2011年3月
あれから十年近くが経過していた。相変わらず夫は不倫をし続け、あのアシスタントの女とも切れていなかった。あろう事か担当の漫画家にも手を出している事も把握していたが、レイコは騒がずに静観し続けていた。
結婚して十年たったわけだが、子供はいない。夫の両親もだんだんと弱ってきていた。レイコも病院の送り迎えや、食事の支度などを手伝うようになり、結局義両親の家の側に一軒家を建てる事になった。真新しい一軒家だが、ちっとも嬉しくはなかった。目と鼻の先に義母や義父が住んでいると思うと、なにも嬉しくない。しかも千葉の田舎で、楽しい娯楽なども全くない環境だった。周りは梨畑や野菜畑、カルトの施設ばっかりだった。
仕事もやめて、病院の売店のパートをしていた。精神科もある病院で、夫は差別感情丸出しにして嫌がっていたが、案外彼らは大人しかった。大人し過ぎるぐらいだった。
ずっと病院で売店で店員をやっていると、精神疾患のある患者が見分けがついてきた。目が死んでいて、姿勢も悪く身体もだるっとしている人が多い。ケータイをずっと見ているタイプも多く、筋肉ムキムキのマッチョタイプはゼロだった。あと、売店で買うドリンクも甘いものばかり購入していた。陰謀論本では、砂糖を摂りすぎると精神が悪化すると書かれていたが、あながち嘘では無さそうだった。
「お客様、烏龍茶や無糖の紅茶などは飲みませんか?」
レイコはさりげなく、甘く無い飲み物を勧めてみたが、断れる事も多かった。陰謀論知識で、抗うつ薬も身体に悪いとは、全く言えない雰囲気だった。陰謀論本によると、抗うつ薬は麻薬と成分が同じで、依存も強く出る。一度飲むと断薬も難しいともあった。そうで無くても精神福祉にどっぷり浸かると、抜け出すのは難しいらしい。まるでヤクザのようだ。レイコはそう見えた。確かに一度「弱者」の旨みを知ってしまえば、このぬるま湯から自分から抜け出すのも難しいだろう。自信や自己肯定感も持ちにくく、死にたくなるだろう。
そんな意地悪な事を考えて売店の仕事をこなしていると、突然大きな音がした。地震だった。しかも、今までに経験した事の無い揺れだった。
その揺れの中でも「この地震で、夫は早く死なないかな」と考えていた。あわよくば地震の影響で……と酷い事も考えたが、残念な事に夫は無事だった。
それから、計画停電があったり、余震が続いて大変だった。千葉の田舎でも東日本大震災の影響を受け、半年ぐらいずっと落ち着かない生活だった。
親戚も何人か亡くなり、義父はすっかり心身ともに病み、あっという間に亡くなってしまった。義母もそのショックで、後を追うように持病が悪化し、亡くなった。
義両親は悪い人ではなかった。少なくとも夫と比べて何の害も無い人だった。確かに通院や食事の世話は大変だったが、彼らの死は願っていない。
ただ、この件から心が身体に影響を与えるのか?という疑問が出てきた。病は気からという事か?
若干スピリチュアルっぽい話題だが、レイコはこの件について図書館で調べてみる事にした。確かに心が病むと、身体に影響は出るという事はあり得そうだった。特に人間が使う言葉は力があり、親から「なんてダメな子」と言われて育てられた子供が、実際いじめられて、成績も悪くなり、自殺したという事例も出ていた。
この方法で夫を殺す事はできないだろうか。しばらく考えてみたが、突然暴言を吐いたら、相手も怪しむだろう。
やっぱりスピリチュアル的なアプローチよりも陰謀論の方にヒントがあるかもしれない。レイコは、図書館にある精神疾患や抗うつ薬についての本を読み漁った。
確かに、夫には添加物まみれの食事をさせているので、健康ではない。健康診断では、血糖値やコレステロールの高さなどは指摘されていたが、癌にもなって無いし決定打ではない。
精神疾患や抗うつ薬の陰謀論本を読むと、やはり、そういった分野の薬は良いものではなさそうだった。中には副作用が「自殺」という薬もあり、陰謀論に免疫があったレイコも笑えなかった。
そもそも鬱病は何か?
レイコは必死に調べてみたが、これは誰にでもある心の落ち込む「状態」では無いかという疑問も出てきた。人それぞれ「状態」に差はあるが、これを「病気」「障害」にしてしまえば、病院や製薬メーカーに多大の利益が出る。これを真面目な人や繊細な人だけがかかる病気みたいに言ってるのもとんでもない高ぶり、傲慢さも感じる。特に褒めようがない地味な人を真面目、繊細と言う事が多いのに。病気にならない馬鹿で鈍感な人のがよっぽど良いだろうに。
図書館で読んだスピリチュアル的な本も総合して考えると、目に見えない人の声が聞けるたりするのも、本当に「病気」なのかわからなくなってきた。何か聞こえちゃったりするのもスピリチュアルではすごい才能だと持ち上げられている。病気の定義って何? 医者の権威による勝手なレッテル貼り?
陰謀論の本では、精神疾患の治療は、わざと治さずに継続的に利益を生んでいるとも書いてあった。医者は抗うつ薬なども自分や家族には投与しないのも嘘ではなさそうだった。
実際、売店で見かける患者達が、完治している雰囲気はない。むしろ会うたびに目が死んでいる。糖尿病や癌といった別の疾患も増えている。副作用「自殺」の他にも何かあるかもしれない。陰謀論だってデマも多く眉唾物である事も知っているが、精神科医も薬も、人の心を救う力などは無さそうだ。
となれば、夫に抗うつ薬を継続的に飲ませば、殺せる可能性もアリ?
時間はかかりそうが、添加物よりはマシに見えてきた。
こうして図書館から家に帰ると、夫の帰りを待つ。最近、仕事の担当漫画家の売上が落ち、悩んでいると愚痴を吐いてきた。
酒も飲み、あまり良い酔い方はしていなかった。レイコは、このチャンスを逃さなかった。
「あなた、それは心の風邪かもしれないわ。私のパート先の病院の精神科に行かない? きっと楽になれるわ」
レイコは、聖母のように優しく微笑んでいた。
「大丈夫。あなたは、仕事を辞めても私は味方よ。ずっと支えるわぁ」
全部嘘だが、夫はレイコの演技に騙されているようだった。翌日、精神科への受診を決めていた。
大丈夫。どうせバレやしない。夫は女と仕事しか頭にない。精神科や抗うつ薬の危険性など、ろくに調べないだろう。調べたとしても科学的では無い陰謀論だと一蹴するのが目に見えていた。
夫はなぜか医者や医療へ深い信仰があった。いや、これは夫だけでなく、日本人はそうかもしれない。
医者に健康にして貰おうという依存心が、病を引き寄せているかもしれない。医者も薬も別に神様でも何でも無いのに。