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ゴスペル・グリッチ  作者: 元木トゥナ
2/12

1-2:AI魔女の誘い

11月2()0()()10時23分。


彼方は闇の中で目を覚ました。熟睡から目覚めた時のように視界がぼやけている。身体は質量のない水に浮いてあてもなく漂っているよう。次第に朦朧としていた意識が覚醒していき、黒しかないその空間にも遠くのほうに光の点が無数にあることに気がつく。また反対側を見てみればそこにはひときわ強い輝き。目を凝らせば、それは見覚えのある青と緑でできた球体、地球惑星そのものではないか。そこは宇宙を模した仮想空間、死者が彷徨う《死の回廊》。肉体の再構成が完了するまでの間、意識はそこに滞留する。


寝起きのような鈍い頭の中、彼方は自分が未だエデンの中にいるという状況を遅れて把握する。


負けてしまった。


夢生の笑顔が脳裏に浮かぶ。ひとまず夢生にチャットしようと視界隅にあるメニュー表示に触れようとした。しかしそこで視界に入った日付表示が彼方の動きを引き止めた。


2050年11月2()0()()


時刻だけでなく西暦と日付まで入っていることに違和感を覚えていたが、その表示が明らかにおかしい。夢生と待ち合わせてエデン・オンラインにログインしたのは1()7()()だったはずだ。それが20日を示している。ログインから3日近く経過している。もしそれが本当なら、金曜日の昼過ぎにログインしたことを考えれば今はもう月曜日の午前中、既に学校の授業が始まっている時間だということになる。


バグに違いない。


彼方は妙に長い間眠った後のような気だるい感覚を感じて、うっすらと冷たい焦燥感を覚えながらメニュー表示をタップする。


『デスペナルティ・蘇生完了まで残り3時間14分』


「ログアウトだってば」


すると、その声を聞いたかのように脳内にAI(グリモア)のアナウンスが入る。


『ログアウト並びに()()()()に移行します』


記憶同期という理解できない言葉があったが、ひとまずログアウトが始まるようで安堵する。

まるで魂が肉体から抜け出ていくような感覚を味わいながら、視界が薄れていき、やがて真っ暗になる。次いで、遠くから世界そのものが自分に向かって近づいてくるように、徐々に物音が聞こえてきた。


エデンへはいつものように自室のベッドから、VRヘッドギアを装着してログインした。なので当然、目覚めて最初に目に入るのは自室の天井で、誰もいない冷たい静けさに包まれた一室にいるはずだ。しかしどうしてか、どこか聞き慣れた誰かの声が耳に入ってくる。ゆっくりと遠くから近づいていくるように徐々に音がはっきりしていく。


「――であるからして、この方程式の解はこのようになるわけです。では次に演習で......」


毎週耳にする数学教師の声。しかし、なぜ?

そして、生まれ落ちた赤児が瞳を開け世界を始めて見るかのように、ログアウトした彼方は現実の肉体で覚醒した。


心臓が高鳴る。

鳥肌が全身を覆う。

目が見開かれ、驚愕の声が不意に漏れた。


電子黒板を指差す数学の教師と目があう。数学教師は首をかしげて言った。


「なんだ、相田。そんな驚いた顔して。今の例題わからなかったのか?」


彼方は混乱していた。状況を理解するために慌てて周囲を見回す。そこは明らかに自室ではない。見慣れた制服を着たクラスメイトたちが、等間隔で並べられたカーボン製の席に座っている。机には電子モニターが並べられ、校章のマークが彫り込まれたタッチペンを皆一様に握り、挙動不審になっている自分に視線を向けていた。状況を受け入れられず、ヘッドギアを外そうと頭に手を伸ばすが、指に触れるのは母親譲りに直毛な頭髪のみだった。


刹那、脳にアナウンスが走る。


『記憶同期、開始』


それはエデン世界でのみ起こるはずのAI(グリモア)のアナウンス。仮想空間に入り、そのシステムの一部として受け入れていた現象。それを仮想空間の外側で、VRヘッドセットの装着なしに聞いている。


