大英帝国の危機
「アラン、大英帝国の危機だ、力を貸してくれ!!」
まるで犯人の家に押し入るような勢いで駆け込んできた警官の友人にアラン神父は呆れ顔で注意した。
「静粛にしたまえレナード。ここは神に救いを求める者たちの祈りの場だ。
血なまぐさい事件の助力は同僚の刑事や探偵に頼むべきだろう」
「固いことを言うんじゃねぇよ。
それに俺だって真実を求めて彷徨う迷える子羊だぜ。とっとと救うように神様に言ってくれ」
「神は全ての者を救う。ただし君のような無神論者は列の最後尾に回されるだろう」
「くたばる寸前に祈りだす悪党より後ろなのかよ。そいつは本当に神様か?」
教会にあるまじき不敬な発言にアランはため息をつきながらたずねる。
「まったく……それで大英帝国の危機とはいったい何があったんだね?」
「殺しだよ。被害者はオリヴァー・スミスって貿易商」
「聞いたことのない名前だ。有名人なのかね」
「いいやまったく。知名度でいったらお前さんの方がよっぽど有名だろうよ知恵の聖人様」
そういってレナードは若く精悍な顔立ちと信徒への厳しくも慈悲深い対応で
ロンドン中の女性を魅了している幼馴染の聖職者をからかう。
「それに有名だったら商売にならんだろうさ。何しろ貿易商は表の顔で本業は情報部のスパイだからな」
「なるほど、それで大英帝国の危機という訳か。現場からなくなったものがあるのだね」
「さすが神父様は鋭いねぇ。
現場からは被害者のカバンと時計、それに財布がなくなっていたんだが
情報部の連中によるとその中にはイギリスの命運を左右する重要な証拠とやらも含まれていたらしい」
「時計と財布がなくなっているのなら物取りの仕業ではないのかね」
「その可能性は限りなくゼロに近いだろうな」
「なぜだね」
「犯行現場はオリヴァーの自宅の裏庭なんだが家は警察署のすぐそばにあるんだよ。
いくらでも獲物がいるなかでこんなリスキーなところで仕事をしようとする物取りはいねぇだろ。
さらにいえばオリヴァーは後頭部を鈍器で打撃されたことで死んでいる。
抵抗の痕跡もなく争いや助けを求める声を聞いた人間もいないから奇襲だったんだろう」
「自宅がらみの強盗事件は静かに「窃盗」しようとしたが被害者に気づかれてやむなくというケースがほとんど。
屋外にいて被害者が気づいていないなら逃げるか隠れたままやりすごすかを選んだはずというのが警察の考えか」
「そういうこと」
「確かに状況を考えると単純な強盗事件の可能性は低いと思うが
限りなくゼロに近いというのは言いすぎではないかね。
土地勘のない余所者なら警察署の場所も知らずに犯行を行ってもおかしくないし
飢えていれば僅かな金銭のために殺人に手を染めてしまうこともある」
「そこがこの事件の奇妙なところでな。
事件が起きてから2週間後に盗まれたものは全て戻ってきたんだよ。
被害者が殺された自宅の裏庭にいつの間にか置かれていたんだ。
余所者だろうが飢えていようがこんなことする強盗はいねぇわな」
「……何だって?」
「訳が分かんねぇだろ」
「ふうむ………それで戻ってきた品物の中にイギリスの命運を左右する証拠とやらはあったのかね」
「あったらしい。国家機密とやらでそれが具体的に何だったのか下っ端の俺は知らされてねぇんだが
確かにその証拠も含めて戻ってきたんだとさ」
「これで一件落着……とはならんだろうね」
「当然だろ。盗んだものを戻したからって殺して奪った罪がチャラになるはずもねぇ。
もっとも情報部は誰が殺したのかよりなぜ証拠が返却されたのかを気にしてるようだけどな」
「レナード、君はどう考える」
「まぁ普通に考えたら取引なんじゃねぇか?
