅のイメージが浮かぶ。加えて、夢生は死に対して意味付けをしていた。死とはなんなのか? 死んだとき、そこに意識はあるのか。ただ無があるだけなのか。仮想空間の一つでしかない現実における死、それは何か大きなシステムのうちの一つなのか。仏教では、死者は輪廻転生し新たな生を迎える。その循環が生み出す結果とその目的とは?
巡り巡る思考が一瞬のうちに生まれては立ち消え、そのうちにじわりじわりと黒い瘴気が彼方の全身から溢れ出した。
彼方は瞳を開き、オルガノンを天上の化け物に差し向け、睨み上げる。
悠々と宙に浮遊し、今にも光線を打ち出さんとする天使。無慈悲に光線を浴びせ続け、夢生を瀕死に追い込んだ。
ゾクゾクと心の中に怨嗟の感情が湧き出てくるのを感じる。その憎しみが瘴気に流れを与え、銃口に魔弾となった集約した。
空気がなびく。
彼方は渾身の力で雄たけびを上げ、その勢いのままにオルガノンの引き金を引いた。
刹那、オルガノンの銃口に集約されていた黒い瘴気が四方八方にはじけ飛び、そのまま霧散した。
失敗。
「......そんな」
一呼吸おいて、天使の巨眼に集められた光線が瞬き、大きな光の柱を発射した。
大きい。全身を優に覆い隠す規模。
彼方は壊れたように何度も何度もオルガノンの引き金を引く。
なんでだ、なんでだ、なんでだ!!!
しかしオルガンはうんともすんとも言わず、実際銃口には何も残されていなかった。
莫大な光線が迫る。
彼方の心に絶望と怒りが蔓延する。まるで、世界そのものが結託して自分に逆行して回っているような最低最悪の感覚。何もかもが悪い結果に誘導されていく。すべてが自分を不幸にするために回り、そうなるために動いていたかのような。地獄のような感覚。
嫌だ。ダメだ。ふざけるな。死ねない。夢生さんを守るんだ。
彼方は自らを呪い、そんな自分を生み出した世界を恨み、怒りに叫ぶ。
もう何でもいい。こんな世界、壊れてしまえばいい。こんな世界、ぶち壊してやる。なんでもいいから。全部渡す。全部どうなってもいい。だから、夢生さんだけは!!! このクソみたいな世界が!!!
そうして光線が彼方と夢生を飲み込まんとする、その時だった。
『聞いたゼェ、お前の怒髪天を衝く叛逆の意思をヨ』
何者かの声が脳内に響いた。しゃがれていて力強い、ドスの効いた声。
ドクン。
脳に波が立った。途端に意識が霞み、視界はぼやけ、あらゆる五感が遠ざかったように感じた。
その最中、不思議にも脳に仮想魔術を編む特有の重力負荷がかかる。同時に、身体が勝手に、今までにないほどに力強く動き出した。
特大の光線が迫る中、彼方の身体に高速で練り上げられた肉体強化の仮想魔術が適用され、身体の要所が瞬間的に作り替えられる。否や、彼方はすぐ背後で座り込む夢生を抱き上げ、ありえない高さまで斜め横方向に飛び上がった。
肉薄していた光線がギリギリのところで足裏を焼き払う。しかし大きく負傷することなく飛翔し、瞬く間に光線の射程から外れる。背後で爆風が発生し、追い風となって一層高く飛び上がった。
風が顔を叩く。
意識がようやく鮮明になり、彼方は気づいたら自分が夢生を抱きかかえて宙に飛び上がっていたように錯覚する。
一体何が起きているんだ。
内心で混乱する中、そのリアクションは一切体には反映されない。それどころか、勝手に、意図することなく、ニヤりと口元が緩んだ。爆風混じり風がたなびく中、今度は肉声で、謎の主がどこか興奮したよううに言った。
「何千年ぶりダァ? 娑婆の身体は最高だゼ。ヒャッハー!」
自分の声が自分ではない口調で話す。身体が一切動かせない。
地面に軽やかに着地した彼方は、その場に夢生を寝かせてみせる。その最中、彼方は内心で恐る恐る問いかけていた。
『お前は誰だ……!!』
彼方にとって、すべての行動は関知しないことであった。すべて意図しない形で体が勝手に動いて引き起こされた。しかし彼方はそれを経験している。自分の意思が断絶され、肉体に届かない。まるで自分は肉体という檻に閉じ込められたかのような感覚――AI監獄。
「俺様かァ?」
夢生を床に降ろし、天使に向き直る彼方の身体。