混乱が閾値を超え、取り乱しそうになった瞬間、それは起こった。


走馬灯。


身に覚えのない一連のシーンがまるで映画を早送りで見るかのように脳内に流れこんできた。いや、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚、五感すべての情報が揃っていることを考えると、映画とは言えない。それはもっと自分視点の、自分が体験していない記憶の追体験だった。


――自室のベッドで目を開けて、見慣れた天井を見る。VRヘッドセットを着脱して起き上がり、学校の制服を着て身支度を整える。家の鍵を閉めて外へ出て、いつものようにコンビニに寄ってしゃけおにぎりと唐揚げを買い、登校する。真面目に授業を受けて、誰にも声をかけられないまままっすぐに家に帰宅し、コーヒーを淹れる。ここまではいつも通りだ。しかしその後、何を思ったのか、ひたすら勉強をした。その後、すぐに就寝。そして休日は勉強とランニング、筋トレを繰り返し、十分な睡眠を取るなど、普段決して自分が選択できない模範的な行動をとり一日を終える。そして今日、月曜日の朝、自分は登校し、授業に参加していた。数学の授業が始まり今に至る、というわけである。


それらは彼方が夢生とエデンで過ごしていた時間に、現実側で彼方の肉体が経験していた出来事の追体験。()()()()()()()()()()()()()()()()AI(グリモア)が、彼方の肉体を使って活動し経験したことの記憶。過去三日分の記憶が、たった今、その肉体に還ってきた彼方の魂と同期されたのだ。


彼方は、刹那とも呼べない極めて短い時間に完了した記憶同期によって、自分がなぜベッドの上ではなく学校の教室にいるのかという経緯を瞬間的に理解した。一方で自分が今、何か極めて異質な事態の渦中にいるということを確信し、心中に恐怖が蔓延する。


しかし彼方は取り乱したり恐怖に叫んだり、助けを求めたりすることはしなかった。いや正確にはできなかった。声が出ないのだ。それどころか、無意識に恐怖に満ち満ちているはずの表情も硬く引き締められ無表情になる。そして震えているはずの声もすんなりと流れ、思ってもない言葉が口から流麗に紡がれた。


「いえ、先生の説明がわかりやすかったのですべて理解できました」


そう彼方の口は動き、肉声が音を発した。表情は柔らかい自然な笑みを作っていた。

しかし内心で彼方は真逆の荒ぶる感情をもって叫ぶ。


そんなこと言ってない! 誰だ!


彼方はそんなことを言おうなどと欠片ほども思っていなかった。


視界に警告表示が現れ、脳内にグリモアの声が流れる。


『秘匿性保持のため、肉体制御を強制的に行使しました。エデン・オンラインに関るすべての情報、及びそれを示唆するプレイヤーの不審行為はすべて拒絶されます。社会に溶け込み、普通の行動を心がけて下さい』


彼方は、無慈悲に淡々と流れたグリモアのアナウンスを前に呆然とする。同時に自分自身の身体を動かせないどころか、自分の意志とは反対の行動を強制されたことで純粋な無力を痛感していた。


何が起きているんだ。


脳内でのやりとりが起こっている間にも、もちろん現実世界では時が淀みなく進む。

彼方から予想外の返答を受けた教師は苦笑し、怪訝な様子で電子黒板を叩いて言った。


「それなら前に来て、この問題を解いてみろ」


とは言うものの、彼方は未だ放心状態で立ち上がる気など起きない。不自然な沈黙が教室に流れる。否や、鳥肌がたつ。直後、彼方の肉体が自動的に机から立ち上がった。


『秘匿性保持のため、自動運転を実行します』


自己の意志に反して、肉体が動くというのは極めて気色悪い感覚だった。また、グリモアが自分の身体を動かしている間、彼方はその行動に干渉できない。自分の意志は身体に伝達されないよう遮断され、一切の自由を失う。まるで自分の意識が、肉体という監獄に閉じ込められたような、最悪の気分だった。だから彼方は自由を取り戻すため、冷静を装い、その状況が求めているように歩き、電子黒板に向かおうと意識を体の動きにトレースさせた。否や、身体を縛っていた不可視の拘束が消え去る。彼方の思考を常時読み取っているグリモアが自動運転を解除したのだ。