イギリスにとって大事な証拠を返す代わりに別のものを要求する」
「具体的には?」
「大金とか、イギリスが盗んだ他国の弱みとか?」
「しかし誰が返却したのか分からなければ取引のしようがないだろう」
「そこなんだよなぁ」
「戻ってきた荷物の発見者は?」
「アイリーンって名前の被害者の奥さん。まだ若くてかなりの美人だぜ」
「アイリーン……ブロンドで目元にほくろがある?」
「なんだよ知り合いか?」
「あぁ、最近よくこの教会へ礼拝へ来ている。夫の方は見かけたことがないが」
「そりゃそうだろ。貿易商とスパイの二足のわらしで忙しいのに
たまの休みを教会でお祈りなんてそんなもったいない真似できるかよ」
「家に見張りは?」
「情報部が一人つけてたが玄関前だけのチェックだからなぁ。
怪しい人物は出入りしていないってことだが
見張りが一人じゃ夜はもちろん昼間だって穴はいくらでもあったろう。
スパイを暗殺するようなプロなら朝飯前さ」
「自宅の裏庭で殺されたスパイ。一度は消えながら再び姿を現した荷物。なかなかのミステリーだね」
「どうだ、解けそうか?」
「何度も言っているが私はただの神父だ。刑事でも名探偵でもない」
「神父だろうが妊婦だろうが刑事や探偵が手も足も出ない事件を
あっさり解決しちまう頭脳が目の前にあるんだ、使わない手はねぇだろ」
「やれやれ。被害者の経済状況は?」
「亡くなった両親の遺産を受け継ぎ順風満帆な暮らしを送ってたよ。
大金持ちとまではいかないが金持ちには違いねぇ。
情報部での仕事も貴族の責務とやらのためにやってたとか」
「妻の他に家族は?」
「画家の弟がいるが10年以上前にオランダに移住してる。事件には関係ねぇだろ」
「身辺のトラブルについても調査したんだろ」
「ギャンブルもしないし愛人もいない。犯罪歴もないし表と裏どちらの職場でも上手くやってる」
「模範的な英国紳士というわけか。奥さんは夫がスパイだと知っていたのかね」
「いいや。情報部が家に来て真実を伝えた時はあまりのことに倒れかけたらしい」
「無理もない」
「他に聞きたいことは?」
「いいや、十分だ」
「十分?まさかこれっぽちの情報で真実が分かったのか!?」
「これも何度も言ってるだろうレナード。
神ならぬ身に真実など分かるはずがない。
私が組み立てたのはあくまで机上の推論だ。
絶対に正しいなんて自信はないし、まして私の発言を根拠に逮捕などしてもらっても困る。
一人の人間の人生がかかっているんだからね」
「分かってるって。推理はあくまで推理。
それが正しいか立証するのは警察の、つまりは俺の仕事さ」
レナードの言葉にアランは下を向き小さく微笑む。
いくつかの難事件を解決したことで多くの人間が自分を知恵の聖人などと神格化し
警視総監すらその言葉を鵜呑みにする中でも
自分の推理を最も信頼するこの男だけはその推理が正しいかどうかの立証を徹底して怠らない。
だからこそ自分も大勢の人生を左右しかねない推理を託すことが出来るのだ。
「私が考えるにこの事件は栄光のサーベル事件と同種のものだ」
「な、何だって!?栄光のサーベル事件ってあれだろ」
うろたえるレナードに
「そうだ。君が犯人だったあの事件だよ」
アラン神父は厳粛な顔を作り自らの推理を語り始めた。
それから1週間後。
レナードは事件の顛末を知らせるためにアランと共に教会近くのカフェテラスを訪れていた。
「まさかあの美人の奥さんが犯人だったとはなぁ。今でも半分信じられないぜ」
「登場人物や小道具のスケールが大きいからといって事件のスケールまで大きいとは限らない。
栄光のサーベル事件もそうだっただろう?」
「あぁ。あの時は俺が爺ちゃんのサーベルを戦争ごっこに持ち出しただけなのに
サーベルが国王陛下から下賜された家宝だったせいで大騒ぎになったんだったな」
