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董山曇(十一)2Q「呻く、楢崎哲郎」

 董山はわざとらしさが伝わるように「プッ」と吹き出し、身体を楢崎に向ける。「覚悟? 自分に言ってるのかな? いつまで経っても水恐怖症を克服できず、親愛なるじいさんになにもしてやれなかったから」

「──ウルサイ黙れえッ!」

「おーこわこわ」董山は両腕を摩る。「痛いとこ突かれてすぐぶちぎれるのは、どうなのかなあ」と後ろにいる未果さんをチラリと見て、大丈夫ですからねと腕を伸ばす。

 よしよし、楢崎を怖いと思ってくれた。しかしまだ未果さんの心は董山よりも楢崎で満たされている。カツサンドをうまそうに食べた楢崎が、拒食症を併発していることを知ったら、楢崎にもっと好感を持ってしまうだろう。楢崎への印象が定着する前に、もっとマイナスイメージをつけないと。とまた波打っているロン毛の楢崎を見たら、ちょっと目を離した隙に董山の目の前で飛び上がりながら、右の拳を振りかぶっていた。

 いや、楢崎じゃない? いや楢崎だ。一瞬、死んだ飯塚紗季が目の前でジャンピングパンチをしているように見えてしまった。こんな時にも飯塚紗季の面影が出てきてしまうなんて。五十一年も生きていたその経験に惹かれてしまっているのか? それは、ある。

 蟠りがあろうとも、キラキラ輝いていた紗季の人生。ああ素晴らしい。魅力溢れる飯塚紗季をどんなに強く求めてももう抱くことができないなんて。やるせなさすぎる。

 と、幻にふけってしまっていたら、楢崎の不随意細胞から音がしなくなった。ジャンピングパンチしている楢崎は、心の真髄で合掌一拝がっしょういちはいし、『決壊』を唱え金鼓こんくを創造し、《赤義せきぎ》の礼を唱えただろう響きが伝わってくる。プールの影響か、少し揺らいでいるようだが、『建武けんぶ』と《赤義》じゃさすがにヤバい。

 ここは、こんな時に出てきた魅力溢れる飯塚紗季に、力になってもらおうじゃないか。きっとちょうどいい塩梅になるはずだ。

 董山は『決壊』を唱えると、心の真髄にできた金鼓をカンと一度打ち鳴らし、七仰三礼ななぎょうさんれい,《赤義》爆轟と唱えた。蟠りがあろうとも、キラキラ輝いていた飯塚紗季を抱きたくても抱けないやるせなさが爆発し、強震を引き起こす精根,《赤義》の礼へと身体が昇華する。董山は《赤義》を纏った身体で董山の顔面に飛んでくるパンチを手の平でパンと受け、ギュッと握ると、ゴリゴリッと砕ける音がした。

「んああああッ」

 骨折しただろう痛みの反動でくるりと跳ね返った楢崎は、プールサイドに肩から落ち、右の手首を押さえながらバタバタとのたうち回る。

 のたうち回ってうるさい楢崎の口から、赤い息が出ている。この明るさだと色がわかってしまう。未果さんがいる手前都合が悪い。目を瞑っていてくれませんか? と言うのも、変態に思われて違う意味での印象が濃くなりそうだから、どうか見ていませんように。

「いやー」董山の強震に惨敗で、「骨折しちゃったのかな?」董山の口からも赤い息が出る。「そんな脆い骨だとは思わなかったよ」同じ《赤義》なのにねと言いそうになった。

「クッソァアあー」

 くっそーか。こっちがくっそーだっての。予想外にお前が食った所まではよかったんだが、これじゃあ臼井に食べてもらったほうがよかったかもしれない。ほんとうまかったんだろうなカツサンド。この場で食べておけば並ぶくらいはできたかもしれないが、あとから作ってもらって食べても二番煎じになるだけ。理のことで揺らいでいるとはいえ、二番煎じがモテてきた未果さんを抱けるとは思えない。楢崎にマイナスイメージをつけながら、未果さんの心が董山で満たされるようななにかがあれば一番いいんだが。

 楢崎は悔しさと痛みを吐き出すような感じでのたうち回り続けている。

「悔しいのかな? 楢崎くん。それともプールに落ちないようしっかりと受け止めた俺に、感謝してくれてるのかな?」さすがに爆轟してるとどっちかわからないが、「『人を殺す身体を持てないから、水恐怖症を克服できないんだ』と花園院長に揶揄され人を殺しても、水恐怖症を克服できず、人殺しのストレスからトラウマを併発してりゃあ世話がない。おじいさんはどう思っていただろうなあ。海に入るどころか、変わり果てた姿になっていく楢崎くんを見て」

「んーわアアー」

 さらに大きな声を出した楢崎は、おじいさんの思いを想像したのか、手首を押さえたまま頭を抱え、バタバタのたうち回り続けている。

 こっちが叫びたい気持ちだ。「おじいさんは見たかっただろうなあ。楢崎くんが海で元気に泳ぐ姿を。一緒にアワビを獲っている光景を」

 さらに追い討ちをかけたら、のたうち回っていた楢崎が、横向きでピタリと止まった。波打っているロン毛が、暖簾のように顔面にかかっている。

「……そんなの、知らないよ」

 楢崎は苛立っているように呟き、手首を押さえながら、片膝をつく姿勢になった。暖簾のようにかかるロン毛の間から、董山を睨む、楢崎の片目が見えた。

 こっちが睨みたい所だ。拒食症なのに平らげやがって。「知ってるだろ」どれだけうまかったんだこの野郎と董山はスッと楢崎との距離を詰め、片膝をついている楢崎の右の拳をまた、ギュッと握る。

「ンァァアァアァァァァー」さらに骨が砕ける音をかき消すように、楢崎はさらに大きな呻き声を上げた。やめろと楢崎が左の拳を振ってくるのを感じ、右の拳をさらに強く握る。「ンァ──」と楢崎の声が消え入り、拳を振ってくることなく惨めに倒れ込んだ。

 おっといけない。話がカツサンドのことになってしまっていた。これ以上するとこっちがマイナスになるだけだと手を放す。

 拒食症の奴でも平らげてしまうほどのカツサンドを作った未果さん。そう、奇跡のカツサンドを作る未果さんに、一目置かれるくらいの男にならなければ。

 ん? 奇跡? そうか、楢崎。お前は奇跡のカツサンドを食べたんだ。それくらいできるよな。


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