クラスメイトからの視線を感じつつ、堂々と歩を進める。電子黒板を見てみれば、そこに表示されているのは超難解大学の入試問題からの抜粋で、とても瞬時に解ける内容ではなかった。そもそも混乱状態で問題文すらまともに頭に入ってこない。


どうしたものか。彼方は夢生とゲームに執着していたせいで度々授業中に居眠りをしていた。それ故か、絶好のチャンスとばかりにこの嫌がらせだ。解けないものは解けないので、正直にわからないと言ってしまおうと口を開いたその時だった。


視界に広がる問題文に一瞬、スキャンのような赤い点線が走る。直後、脳内に軽い重力のような負荷がかかったと思えば、問題文直下に仮想的に解法が展開・表示された。


『解答を算出。肉体の自動制御で書き出すことも可能です』


グリモアが彼方の脳の演算能力を使い、その答えを視界に表示させたのだ。そしてご丁寧に、もし面倒なら身体を自動で動かして電子黒板に書いてもくれるとの申し出まで。もちろんそれが見えているのはグリモアを脳みそにインストールされた彼方だけである。

傍から見れば難問を前にクラス中の注目を浴びてどうしようもなくなっている彼方に、教師が気持ちよさそうに声をかける。


「授業時間も有限だからな、できなさそうだったら言ってくれ」


彼方は適当に謝って席に戻ろうと考えていた。そうやって自分が少し恥をかくのが一番楽だし無駄が少ない。だがこの時、彼方は訳の分からない異常事態の中で、自分の脳に寄生しているグリモアを試したいと思った。ため息を吐き、脱力し、脳内でぽつりとつぶやく。


『わかった。解答してくれ』


否や、考えてもいないのに勝手に身体が動き出した。流れるようにごく自然に腕が式を書き出していく。腕が届かないところまで式を書くと、足が電子黒板に沿って横歩きし、目線の下まで式を書くと、腰を曲げて続きを書いていく。すべてが自然な動きだった。

途中、試しに動きをへんてこな格好に捻じ曲げてみようと試したが、まるで鉄格子に嵌め込まれたように身体は堅く動かず、完全に肉体の支配を奪われていることを再確認する。恐ろしい感覚だった。もしかしたら自分はこの檻の中から一生出られないのではないか。自分の体はグリモアに奪われ、この先ずっと誰にも気づかれず、自分の体の中に閉じ込められたままなのではないか、と戦慄した。

しかし彼方の身体が迷いなく解を導き出し、最終的な解答を強調する下線を引き終えた途端、すべての自由が戻った。まるで何もなかったかのように、すべてが元に戻った。

彼方は泡を吹いたような顔の教師に振り返り、踵を返した。


「確かに簡単っすね」


内心、心臓がバクバク鼓動している中、自分の机に戻っていく。クラス中が軽くざわめき、時折、教師に一泡吹かせた彼方を褒め称える言葉が耳に入った。教師は食いつくように解答を添削し、ケチをつけられる箇所がない完璧な解答に渋々丸をつけるのだった。


その後、教師が突っかかってくることはなく、授業は何事もなく終わった。彼方は続く休憩時間や他の授業の中でグリモアを何度か試し、その性質について実験を繰り返した。わかったことといえば、グリモアは基本的に身体の自由を奪おうと敵対してくることはない。しかし、エデンやその異常について他者に伝達しようとすると、その方法にかかわらず、悪だくみをした瞬間、即座に身体のあらゆる自由を奪い、その動きを確実に封じてくる。具体的には、他者に伝えようと発想した時点でその思考を感知し、筆記、口外、身振り、すべての方法を問わず身体が動かなくなる。また他者から無用の注目を集めるような不自然な挙動が予期されるときも、身体の自由を奪って模範的な行動をとらされた。


また彼方は当然、夢生にも連絡を入れていた。この異常事態はエデンと確実に関わっており、エデンに自分を招待した夢生にも同様の事象が起きているかもしれない。自分と同じように混乱し、下手をすればグリモアに肉体の自由を奪われ続けているのかもしれない。しかし待てどもチャットに既読はつかず、気づけば一日の授業が終わっていた。


