董山曇(十一)3Q「弱き、楢崎哲郎」
飛べ楢崎。お前をプールへ突き飛ばしてもいいが見栄えが悪い。お前がプールに飛んでトラウマ陣を一気に克服すれば、未果さんを守るだけじゃなく、敵の悩みまで解決してしまうの? なんて素敵な董山さん。もう抱いてってなるために。
「楢崎くん、君はもうわかっているはずだ」海に入りたくても入れない思いじゃ、「俺に勝つことはできないと。いいのかこのままで。いいわけないよな。このままじゃじいさんは浮かばれないもんな? 俺は好きだぞ。君みたいにもがいてる奴。ここが君たちとの衝突の場になったのも、君がもがいてきたからこそ。俺はそう思う。君も奥底で思っているんだろ? 君はプール側から現れた。プールに近づくようにも向かってきた。今も近い距離に立っている。本当は、なにかの拍子に落ちてもいいと」全く聴こえてこなかったが、「そうなんだろ? ん?」と言っておけばそう思うかもしれない。
「……なんだよそれ」
手首を押さえながら惨めに倒れ込んでいた楢崎は、あきれるような声で呟いた。
さすがに思わないか。「なんだ、一番の近道をしに来たわけじゃないのか? 強くなれる絶好の機会だと俺は思うがな」
「そんなことしたら、ショック死するって子供の頃に言われたよ」
「だから君は今も克服できていないんだ。かわいそうに」
「かわいそう?」
「かわいそうだろ?」別に思ってないが。「克服するどころか、トラウマを併発してるんだから。じいさんを筆頭に、君を取り囲む人たちも遣り切れないだろう」
「うるさいよ」
「うるさくてけっこう。君はなんにしろ、恐怖心というものに勝ててないんだ。恐怖心に勝って一歩踏み出さなければ、俺に勝って海上保安官になって、じいさんを喜ばすこともできないぞ」
「……じいさん、じいさん、うるさいよ」楢崎はゆっくり、手の支えなしに立ち上がった。意外とデカい。「いつの話をしてる。俺のことをちゃんと調べられてないんだね」正面に立ったからか、ロン毛の間から出る赤い息が、やけに目につく。「さすがのリトルキャンディーも、この短期間じゃ無理なんだ」これじゃあ未果さんも絶対目につきまくってるはずだ。「新着情報として入れといてくれよ、俺が一番喜ばせたいのは、俺を救ってくれたライフセーバーの鵜飼さんで、あんたが言ってるじいさんは、俺が一番憎んでいる相手だと」
あ? なんだって?「憎んでるだと?」ああなるほど、「花園医院を紹介したからか」
「そうだよ。じいさんが言ってた滝行なんてなかった。あったのは殺し合いだけ」
「そりゃあ大変だったな。じいさんが子供の頃に通っていた時とはなにもかも変わってたか?」曲芸がそんな昔からあるわけないからな。「じいさんが知らずに紹介したことくらい、今の楢崎くんならわかるだろ」
「わかってたまるか。古臭い記憶だけで藪医者を勧めたからこんなことになってる」
「こんなことになってるのは君の所為だけどな」
「俺の所為なんかじゃない。じいさんを信じてたのに、俺は裏切られたんだぞ」
「そう思いたいだけだろ?」
「違う」
楢崎は食い気味に強く否定した。おかげで、自分に都合がいいからが言えなかった。
「じゃあなぜ何回も喚いてたんだ、ん?」
……楢崎は答えず、頭を大きく後ろに振った。顔面にかかっていたロン毛があとを追うようにふわりと持ち上がり、後ろへと追いやられる。
このままじゃ董山の顔を撫でていくため、董山はクイっと身体を反らしてロン毛をよけると、頬骨が際立ち、生気のない、この薄明るさがよく似合う顔面が現れた。
「……じいさんへの憎しみがすべてだよ」楢崎はたぬきのような目で董山を見下ろしている。「でも少し晴れた。あんたの言い方だと、じいさんは死んだんだ? いい気味だ」楢崎が際立つ頬を緩ませると、リスのような前歯が二本、ちらりと見えた。
楢崎の不随意細胞を聴いた時、初めに聴こえてきたのはじいさんとの心安らぐ思い出だった。じいさんを憎んでいる気持ちは全く聴こえてこなかった。だからといって憎んでいないとも限らないが、じいさんが死んだと聴いたのは楢崎から。こいつ、自覚してなかったのか?