そしてその肉体を操る何者かが、ニヤりとほほ笑み、その名を告げた。
「悪魔式魔導頭脳ルシファー、お前にインストールされた特注人造AI、見参だァ」
彼方の脳裏に夢生の言葉が蘇る。
『宿主特有の脳波や思考回路の特性によって、極稀に人格を持つグリモアが現れるという』
まさかこれが。
『お前もグリモアなのか? なぜ今まで出てこなかった?』
「俺様は悪魔式だからなぁ、そう簡単には覚醒しない。だがマスター、あんたの覇動が俺様を起こした。世界を変えてえって願う強ぇ想いがな」
言いながら、ルシファーは意気揚々と準備運動をするかのように首や肩を回し、そのたびにゴキゴキと骨や筋肉を鳴らした。
『ルシファー、お前の目的はなんだ? グリモアってそもそも何のために存在して、なんのために俺たちの身体を乗っ取るんだよ』
必死に問いかける彼方に対して、ルシファーは片眼を閉じてうざったそうに言う。
「頭ン中であんまし喚かないでくれよなぁ、響くんだから」
それから手足を伸ばしたりしてストレッチをしながら続けた。
「俺様だってグリモアだ。あらかじめ設定された情報とマスターの頭の中にある情報しか知らないよ。ただひとつ言えること。俺の目的は、末永く生き残って娑婆の空気を満喫することだぜェ」
否や、再び脳内に重力負荷がかかり、ルシファーが走り出す。
彼方は注意散漫で気づかなかったが、天使が次なる攻撃に転じており、二本の光線が射出されていた。
「ほら、マスター。ちったぁ黙って、演算力の無駄遣いはやめな。俺様の特殊能力を見せてやる」
ルシファーはいつの間に手にした銃形のオルガノンを向け、差し迫る光線に魔弾を打ち出す。着弾するや、光線が内側に爆ぜて消失した。それは先ほど夢生がやってのけたことと全く同じ。
「ったく、まだマスターの熟練度じゃ、どんなに頑張っても同時に二発が限界だなぁ」
夢生は六発同時だったとはいえ、それでも彼方は夢生がどのような改変を実行したのか、見当さえつかなかった。にもかかわらず、どういうわけか、ルシファーはそれをいとも簡単に成し遂げた。
「俺様は、一度見た仮想魔術をコピーできる。一度見た、というかマスターの記憶の中にある仮想魔術だ。まぁそれも、マスターの演算力の制約以内、かつ記憶が薄れるごとにその精度は落ちるがなぁ」
さらに重要なことに、ルシファーが仮想魔術を発動した途端、彼方は光線が内側に爆ぜた原因、そしてルシファーがどんな仮想魔術を行使したのか、そのすべて把握することができていた。
『お前の思考が勝手に俺の中に……』
それは極めて奇妙な感覚だった。まるで数学の難問の解法が脳内にインストールされたような。
「そりゃ、同じ脳みそ使ってんだ、当然だろう。俺がコピーした仮想魔術は、マスターにも継承されるわけヨ」
『それって、つまり』
「ああ、マスターは俺様がいる限り、理論上あらゆる仮想魔術をコピーできる。悪魔式も悪くないだろう?」
得意げに言うルシファー。
光線を相殺したルシファーはそのまま走り続けていた。再び、天使が光線を打ち込んでくる。今度は多い、一度に10本! しかし気のせいか、それぞれの光線の規模がか細くなっていた。
「向こうさんも疲れてやがル。後ろの姉ちゃんが頑張ってくれたおかげだなァ」
脳を共有しているルシファーは、彼方の思考をそのまま感じ取ることができる。
だが同時に再びの地響きが鳴り始める。
――ドドドドドドドドドドドドドド。
天罰。
全身の筋線維や骨格、そして体内に潜む微生物に仮想魔術を実行し、肉体強化を行っていたルシファー。その継続的な改変行為が天罰の対象となったのだ。
「チッ」
ルシファーは舌打ちをしながらも、可能な限り天使との距離を詰めるべく走り続ける。
『おい、術を解け! また身体を動かせなくなるぞ!』
「まだイケる。ギリギリまで突っ走るぜェ! チキンレースだァ!」
彼方が内心で叫んでも走り続ける。
その間、巨大生物の大群が押し寄せるような地響きが徐々に大きくなっていく。最初は遠くから迫ってきているような足音が徐々に徐々に近づき、最後にはまるで全身を何かに揺らされているように視界全体が揺れ始めるのだ。