もしかしたら、未だエデンの世界に潜り続けているのかもしれない。夢生ならばありえないことではない。


彼方は夢生の安全を確かめるべく、いち早く帰路についた。足早に家に向かう。

ある程度、自分の安全が確保されていることがわかったからか彼方は冷静さを取り戻し、頭の中は夢生のことでいっぱいになっていた。脳裏にあの無垢な笑顔が浮かぶ。もし泣いていたらどうしよう。絶望に浸っているかもしれない。助けたい。今すぐに安心させたい。


そうして人気のない住宅エリアを半ば駆け足で進み、いっそ本格的に走ろうと地面を踏み込んだ、その時だった。


「やっほっ」


不意に、聞き覚えのある声がすぐ近くで響く。風鈴のように涼しげでいて、水飴のように甘く、透き通る声音。


そういえば遠くから歩いて来る中で、制服姿の女子高生が道の壁に寄りかかっていたっけ。夢生と連絡を取ることばかり考えていたせいで気にしていなかった。しかし視界の脇で捉えていた直前の風景が脳裏で薄っすらと蘇り、その風景には自分と彼女以外、誰もいなかったことを思い出させる。彼方は半信半疑ながら足を止めて振り返った。そしてそこに佇む少女と目があった瞬間、彼方の鼓動が高鳴る。


「やっとこっちでも会えたね、彼方くん」


いたずらげに微笑む少女がこちらを見ていた。一番星を閉じ込めたような大きな瞳が彼方の意識を鷲掴みにする。肩にかかるくらいに切りそろえられた黒髪が夕暮れ時の光にまじわるように溶けていた。


彼方は頭が真っ白になり、言葉が出ないまま立ちすくむ。


「ずっと見てたんだよー、向こうからすっごい怖い顔して歩いてくるの」


少女は片側だけ長めに整えられた前髪を耳にかけ、壁を軽く蹴るようにして一歩踏み出した。さらりと艷やかな髪が揺れ、色白の耳を飾っているシルバーのピアスが夕日を反射した。

彼方の脳裏で、エデンで三角帽子を被った夢生の姿と目前の制服姿の少女が重なる。


「夢生さん……!」

「あったりー!」


片目をウィンクするように閉じてピースする。いつもと変わらない、ずっと眩しいと思ってきた無垢な笑みだった。

彼方はすぐにグリモアの危険について話したくなる。しかし夢生の平然とした様子を見るに、夢生にはその危険は迫っていなかったのだと安堵した。


「びっくりしましたよ」

「彼方くんにリアルで会えて超元気だからね。彼方くんは嬉しくないの?」

「嬉しい! です」


そこまで言って、彼方はその先まで話すと再び秘匿性保持のためとグリモアに自由を奪われてしまう可能性に気づき口ごもってしまう。夢生が自分と同じ状況に陥っていないのなら、わざわざ話して巻き込む必要もないわけだ。彼方は話題をそらそうと口を開ける。


「そいうえば、めちゃめちゃチャットしたんですよ。どうして夢生さんはここに」


彼方はヘラヘラと無理に笑顔を作ってそう聞き返す。すると夢生は天使のように柔らかな笑みを浮かべ、何食わぬ顔で何も問題はないかのように平然と言った。


「そんなの決まってるじゃん。こっち側(リアル)でグリモアを使ってみての感想、直接聞きたいなって思って」


彼方の表情から笑みが抜け落ちる。


「え……今なんて……?」


彼方は聞き返す以外に反応する術を持っていなかった。何かの間違いに違いない、と半ば願いを込めながら問う。

しかし夢生は表情ひとつ崩さず、まるで他愛のない、今日の朝食を思い出そうとでもしているかのように首を傾げて言う。


「あれ? もうグリモアに身体を乗っ取られたり、AIアシストで無敵になったり、その他諸々やったんだよね。だって私が今こうしてグリモアのこと話せてるってことは彼方くんがちゃんと仮想魔術師だからで。一般の人にこういうことを話そうとすると、すぐグリモアに干渉されちゃうからね」


その様子を見ながら、彼方の中で重大な前提が崩れていった。夢生は何事においても正しく、その背中を追っていけば間違いはない、そういう正解を体現した人だったはずだ。しかしどういうことか、夢生はエデンによって起きている緊急事態を緊急事態として認識していない。それどころか人生すら道楽とでもいうかのように、この異常を楽しんでいるように聞こえる。

