董山曇(十一)4Q「懈慢界」
奇跡を頼むぞ、楢崎。お前が奇跡を起こせば、お前は董山を救ったヒーローになれるんだ。来迎堂で自慢してもいいぞ。あの董山を救ったんだと。皆からちやほやされ、過ごしやすくもなるはずだ、きっと。
パチャっ、と楢崎がプールに落ちてくその先で、水の音がした。ちょっと嫌な予感。
心の奥底では上がってくるのが遅いな。プールん中は真っ暗だろうから、探すのに苦労しているんだろうなと思っていたんだ。というのは明らかな嘘だ。すまん臼井、音がするまでお前のことをすっかり忘れていた。自分のことしか考えていない俺を許してくれと水面を見ると、案の定臼井だった。垣内と谷川を引き上げ戻ってきた。
出てきた臼井に気づいた楢崎はバタバタをやめ、臼井の頭を吹っ飛ばしてから入水するような動作に入った。
上がってきた臼井は全く頭上の楢崎に気づいていない。気づいても、気づかせても、臼井には対処のしようがない。
じゃあしょうがないか。じゃあな臼井、お前との日々は楽しかったぞ。
というわけにもいかない。臼井は仲間だからな。
あーあ。しょうがない。今楢崎を放り投げた時、未果さんは目なんか瞑っていなかった。だと思っていたが。首が吹っ飛ぶ人間を未果さんに見せるわけにもいかない。
伸身したままひねるように後方宙返りした楢崎が、右脚を振りかぶった。
待てよ、こっから飛んで楢崎に打撃を加えるとなると、吹っ飛んだ楢崎が敷地外にまで飛んでいって、渡来の時と同じになってしまうかもしれない。上から楢崎を叩きつけたら叩きつけたで臼井に直撃し意味がない。下から真上に吹っ飛ばすようにしたとしても、もうあの距離感じゃ臼井にまで攻撃が当たり、董山が臼井の首を吹っ飛ばしてなにやってんだということになる。
斜めに攻撃すればうまくプールにザブンとなって一石二鳥となるかもしれないが、あまり気が進まない。
攻撃は未果さんに見えないにしても、水しぶきがかなり上がる。未果さんのことだ、ちょっと遠回りしても董山が攻撃したことに気づき、董山さん怖ーい、いくら臼井さんを救うためとはいえ、あんなおもいっきり攻撃しなくてもいいのに。もうちょっと水恐怖症を克服する楢崎さんのこと、考えてあげてよね。あれでしょ? カツサンド食べちゃったからでしょ? 恨んでの行動でしょ? 小さかったんだね、董山さんの器。なんて思われたら一巻の終わりだ。
いやいやあの状況ではいくらなんでもそれなりの強打をしないと防げなかったんですよと弁解しても、だったら車に轢かれそうな人を助けるみたいに臼井さんを助ければよかったじゃないですか。なんて、うまそうにカツサンドを食べた楢崎の肩を持つに決まってる。
そうか、そうだ、そういう手があるか。だがさすがにこの状況でプールからあの三人をまとめて引き上げるとなると、三礼のままではきっと間に合わない。一礼上げるか。
ダメだ、四礼,《黄信》は『乱震』。爆轟しただけですぐ傍にいる未果さんや、周辺建物にまで危害が及んでしまう。
だとすると、『懈慢界』を介してこの状況を打開するしかもう方法はないんじゃないか? 外界に出る表情も軽くてすむ。横から手を出せば比較的広いスペースのある家とプールの間に楢崎を転がす感じになり、壁に穴が開く心配もなくなる。
おお、いいじゃないか。とか言っている自分が愛おしくなってきた。そこまでして未果さんの気を惹きたいらしい。やっても惹けるかどうか。だがもうやるしかない。
董山は、奇跡のカツサンドを食べるだけじゃなく、キラキラ輝く紗季さんに『あーん』してもらうという欲深き心を躍らせ、四仏化生の儀,《煩手化身》と唱えた。董山の真髄から魚のようにピチピチとしなる煩悩魔の手が、ボンっと芽生える。
食べたい。未果さんのサンドイッチを。あーんしてもらって紗季さんの指まで舐めてしまいたい煩悩魔の手で楢崎の真髄を食らうべく、董山は所掌の真言を唱える。
昊天より、異方士手の一劫《煩ノ手,阿閦一擲》
煩悩魔の手が変化して貪欲な口となり、唸りを上げながら懈慢界を駆け抜けると、楢崎の識昊天に突き出た貪欲な口が、楢崎の萎んだ真髄をパックリと飲み込んだ。
すまない楢崎、お前の世界は一変する。
──ガーラララッチャっチゃっちゃッちゃっチゃーッん。
……あーあ。董山は、頭を抱える。
臼井は無事、楢崎の攻撃を受けずにすんだ。が、プールサイドに転がすはずだった楢崎は、右脇腹を先端に、未果さんちまで吹っ飛んでしまった……。また……、同じ過ちを。