正面からは光線も迫ってきていた。
「ここだッ!」
言うや、肉体強化の仮想魔術が解かれ、全身がぐっと重量を帯び、動きが途端に鈍くなる。だが同時に、背景から地響きが嘘のように消える。視界の揺れもなくなった。
ルシファーはそのまま急ブレーキをかけるように、右足を横向きに突き出してダッシュを止めていく。
また同時に、脳内に新たな仮想魔術を編み出す思考負荷がかかる。脳内で流動体が高速回転し、重力のような嫌な負荷が生じた。
そして猛ダッシュの勢いが消えて光線が肉薄した瞬間、ルシファーは両の手のひらを地面を突き出した。
足元の地面が蠢く。
しかし光線は目前。
当たる。
彼方が目を閉じたくなったその瞬間、足元の地面が隆起し彼方の身体を上空に押し上げた。
光線はギリギリまで引き付けたことでホーミングせず、そのまま隆起した壁に突撃して立ち消える。相殺。
隆起した足場はその勢いのまま彼方の身体を前方に投げ出し、直後、明滅する。そして半透明になったかと思えば、次の瞬間にはまるで幽霊が姿を消すように跡形もなく立ち消えた。上空から地面を見れば、元通りデフォルト状態の地面に復元されている。
それは現実を含むあらゆる仮想空間に備えられている単純な自己修復機能。ほんの数秒、一時的に発生した改変はバグとみなされ、自動的に世界が記憶しているデフォルトの姿に修復・復元されるのだ。仮想魔術は永続しない、不完全な魔法だ。魔力を流し続けることで強制的に非デフォルトの改変状態を継続させることはできても、手放しに永続的な改変をすることは叶わない。
しかしこれで天罰の審判から逃れた。
ルシファーは上空で新たな仮想魔術を練り上げる。刹那、彼方の脳裏にとある情景が投影された。
金色の髪をはためかせる少女。宙にか細い手を差し出せば、五本指のそれぞれに円形の幾何学模様が浮かびあがり、それらが手のひらの中心に三次元の立体構造を投影する。手首と指の動きが器用に連動して、手のひらに出現する空間図形を次々に変容させた。最後に手のひらを閉じたかと思えば、もう片方の手に収められていた銃形のオルガノンに手をかざし、銃口部分を握って引き延ばすしぐさで腕を振りぬいた。否や、銃は箒に成り代わり、ベルは得意げな表情で跨ってこう言ったのだ。
「「飛ばすゼ」」
彼方の記憶を参照したルシファーが、ベルと同じ手つきで立体図形を操り、オルガノンを瞬く間に箒に変容させた。
『モードチェンジ、《箒形》』
脳内にルシファーの声が響き、箒が彼方の身体を支える。そして超スピードで宙を駆けた。うねるように縦横無尽に走り、見る見る天使との距離が縮まっていく。
空気圧が増幅し、一秒が引き延ばされていく中、脳内にルシファーの声が響いた。
『マスター、さっき俺様が起きる直前、マジで死ぬかと思ったろ』
ルシファーが想起させたのか、一瞬だけ、数分前の記憶がフラッシュバックする。天使のひときわ巨大な瞳から放たれた大光線が迫り、迎え撃つために捨て身で発動させた黒魔術が不発に終わったあの瞬間。確かに彼方は『死』を直感した。あの時、死を人生で初めて認識し、死と向き合った。そして死線を超えたのだ。
『それだァ!!』
否や、彼方の全身に黒の瘴気が迸る。
フラッシュバックから戻ってみれば、天使との彼我の距離はもうすぐそこまで縮まっていた。
天使の全身の瞳が明滅している。
刹那、瞳から糸のように細い光線が放たれ、それぞれが連結していく。そして作り出されたのは、光の盾。
「全部丸ごと消去だァッ!!!」
ルシファーが吠え、箒から飛び上がる。いつの間に錬成されたのか、右の手のひらには空間図形が出現しており、それを握りつぶし、箒にかざす。
『モードチェンジ、《剣形》』
瞬間的に箒が刀剣となる。
顔の前で横に構えるや、全身の瘴気が刃に流れ、黒炎が煌めいた。
彼方は脳を共有するルシファーの思考とシンクロし、魂で叫ぶ。
『「黒魔術(ブラック=スペース)!!!』」
その叫びに呼応して、ルシファーが吠えながら刀を振り下ろした。全身のバネを利用した渾身の一撃。