彼方は無意識に一歩、夢生から後ずさってしまう。


「ちょっと待ってください。それじゃあ夢生さんも同じように、この笑えない状況に、グリモアとかいうAIに頭の中を覗かれて挙句の果てに身体の自由を奪われて、いつ乗っ取られてもおかしくない状況だってことですか?」


夢生はさらりと即答する。


「笑えない状況かは微妙だけど、うん、長いことグリモアちゃんにお世話してもらってるよ」


彼方は夢生のあまりに軽い反応に返す言葉が出ない。一方で確認したいことが矢継ぎ早に質問となって口から出ていく。


「夢生さんは、エデンをプレイしたらこういう事態になるってわかった上で俺を誘ったんですか?」

「もちろん」


夢生はきょとんとした表情で即答した。

彼方は気づけば道の反対側の壁まで後ずさって、無意識に夢生に恐怖していた。


それを見た夢生は、一瞬であれ敵意を向けられたと気づき悲しげに微笑を浮かべる。その切ない表情に、彼方は胸が穴が開くような感覚を覚えた。


「あれ、予想外だな」


そう夢生はぽつりと呟くと、ゆっくりと彼方に向かって歩を進めた。彼方の前に来ると慈しむように微笑み、華奢な右手で彼方の頭を撫でる。そして小さな体で彼方を優しく抱きしめた。


「私、喜んでもらえると思ったんだ。彼方くんなら、きっと興奮して、すごいって言ってくれるだろうってそればっかり考えてた。でもそんなわけないね、いくら彼方くんでもそりゃ怖いよね。ごめんね。でも大丈夫だよ、私は本当の君を知ってる。きっと彼方くんなら、この状況を受け入れて楽しめるようになる。だからそれまで、彼方くんが本当の自分に気づくまで、私が守ってあげるから安心して」


夢生の重く響く慈しむような言葉。感情の摩擦が生じているせいで彼方はなかなか処理できない。しかし同時に夢生が真摯に自分を想い、心からの本音を口にしているように感じた。


「夢生さん、どういうことか、ちゃんと説明してください」


少しずつ荒くなっていた息が落ち着いていく。それだけ彼方が夢生と過ごした時間は大きなもので、毎日言葉を交わし憧れてきたその人物との精神的な接続は彼方の中に逆巻く恐怖を鎮めるのに十分だった。


「わかったよ。安心して、私はいつだって彼方くんの味方だから」


彼方が落ち着いたのを感じたか、夢生は両手を解いて密着状態から離れる。そしておもむろに、スカートの中が見えないように潮らしく膝を畳んでその場にしゃがみこむ。見れば、地面に落ちていた小石を拾っていた。それを陶器のような白い手のひらに乗せるや、二、三度、周囲を確認した後、彼方に見せる。


「きっと見たほうが早いから」


どこかで見た光景だと、彼方は思った。

刹那、夢生の手のひらに乗っていた小石が蛍光色じみた閃光を纏い、その形状を変容させていく。黄昏時の夕日を吸い込んでいた鈍い色の肌が、あらゆる光を屈折反射する透明の輝くボディへ。


「そんな……ありえない」


彼方は無自覚に目を見開き、唸っていた。

何の変哲もない小石が、あれよあれよと姿かたちを変え、気づけばダイヤモンドになっていたのだ。それはエデンで最初に夢生が見せた改変の術。紛うことなき、仮想魔術(ゴスペル)だった。

夢生が長いまつげを下に流し、夕日に照らされるダイヤを眺め見る。凪のような穏やかな風が夢生の髪を揺らした。不意に訪れた静謐の中、彼方の心に湧き上がった疑問を夢生の言葉が静かに薙ぎ払う。


「今私たちが立っているこの世界は、エデン・オンラインの中ではないよ。ここは紛れもなく私達が生まれ落ち、育った現実の世界、宇宙空間に漂う地球惑星。でも今ここで、こうして仮想魔術が引き起こしていることもまた事実。その矛盾するような二つの事象が導く、たったひとつの答えは」