そうか、じいさんが死んだと自覚したら、それこそ自我を保てなくなってしまうからか。都合よすぎだろ。だから思ったよりもぶちぎれ、後先考えずに向かってきたのか。
勘弁してくれ。おかげで赤い息が出放題。どうしてくれるんだ。やっぱ目を瞑っておいてくださいと言わなきゃダメだったな。
あいや、瞑ってはなにか如何わしいものを隠したいから言うのであって、楢崎がじいさんの死をなかったことにしたように、赤い息なんて端から全然出ていないことにすれば、後のことまで考えず、楢崎をいかに飛び込ませるかだけに集中できるんじゃないか? いいね、それでいこう。
「いい気味か。ある意味で君の力技が役に立ったよ」
「は?」
「いやこっちの話だ」
水恐怖症に拒食症、じいさんの死を受け入れらなかった弱い心。今、楢崎がじいさんの死を受け入れられるのは、身体に走る痛みが緩衝材となり、心に走る痛みを和らげているのだろう。
儚いねえ、楢崎哲郎。じいさんの死を知っていたことも、聴かなかったことにしてあげよう。やさしさを醸し出すためにだけどな。
「いい気味だなんて悪ぶるな楢崎くん。確かにこっちの調査不足というのもある。憎んでいるというのも本当だろう。だが、憎む気持ちよりも、感謝の気持ちのほうが強いはずだ」
「なに言ってる、強くなんかない。感謝しているうちにじいさんは入ってない」
「入ってるんだなこれが。君は今さっき、『いつの話をしてる』と言ったよな? ということは、してることになるだろ、ん?」
「過去の話だ。過去と今は違う」
「違ったとしても、過去と今は切り離せない。トラウマの併発はもちろん、君が今しているボランティアだってそう。じいさんがしていたから、どこかでじいさんに偶然会えないかと思ってしているんだろ? 過去に言えなかった、じいさんから離れた理由をちゃんと言いたいがために」
楢崎は、リスのような前歯を見せながら笑った。「ごちゃごちゃいいがかってくるね」
お前もな。「当たり前だ。楢崎くんには海上保安官になってもらいたいから」
「嘘を吐け」
「嘘なんか吐かない」上っ面では本当だ。「じゃなきゃ君をすでに捕獲している。こうやって君とお話しているということが、俺の気持ちの表れだと思わないか?」
「思えない。そんなことしてあんたになんの得がある」
お、鋭いじゃないか。「損得で俺は動いたりなんかしない」するが。「俺は楢崎くんの気持ちに共感して、今こうしているんだ。楢崎くんはどんどん落ちていく自分をじいさんに見られたくなくて、じいさんに当たってしまうのが嫌で」
「やめろッ」
耳を塞いだ楢崎は、それ以上続けるなと言うように強く否定した。
「やめない」董山も語気を強める。鈴架みたいでいいな。「じいさんに当たってしまうのが嫌で」と繰り返すと、耳を塞いでいる楢崎がうるさい黙れと言ったのを無視し、「じいさんと離れる決断をしたんだろ?」と続ける。「海上保安官になる夢は、じいさんの夢でもあった」
「黙れと言ってるだろッ」
「黙らない」いい人に見えているといいんだが。「黙って欲しかったら、力づくでしてみたらどうだ? ん? できないとわかってるからしてこないんだろ?」
楢崎の右足が動き、董山の側頭部に向かってくる。
ほんとにしてきやがった。だが「いいね」未果さんの手前、持っているナイフでブッ刺すのはやめ、ナイフを持ちかえてバシッと右手で楢崎の右足首を掴む。「よく足が上がるじゃないか楢崎くん」と右足首を握り潰したい所だが、「また骨を折られるかもしれないという恐怖心を超え、やめさせたいと上がったその気持ちが大事なんだ」と楢崎を褒める。「君はじいさんを驚かせたかった」ぐっ、と楢崎の右足に力が入った。「水恐怖症を克服して、海上保安官にまでなれたよって報告したかった」
「うるさい」と同時に、楢崎は董山が掴んでいる右足首を軸に、左足を振り上げた。董山の側頭部に向かってくる。刺されるのも覚悟の上か。
だが刺してたまるか。ナイフを未果さんに当たらないよう遠くへ投げ、バシッと左手で楢崎の左足首も掴む。そして続ける。
「じいさん、背中を押してくれてありがとう。一緒に夢を追いかけてくれてありがとう。伝えたかったんだよな。じいさんに。わかるぞその気持ち」全くわからないが。
「違う」
楢崎は浮く身体を水平に保ちながら、これでもかと力を入れもがいている。
「違わない。なのにずっと出来なかった。楢崎くんは弱いから」
「なにッ?」
静止した楢崎は、たぬきのような目で董山をさらに強く睨んだ。
そんな目で見ても無駄だと楢崎をプールサイドに叩きつけたい所だが、「だってそうだろ? 十年近く経っても恐怖心に勝ててないじゃないか」同じ体勢で話を続ける。「おかげで水恐怖症は身体に沁みつき、やらなきゃいけないことの後回しに躍り出ている」
「そんなことない」