――キッィィィィィィィィイイイイイイン
黄金に輝く半透明の盾に黒炎の刃が叩きつけられ、明度の高い火花が散る。天使の無数にある眼球からは光線が迸り、盾は常に新しいエネルギーで黒炎を受け続けた。
一瞬の拮抗。
「『ウぉオおおォオおおオ!!!」』
一体化した彼方とルシファーの怒号が刀剣をめり込ませる。
そして次の瞬間、黄金の盾に亀裂が走る。否や、まるで溝に流れる水流のように黒炎が亀裂を伝い、盾の表面に無数の線形を描き、そこから全面を焼き払う。さらに、炎の魔の手は光線を伝って天使の眼球に至り、それを焦がした。
天使の全身から耳をつんざく、叫び声とも呼べない奇声。眼球は苦しみをあらわに左右上下に暴れまわった。
ルシファーはそのままの勢いで、天使の中心に鎮座している心臓部分、ひときわ大きな巨眼に降りかかろうとする。
しかしその巨眼の光彩が、一瞬、あざ笑うかのように大きくなった。
同時に、視界の隅で彼方はそれを捉えた。
たった一つだけ、四輪の側面にある眼球が燃えていない。光の盾に使われずに残されている。
それがまるで死に際の力をすべて振り絞るように明滅する。そして一際濃度の高い光線を打ち出したのだ。だがそれは彼方の身体を狙わず、そのまま前方に発せられた。彼方の後方、夢生のいる方へ。
瞬間、彼方の心臓が握りつぶされそうに冷たくなる。
――こいつ……!!!
『ダメだ、ルシファー、後ろだ!!!!』
彼方が内心で叫び、確かに、その思考を読んだルシファーも視線を後方へ向かう光線に流した。
彼方は反射的に自分の意図が伝わったことを読み取り安堵する。
しかしルシファーは、一切の躊躇なく視線を再び正面の巨眼に引き戻した。ルシファーは目の前の敵を見る。そしてそのまま黒炎纏う刀剣を振りかぶった。
『すまねェ姉ちゃん、生存最優先ダ』
彼方はその機微を察知し、再び内心で叫んだ。しかし今、肉体の主導権はルシファーにある。彼方の意思は信号となって肉体には伝わらない。どう念じても自分の身体は思ったように動かない。まるで肉体という牢獄に閉じ込められたかのように、自分の意思の一切を無視して身体が動いた。
彼方の意思の変化により、刀剣に漂う黒炎が瞬く間に姿を消していく。
ルシファーは歯噛みながらも剣を振りぬく。
裸の刀剣が巨眼の光彩を穿ち、貫いた。黒炎が切っ先に向けて消えていく。しかしすべてが消え失せるその寸前、ギリギリのところで揺蕩う炎が白目に触れる。
点火。
一滴の黒炎が両断された眼球全体に燃え広がり、苦しみに悶えた。
『いっちょ上がりィ』
剣を振り抜き、背後で天使が炎上しながら落下していく。
同時に、彼方に肉体の感覚が復帰した。身体を操る主導権がルシファーから彼方に戻されたのだ。
未だ空中にある中、彼方は無理矢理体を反転させ、銃形に戻したオルガノンを差し向ける。その先には既に光線が放たれており、確実に意識不明の夢生を狙っていた。
高速で編み上げた魔弾を射出。流星のごとき速さで空間を滑るように突き進む。
彼方の肉声が響く。
「届けぇええええええ!!!」
遅れて放たれた魔弾は光線を追いかけ、徐々に距離を縮め追いつかんとする。しかしその差を埋めるにはあまりに天使と夢生の距離が近すぎた。
地面に横たわる夢生に光線が迫った。
彼方の脳裏に、ベテラン仮想魔術師・黒熊の死にゆく様がフラッシュバックする。男の体躯は片足と片腕が欠損し、大きな背中には大穴が開かれていた。あれは間違いなく、この光線によって受けた損傷だ。全身から血が流れ、回復不能となり、苦しみの中死んでいった。それだけの威力が光線にはある。もし身動きの取れない夢生が、もろにそれを受けたら。
俺が夢生を死なせるのか。
彼方の中に圧倒的な絶望と恐怖が立ち込める。
夢生さんは自分一人ならどうにでもなった状況で、満身創痍になっても俺を守り続けた。それなのに俺は何もできず諦め、ルシファーに肉体を乗っ取られることを許した。それを受け入れるだけでなく、あまつさえどこかで安堵していたんだ。その結果、ルシファーは天使を殺すことを優先し、夢生を守ることを捨てた。それは俺が許したことだ。俺はそもそも、グリモアを受け入れるべきじゃなかったんだ。