「サーベルという小道具の価値が単純な事件を複雑にしてしまった訳だ。
今回でいえば被害者が持っていた国家機密がサーベルの役割を担った」
「スパイが死んで国家機密が消えたらみんな犯人は敵国の人間だと考えてしまうわな」
「そうした先入観を捨てれば見えてくるのは単純な真相だ。
どうしてスパイとして訓練を受けていたはずのオリヴァー・スミスは無防備に奇襲を受け抵抗も出来ずに殺されたのか。
それは犯人が警戒するような相手ではない身近な人間、自分の妻だったから。
見張りの目があったのに自宅に荷物が戻ったのも不思議でも何でもない。
家の人間なら何も怪しまれることなく荷物を元に戻せるからね」
「しかしアイリーンはどうして荷物を元に戻したんだろうな」
「アイリーンの予定では強盗に殺された貿易商の夫の捜査はすぐに終結するはずだったのだよ。
善良で真面目な警官の君を前にして言うのも心苦しいが
我々が住むロンドンは毎日のように発生する事件に比べて警官の数も熱意もまるで足りていない。
荷物を隠して物取りの仕業に見せかければ目撃者もいない強盗殺人の捜査などすぐに打ち切られると考えたんだろう。
実際2ヶ月ほど前の新聞でもそうして捜査を打ち切られた被害者の嘆きが記事にされていたしね」
「だが平凡な貿易商だと思っていた旦那の正体は大英帝国のスバイだった。
すぐに打ち切られるはずの捜査には警察だけでなく情報部の人間まで加わり大規模に行われることになった」
「そうなれば所詮は素人の浅知恵で行った犯行だ、このままでは自分が犯人だとバレるのは時間の問題とアイリーンは考えた。
それを阻止するための一手が………」
「荷物を戻して国家機密が無事なことを知らせるだった訳か。女ってのはとんでもないことを考えるもんだ」
「実際それで情報部と警察は捜査を撹乱されたのだから女性の大胆な行動力も侮れない」
「ま、何にせよ事件は無事解決だ。リチャードのやつがさっそく「大英帝国の危機」ってタイトルで小説にすると騒いでたぞ」
自分を知恵の聖人として有名にしてしまった幼馴染の小説家のいつもの行動にアランは呆れてしまう。
「まったく。レナード、書くならせめてタイトルを変更するようにリチャードに伝えてくれ」
「あん?どうしてだよ」
「真相が明らかになった今、そのタイトルはあまりに大袈裟すぎるだろう」
「そうかな。俺は今回の事件にぴったりのタイトルだと思うぜ」
「本気で言ってるのか?」
「あぁ。お前も俺が持ってきたとっておきの新情報を知れば同意するはずさ」
「新情報だって?」
「そうとも。犯人のアイリーンが夫を殺した動機だよ。知恵の聖人様ならそれもお見通しか?」
「経済的に豊かな家庭の婦人が夫を殺害する動機は限られている。怨恨と情愛。
もし夫婦に目立った衝突があれば有力な容疑者としてマークされていただろうから、おそらくは情愛。
夫の方に愛人はいなかったが妻の方にはいた」
「お見事。ちなみにお相手が誰か分かるかい?」
「いくら何でもその推理は不可能だ。私はアイリーンと顔見知りではあるが深い交流はない。
彼女が愛人らしき男性と一緒に礼拝に来た記憶もない」
「そりゃそうだろう。何しろ愛人はお前なんだからアラン」
「……は?」
「正確には愛人になる予定だった、だな。
邪魔な夫を殺害して悲嘆にくれる未亡人。
そこへ一目惚れした若く逞しい神父が弔問に訪れる。
男は聖職者らしく誠実に女を慰めるがやがて彼女の美貌と魅惑的な身体に夢中になり……」
「………」
「経済的に何不自由ない生活を送る英国紳士の妻が聖職者に懸想して夫を殺す。
どうだ、これは立派に大英帝国の道徳的危機だと思わないか神父様?」
アランは黙ってコーヒーを飲み干し天を仰いだ。
その沈黙が答えだった。