そんなことないだと? 楢崎を何度も叩きつけて目を覚まさせたい所だが、「そんなことはある」と足首から揺するだけにする。「君はなぜ恐怖心に勝てないのかわかってないんだ。君は、水恐怖症を克服する手段としてずっと医学を信じ、先生の話をよく聞いて守り行動してきたからこんなことになってる」
「それのどこが悪い」
それのどこが悪いだだと?「悪いことだらけだろ」今度こそ楢崎を叩きつけて目を覚まさせたい所だが、「他人が作り上げた医学など信仰しやがって。楢崎くんは自分自身の力を全く信じていないじゃないか。なにやってるんだ」と楢崎を揺すりながらがんばって欲しい感じを出す。「人間の強い気持ちは、医学を凌駕することだってある。君は水恐怖症になってから今までなにを見てきた? なにを学んできた? 気持ちだろ? 人間の強い気持ちだろ?」と何度も揺らす。「医学に頼る気持ちは捨て、海上保安官になって、じいさんを喜ばすという気持ちで心を溢れさせるんだ。今君の足がやめろと動いたように、溢れた心が自然と君の身体を動かし、自然と君の身体は夢へと向かっていく。絶対だ。君が叶えた思いは、三途の川を渡ったじいさんにもきっと届く。絶対だ」
「絶対なんかあるか」
あるわけないだろ。「ある。信じろ、自分の気持ちを」
「信じ、られるかああアアアアアアー」楢崎がエビぞりになりながら叫び声を上げた。「俺はたくさん人を殺したんだぞ。自分が強くなりたいからって」と怒鳴った。
「だからなんだ」董山も声量を強める。「そんなものに苛まれるな」
「そんなものってなんだよ。殺人は死刑なんだぞ」
「だからまじでなんなんだ」董山は楢崎を振り上げて振り下ろし、地面すれすれで止める。「曲芸でも情報を漏らしただけで死刑になるだろ。強い奴らの価値観に惑わされてんじゃねえ。大事なのは君が今どうしたいかだ。なにをしたい楢崎くん。なにをして君は人生を全うしたい。海で人を救うヒーローだろ? なれよ強いヒーローに。強い祈りは真言となり、現実となって現れる」
「──うるさいよガチでッ!」息を呑み込むような間があった楢崎は、一層声を荒げた。「あんたが言ってることなんてただの理想郷だ。俺だって強い意志で思ってる。じいさんのために、自分のために、海上保安官になりたいと望んでる。でもできないんだ。これ以上どう強く思えって言うんだよ」楢崎は手首を押さえている両腕で、頭を抱えた。
「だから言ってるだろ」伝わってないかと楢崎を8の字に振り回す。「気持ちを溢れさせるほど強く思えと。君の気持ちが現実になるくらい強く思えと」
「だから思ってるんだよ」
「思ってねえんだよ」董山はさらに速く楢崎を振り回す。「足りねえんだよ君のその気持ちじゃ。足りないからいつまで経ってもトラウマ陣を克服できないんだ」
「いいんだよできなくて。俺にできるわけないんだ」
「そんなことあるか」董山は回した勢いで振りかぶって、地面すれすれの所で楢崎を止める。未果さんの心がお前で満たされている以上、できてもらわないと困るんだ。「俺は君の笑顔が見たい。じいさんの笑顔を感じたい。だから俺はあきらめない。君の足りない分は、俺が補ってやる」くそボケが。もうぐだぐだ説得するのはやめだ。
楢崎は放り込まれると察したのかビクッとし、今日一番の強い力でもがき始めた。「やめろ、やめろって。俺はまだ死にたくない。やめてくれ、頼む」
「悪いがやめない」未果さんにも楢崎のためというのは伝わっているだろう。
董山は楢崎の力をさらに強い力で押さえ込む。
「やめろ、やめてくれ。自分で飛ぶから。俺の意志で飛ぶから」
もうお前の意志などどうでもいい。「タイムリミットだ楢崎くん。俺がプールに君を放り込むと決めた以上、君はプールに飛び込むことになる」
「やめてくれよ、頼むよ。こんなこと許されない」
涙声になった楢崎は、ロン毛を振り乱して一心不乱にもがいている。
「残念なことに、君の意志は反映されない。なんでかわかるよな? 君は弱いからだ。弱い君は、強い俺の枠に嵌まるしかないんだ。強くなれ楢崎くん。強くなって、今の欲界から飛び出すんだ」
董山はずっとクロスしていた腕を平行にし、楢崎を地面に向かせる。
「大丈夫だ楢崎くん」阿阜里の力を纏っている以上、ショック死することはないだろう。「足が上がったいいイメージを忘れるな。きっと飛び出せる」
董山は、楢崎の足首を持ったままハンマー投げのように一回転し、軽くプールに向かって放り投げた。
軽くなつもりが、結構な放物線を描いてしまっている。まあ致し方ない。
未果さんに感謝しろよ。ナイフで刺されることもなく、何度もプールサイドに打ちつけられることもなく、振り回しただけでやさしく放り投げられ、プールにザブンするだけですむんだから。
楢崎は、手足をバタつかせながらプールへ落ちていく。