その時、脳裏に夢生が常日頃から繰り返していた言葉が蘇る。


『全てを根底から疑ってかかることかな』


「まさか……」


彼方は途端にじわりと手汗を感じる。鼓動が高鳴る。息が再び荒ぶった。しかしそれは恐怖からだけではない。悪寒に近い何か。脳内にあるひとつの仮説が駆け巡り、それがある事実を予感させていた。そして彼方はそれを確かめたいとひそかに興奮もしていた。

夢生と目が合う。その瞳はまるで不老長寿の魔法を見つけた魔女のようにとろりと歪み、興奮に満ち輝いていた。

夢生は自分が説明する前に、彼方が自力で答えにたどり着いたことを察し、嬉しさに笑みをもらす。そして彼方の背中を押すように目配せを送り、深く頷いた。


やってみて、と。


彼方は震える身体を御し、小さく、しかし力強く唱えた。


「――解法(グリモワール)


世界が波打つのが見えた。刹那、その波が目に映る世界の輪郭を二重に切り分ける。そして世界の根底に流れ、万物を作り出しているプログラムを露出させた。視線を合わせると、知の及ばない奇天烈な文字列が幾何学模様と一緒に浮かび上がる。そしてそれが指す意味がグリモアによって即座に脳に解釈されインプットされた。

エデン世界と同じである。その紛れもない事実が指し示すのは、彼方が忌避していた最悪の予感。それが的中したことを味する。


「この世界は、作り物――......」


彼方の声は震えていた。

世界は、現実は、リアルは、プログラムで作られた仮想現実(シミュレーション)だったのである。

夢生の手に乗っていたダイヤモンドが、エデンの世界でそうしたようにほころびを見せて小石に戻っていく。

彼方はその様を、プログラムが修正・復元されていく過程を仮想魔術師の目を通して見ていた。夢生によって改変されたプログラムが世界の基盤システムによってバグとして認識され、リアルタイムで元の記述に修正されていくのだ。ダイヤモンドを構成する奇天烈なゴスペル言語体系文字列が、元の小石のそれに書きなおされていく。夢生が引き起こしたバグを、世界が修復し、復元していった。その様は、彼方がもっていた「現実」の意味合いを根本的に転覆させ、破壊した。


彼方の身体が脱力し、瞳の前に展開されていた幾何学模様のレンズが消失する。よって視界も元通り、彩り豊かな世界に戻る。


目前に佇む夢生は、ニヒルに笑んでいた。


「Hello, World」


夢生と同じ目を通して見る作り物の世界は、これまでどおりリアル、紛れもない現実世界だった。しかし真実を知らされ、現実という認識が破壊された彼方にとって、世界そのものへの見方は今までとは大きく異なるものになっていた。


この世界は誰が、なんのために、いつ、どこで作ったのか。グリモアとは何なのか、どうやって動いているのか。答えようのない疑問などいくらでも湧いてくる。しかしまず彼方が考えていた疑問は、そのどれでもない。それら全てを差し置いて、まず誰かに答えてほしいことはひとつ。許しを請うように、彼方は問うていた。


俺はこの真実を知ってしまって、よかったのだろうか?


しかしそんな疑問を跳ねのけるがごとく、夢生のいつになく生真面目な声が彼方を思考のループから引きずり戻した。


「大事な認識だから、忘れないで」


まっすぐに向けられる重苦しいまでに真剣な夢生のまなざしを前に、彼方は有無を言わさず頷くしかなく、その後に続く言葉を待った。夢生がゆっくりと口を開く。


「仮想魔術師は、世界に叛逆する者たち。気に入らないものは、自分の手で書き換えるんだ。そして不条理のない理想郷を目指す」


見れば、目前では世界で一番美しい魔女が手を差し伸べていた。

彼方は直感的に、その手を取りたいと思った。しかし同時に禁断だと確信する。夢生となら、どこまでも自由に飛んでいける、そうしたいと思っていた。でも、そんなことが許されるわけがない。タブーだ。危険すぎる。間違いなく平穏な人生は歩めなくなる。

しかしそう逡巡しているうちに、夢生のほうから彼方の手をかっさらってしまう。いつものように純真な笑みを顔に貼り付け、そして夕日が沈む方へ、ぐいぐいと小走りに引っ張っていくのだった。