瞳から涙が流れ、彼方は決して届くことのない手を伸ばし、慟哭した。
「夢生さああああああああああああん!!!」
光線が無気力に寝転ぶ少女に肉薄したその刹那、少女の瞳が見開かれる。
光線が着弾し爆風と砂煙。
彼方は受け身すら取れず、堅い地面に不時着する。見れば、光線が着弾した場所は無残にも焼け焦げ、煙が立っている。周囲に夢生の姿は見られなかった。
細切れに崩壊し、燃え盛り墜落する天使を背景に、全身に鈍い痛みが走る中、彼方は自分の頭を握りつぶすように掴んだ。
「ふざけるなルシファー……お前……こうなることをわかった上で…….」
『あそこで仕留めなければ、俺様とマスターの生存確率はほぼ0になった。生存、最優先ダ』
「俺の身体だ!!! 生きるも死ぬも、何を優先するも俺が決める!!」
『違うなァ、マスター。あんたは俺様に肉体を託した。願ったはずだ、どうにかしろって。どうにかしてみせたじゃねェか、んナァ? これからも仲良くやっていこうゼ。俺様はマスターの頭脳なんだからよォ』
「るせぇ!! 夢生さんが死んだら、何にも意味ねえんだよ!!!!」
あたりには、焦げきった天使の羽根が炭を散らして降ってくる。
能天気なルシファーの言葉に、彼方の両手が一層強く握られる。爪が皮膚に食い込み、拳が震えた。彼方はやるせなさと、望んでいない結末、決して思い通りにならない世界への怒りに飲まれた。
「お前なんか、どうでもいい。これは俺の身体で、俺の人生だ。死ね」
脳内にいるルシファーに怨嗟し、彼方は地面をにらみつける。そして歯を食いしばり、一思いに全力で地面に頭突きせんとする。
『お前ッ!!』
ルシファーの焦った声が響く中、彼方はなんとしても体の動きを止められないように全力で地面に目掛けて頭を叩き下ろした。
地面にぶつかる直前、かすかに紫色の淡い光が点る。そして頭突きすれば、地面がまるでプリンのように収縮し、彼方の頭はそこに埋もれた。
予想外の衝撃に肩透かしを食らう彼方。その耳に、ほほ笑みを甘美な蜜に変えて音に溶かしたような声が軽やかに響く。
「ぎりちょんセーフっ。まったく彼方くんは早とちりなんだから~」
彼方は弾かれるように顔を上げ、そのほうを見上げた。
「夢生さん……?」
彼方は信じられないといったようにその名前を漏らす。
そこには夢生がいつも通りの笑みを浮かべて立っていた。右手にはオルガノンが握られ、つい今しがた急激に液状化した地面に向けられており、どうやら仮想魔術を行使したようだった。
「うん、夢生はここにいるよ」
頷くや、夢生は穏やかに笑み、歩を進める。彼方の前に来ると膝を下ろした。そして未だ思考がフリーズし、ほうけている彼方の頭をゆっくりと撫でる。
「よく頑張ったね。すごいね。彼方くん、天使を倒しちゃったよ」
彼方のほほに、はらりと不意に涙が流れる。
夢生はそれを慈しむように見るや、撫でていた手を頬に下ろして指で優しく拭った。
彼方の唇が震え、枯れた声が響く。
「夢生さん、俺、夢生さんを守れなかったよ。ずっと守ってくれてたのに。俺が守らなきゃいけないときに、俺は祈ることしかできなかった。あなたを、失くしてしまったかと思った」
彼方の瞳から涙がぼろぼろと溢れ出て、夢生のか細い指ではせき止められなくなる。夢生は転んで泣きだす子供でも見るかのように平和に笑い、彼方を抱きしめた。
耳元で夢生の声が響く。頭の中の深いところに直接言葉が溶けていき、瞬く間に心が落ち着いていく。
「彼方くんの声、ちゃんと聞こえてたよ。それで私、目を覚ましたんだ。彼方くんの想いが私を救った。だから何もできなかったなんて全然違うよ。彼方くんはちゃんと私を守ってくれたし、私をいじめた天使を倒してくれた。私のためにすべてを賭けてくれた。そうでしょ」
彼方は触れてみると思ったよりもずっと小さなか夢生の背中を力いっぱいに抱きしめる。
二人は互いの存在を確かめるように何も言わず、ただ手のひらいっぱいで身体に触れ、抱き合った。少しの沈黙の後、二人は再び互いの瞳を合わせる。
彼方の目からはもう涙はこぼれてこなかった。