「いっくぞー! いぇーーーい! お祝いだぁーーー!」


夢生は空気を読まないし、誰にも従わない。いつだって空気もルールも作る側だから。ファンキーでクレイジーで、同時に何も知らない生まれたての少女のように無垢だ。それなのに、この世のすべてを知り尽くしている魔女のような顔を持ち合わせている。こんな状況の今だって、まるで何も重大なことなど起きていなかったかのように、すべてゲームの中の作り話だったかのように微笑んでいる。しかし、そうか、と彼方は思った。現実がプログラムでできているのなら、この世界さえもゲームと言えてしまうのかもしれない。

夢生に手を引かれながら、既に思考までもが夢生側に持っていかれていることに気づき、勢いに流されまいと声を上げる。


「ちょっと夢生さん、待ってください!」


今まで夢生と関わってきた数年間、彼方は夢生に手を引かれることを望み続けていた。どこまでも自分が見ることのできない世界に連れて行ってほしいと切望していた。しかしこの瞬間、彼方は初めてその手を振り払っていた。今まで決して逆らうことのなかった、決して疑うことのなかった夢生の手を振り払っていたのだ。


夢生が少し驚いたような、きょとんとした表情で振り返って首をかしげる。

彼方は自分がとった行動に対して動揺を感じながらも、どうしてもこのまま夢生についていくことに同意できなかった。この先に待ち構えているであろう波乱を受け入れられないのだ。


「俺はまだ仮想魔術師になるなんて言ってないです」

「彼方くんはもうなっちゃってるんだよ。もう、こっち側の人間なんだ」

「でも俺の心は、それを受け入れてないんです! 俺は夢生さんとは違う。あなたは俺の憧れで、同じようには生きていけない。俺は平凡な星のもとに生まれた人間なんです」


彼方は自分の声が憐憫を帯び始めたことを自覚し、口を閉じた。

一瞬、周囲の静けさが二人の距離を際立たせる。しかし夢生は、一切の動揺も同情も見せず、再び彼方の手を包み込む。そして少しだけ長く瞬きをしたかと思えば、今までのお茶らけた陽気さを消した真剣なまなざしで口を開いた。


「彼方くんは、人生の意味って考えたことある? なんで生きてるんだろう。なんのためにこの世界はあるんだろう、とか」


彼方は唐突な質問に対し、思い浮かんだことを包み隠さず言葉にした。


「そりゃみんな、幸せになるために生きてるんじゃないですか。だから俺だって、こんな危険な橋は渡りたくないんです。今までみたいな、何かきついことがあっても夢生さんと笑ってゲームして過ごす平穏な人生がいい」


夢生は優しく微笑み、哀愁を含んでいった。


「私も楽しかったよ。彼方くんといろんなゲームをして、馬鹿な事やるのはうんっと楽しかった」


その後、一拍の呼吸を置いて夢生のまなざしが鋭さを帯びる。そして彼方を射るように見た。


「でもね、私、この世界は人間が幸せになるためにあるわけではないと、人生は幸福になるためにあるわけではないと、そう直感しているんだ」


訝しむ彼方に、夢生が言葉を重ねる。


「みんなが幸せを求めて毎日を一生懸命に生きることはすばらしいことだよ。そのために誰かを愛して、愛されるように努力する。一生懸命働いて、人によっては罪を犯してまでお金を稼いで豊かな生活を手に入れようとするんだよね。でもそれは全部、生まれてきてしまった後で取ってつけた、後付けじゃないかな。私たちは誰一人として、幸せを感じるために自ら選んで生まれてきたわけじゃない。大前提として、私たちはこの世界に有無を言わさずに誕生させられている。それは親を選べないとかそういう次元の話ではない。私たち人間が『幸せを感じるために産み落とされたい』と意志をもって誕生したのではなく、この世界によって生きることを勝手に選択され、どういうわけか生かされ続けているんだよ。実際、この地球という星は、あまりに人間に都合よく作られている。人間を生かすために偶然が重なってできたような星だ。語弊のある言い方をすれば、人間はみな人生を強制され、人類文明は存続を強制されているといってもいい。まるで大きなシステムの歯車のようにね。その意味は何か? という命題があるんだよ。だから幸福は人生の副産物であって、生きる意味や人生の目的ではないと思うんだ」


夢生の言論には悲しみや怒りといった感情的な起伏がなかった。極めて慎重に、時折言葉を選んで、まるで難解な数式の解きほぐし説明する牧師のようだった。

彼方は、夢生が伝えんとしていたことをすべて完璧に理解したわけではなかった。しかし現実が仮想空間であるとわかった今、その命題の答えがどれだけ重大な意味をもつのかははっきりと認識していた。だからこそ、彼方はその言論の先にあるであろう真理を尋ねる。


「夢生さんはどうしてこの世界があると、なぜ人間が生を強制されていると思うんですか?」


夢生はすかさず、その薄紅色の唇を開いた。しかし言葉が再び紡がれようとする寸前、夢生は開いた口を閉じ、何か悪だくみを馳せるような表情で笑む。


刹那、夢生は宙に人差し指と中指を持ち上げ、まるでクラシックの指揮者が楽団に合図を送るように鋭く何かを描いた。すると空間が文字通り切り裂かれ、ぺらりと紙がめくられるように削ぎ落とされる。そして驚きで声も出なくなっている彼方をよそに、夢生は美しい手指をためらいもなく謎の空間に突っ込み、その中から何か小さなものを取り出した。それは丸みを帯び、メルヘンチックなデザインをした精巧な作りの鍵。不思議なオーラを放っている。


夢生がそれを無造作に空間に向け手首をひねると、何もなかった空間にドアが出現した。扉は木がこすれるような特有の音を出しながらゆっくりと開き、その奥からは黒く深淵に輝く空間が顔をのぞかせる。夢生は流れうような動作でその中に足を踏み込み、再び彼方に向けて手を差し伸べた。


「その答えは、こっち側にある。どの道、もう彼方くんは仮想魔術師になってしまっているよ。なに、少し旅をするだけさ。その答えを知った上でなお、元の何も知らなかった世界に戻りたいというのなら、そうすることだってできる。その選択肢もまた、こちら側に来ないと得られないけどね」

「それってつまり、AI(グリモア)をアンインストールする方法があるってことですか?」

「その道は険しい。でも、そう言ったつもりだよ」


途端に彼方の中に一筋の希望の光が差す。


「一体、どんなことをすれば」

「グリモアを育成すること」

「グリモアの育成......?」

「機械学習さ。彼方くんが仮想魔術師として学び経験することは、すべて彼方くんの脳で生きるグリモアにフィードバックされる。そしてグリモアが一定のレベルに達した時初めて、アンインストールのコマンドは現れるんだ」

「つまり仮想魔術を学んで強くなればいいということですか。本当ですね?」

「悪魔にだって誓おう。すべての仮想魔術師は選択を迫られる。アンインストールし、真実を忘れて元の生活に戻るか、それともアンインストールのコマンドを自ら(バーン)し、引き換えにエデン第二層への扉を開ける蒼穹の鍵を手にするか。どちらにするかは、その時になってみて彼方くんが決めればいい。彼方くんの自由だよ」


そこまで聞いて彼方は覚悟を決めた。当然、禁断の真実を暴き仮想魔術師となった自分を認めたわけでは全くない。この世界に人が幸せを感じる以外の、崇高な存在意義があるのかどうか、そんな答えは正直知ろうが知りまいが、知った後で忘れてしまっても、幸せを取り戻せるのならどうでもよい。あくまで、幸せな生活を取り戻すために一時的に劇薬を受け入れるだけだ。


彼方は深呼吸をひとつ、目の前で自分に手を差し伸べる麗人を見た。自分はもう、この天使にも悪魔にも見える魅惑の少女によって、何も知らされずに一線を越えてしまった。それでも、まだ一縷の望みがあるというのなら、今までの夢のようだった平穏な日々を、生きる理由を、幸福を取り戻したい。そのためなら何だってやってやる。


彼方は、闇のドアから差し向けられる夢生の手を取り、そして一歩踏み出す。アスファルトを踏み越えて、何もない無の空間を切り裂いてできた異質な空間へ足を踏み入れるのだった。


彼方の手に触れた夢生は、影に隠れながらとろけるように微笑む。そしてその手を、闇の奥へと意気揚々と引いていくのだった。

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