夢生はそれを確認するや、木漏れ日のように優しく微笑み、立ち上がって彼方に手を差し出す。
「よし、それじゃあ私たちがここに来た当初の目的を果たそうか」
言うや、夢生が視線を後方にそらす。夢生の手を借りて立ち上がった彼方もそのほうを見れば、黒炎によって焼き払われた天使の残骸の中心に、何か異質なものがある。それはノートだ。青白く異質な輝きを放つノートが無造作に置かれていた。
ほとんど燃えカスとなっていた天使の残骸を避けながらそのノートに近づき、夢生に促された彼方がそれを拾い上げた。
それに触れた瞬間、視界の右上の隅に通知が現れる。
――【天使の手記】入手。
同時に、その利用方法が脳にインプットされる。瞬時にして、彼方は天使の手記の力とその使い方を把握した。
その不思議な体験を予期していたように、夢生が問いかける。
「どう? 変な気分でしょ。昔読んだ本の結末をふと思い出したみたいにさ、全部わかっちゃう」
「はい、ずっと昔から知ってたことみたいです」
加えて、彼方は脳にインプットされた基本情報から付随して、とあることを理解した。
「それに今更になってしまいますけど、ひとつ謎が解けました」
怪訝な顔をする夢生。
「謎?」
「黒熊が、どうして今まで天使に遭遇することがなかったか。どうやらこの天使の手記は、誰かを消去した人にしか使えない。そしてだからこそ、誰かを消した人の前にしか天使は現れない、ということだったようです」
「確かに黒熊は相棒を第三者に消去された。でもどういう理由で?」
「この手記は、消去した者のオルガノンのログから消去した人間のプログラムを復元し、仮想空間のメインサーバーに転写するんです。そうすることで再び人の存在を復元できる」
「ということは、黒熊は相方を消した仇をここに連れてきて、その上で天使を倒さなければならなかったということだね」
「黒熊は、やっぱり現実で死んだってことですよね」
夢生は神妙な表情で頷く。
「ここは紛れもなく現実サーバーの中だ。残念だけど。社会では、死体も出ないまま永久に行方不明として扱われることになるだろうね」
彼方はフロア後方に視線を流す。そこには未だ消えずに残されている遺体。デジタルなゲームの世界なら死んでもやり直すことができる。エデンでも、デスペナルティを経て生き返ることができる。死を超えた消去でさえ、天使の手記を使えば、その存在を復元することができる。でもこの現実という世界の死は、改変することができないようだ。
彼方は現実という世界に不条理を感じ生きてきた。どうして、この世界は今あるように作られたのか。なぜ都合よく苦しみのない、喜びと安らぎだけの世界として作られなかったのか。苦痛や苦悩には一体どんな存在意義があるのか。
隣にいる夢生を見る。もう少しで本当に夢生は死ぬところだった。黒熊のように、夢生もフロアに横たわっていたかもしれないのだ。今夢生と歩けることは奇跡だ。もう次はない。もう二度と、夢生を危険にさらしてはならない。責任は自分にある。そうさせない使命もまた自分のものだ。
彼方は決意を新たに、黒熊の遺体から視線を戻した。
「ベルのところに行きましょう」
「うん。でもどうやって戻ろうか」
「それなら心配ありません」
彼方は天使の手記を手にした時、ダンジョンから脱出する知識もまた獲得していた。
銃を握るように右手を形作り、オルガノンを呼び出す。そして天井に向け、一撃、脳内にインプットされていたゴスペルを埋め込んで魔弾を放った。
紫色の光弾が白亜の天井に着弾するや、天井が蓋を開けるように開かれていく。その先にあるのは純粋な黒の世界。フロアを囲っていた四方の壁も支外側へと倒れ、辺りは一切の無となった。しかし不意に、空間全体が明滅する。そしてジリジリとグリッチを帯びるや、次の瞬間、そこは元いたバチカン図書館の大部屋に戻っていた。
その後、二人は図書館を抜け、すぐにエデンに向かった。一秒でも早く、ベルを牢獄から解放したいという思いがあったからだ。
二人は図書館のすぐ外、人目のつかない裏道に入り、速やかに光弾で自らの頭を打ちぬいた。