仙田未果(十五)「目撃」
プールサイドに、誰か倒れている……。仰向けとはわかるけど、プールサイドの角にある車幅灯並みの灯りじゃ、顔まではハッキリわからない。外灯のスイッチは、部屋の中……。雰囲気的に董山さんではない気がする。誰だろうと確かめたくて石段をゆっくり下りきると、ぶくぶくぶくっとプールから音が聞こえてきた。なに? と身を竦めながら目を凝らすと、プールの真ん中が泡立っていると思った瞬間、バシャッと細長い物体が飛び上がってきた。物体は屋根の倍くらいまでの高さを頂点に速度を弱め、またプールにバッシャーンと落下した。さっき聞いた音と同じ。もしかして、イルカ? そんなわけない。ちゃんと考えて。水族館でデート中に、イルカショーに感激して、冗談半分でプールを作るなら、イルカが飼えるくらいのプールがいいって言ったら、本当にそうなっちゃっただけで、実際にイルカは飼っていない。
物体が落下していく時、手と足がばらけた感じが人っぽかった。信じられないけど、イルカのように飛び上がってプールに消えたのは、きっと人。
でも、人ってあんなに飛び上がれるもの? イルカショーでイルカに足を押されるように飛び上がった人なら見たことあるけど、どう見ても単独だったし。単独であれだけ飛び上がれるって。しかも水面から。どうやって? 考えると気がちょっと変になりそう。
また人が飛び上がってきたら、今度はちゃんとわかるかな。でもこの薄暗さだと判別できないかもしれない。と波打つ水面をじっと見ていると、ポチャっといきなり二つ丸いものが水面にただ浮かんで、未果はピクッ、としてしまった。
「……いやあどうもどうもこんばんは。すんません。プールに許可なく入ってしもうて」
明朗、というか、馴れ馴れしい、というか、顔がハッキリわからなくて誰かわからない。会ったことはない声、なはず。おもいきって、「……だ、誰ですか」と未果は尋ねる。
「リトルキャンディーの臼井です」
リトルキャンディーの、臼井さん。リトルキャンディーの臼井さん? は一人を仰向けにして担ぐように、未果が立っているプールサイド側まで泳いでくる。
リトルキャンディーの臼井さん? はさっき沙友里の家にいた時に董山さんの口から、『臼井』という言葉を聞いたけど、本当にその臼井さんだろうか。地下駐車場であった時と同じように、偽者ということはないだろうか。薄暗くてよくわからなかった顔がもうわかってもよさそうな距離まで来たのに、濡れてる頭ばかりに目がいって、臼井さん? の顔が全然未果の頭に入ってこない。わかったとしても本物の臼井さんを知らないから同じなんだけど、どうしよう偽者だったら。「ちょ、ちょっと待ってくださいっ」と未果は出せる限り一杯の声を出すと、泳いでいた臼井さん? は止まってくれた。よかった。未果は胸を撫で下ろす。一呼吸して、「あの、本当にリトルキャンディーの臼井さんですか」と普通の声量で尋ねる。
「ええ、ほんまですけど」
……そうっぽい。明らかさが嘘を言っているようには見えない。でも本当にそうだろうか。さっきもそうだと思ってそうじゃなかった。だから今回もそうだと思っているからそうじゃないのかもしれない。三人と言っていたからプールサイドに倒れている人、今プールの中で担がれている人、この人たちがリトルキャンディーの人たちということはないだろうか。でもその中に董山さんはいない、気がする。よく考えて。さっきプールから飛び出てきてまたプールに落っこちたのって、たぶんこの担がれている人……。うん、きっとそう。ならそんなことをやってのけたのは、この担いでいる臼井さん。それって、普通じゃ考えられないことだよね。董山さんと共通する部分になる。でも、もしかしたら敵にも尋常じゃない人がいる可能性だってあるんじゃないだろうか。考え過ぎだろうか。そんなにいても困るし。そもそも水中からどうやって? 陸の上からだってあり得ない。柔道だってそんなの。
「──仙田さんっ」
「はいっ?」
急に臼井さん? に大声で呼ばれ、声が裏返ってしまった。なになに? 臼井さん? は必死な感じで水をかき分けてかき分けて未果のほうに向かってくる。なんで、なんでなんで? と未果は慌てふためく。
「やめろやボケッ」
臼井さん? が怒鳴ったってことは、もしかして臼井さんは未果を助けに来てくれている? と振り返ろうとした瞬間、ガチッと身体を固定され、未果の首になにか細くて硬いものがあてられた。
「動くなッ。動いたらぶっ殺す」男? が未果の耳元で言った。この声、どこかで……。「お前もだ」と男は声を張り上げた。「動くんじゃねえぞこのハゲ」
うーん確かに、プールサイドに上がったびしょ濡れの臼井さんの頭は、ハゲが際立ってしまってるけど、そんな言い方しなくても。
「動きませんて。せやけどプールに沈んでるあんたの仲間はええんか? まだ死んではおまへんぞ。なんなら俺が拾ってきてやるさかい」
さっき担がれていた人がいない。未果を助けるために放したんだ。
「……よし行ってこい」
臼井さんはプールにドボンと飛び込んだ。そうだこの声、ファミレスで会った、
「オイ谷川、汚い手で触ってんじゃねえ」
そう谷川。え董山さん? すぐ後ろにいる感じと思った瞬間、聞いたことのある鈍い音が未果の身体に響いてきて、未果の自由を奪っていた力が無くなった。
「ちゃんと洗ってこい」
董山さんの声とともに、人影が放物線を描いてボチャンとプールに落ちた。
「……おケガ、ありませんか」
なんという呆気ない幕切れ。首を覗き込むように、未果の視界に入ってきた董山さんは、ナイフを手にしている。たぶん、谷川が未果の首に押しあてていたものだ。
未果は抱えていた手提げ袋を手に持ち、自分の首を触って見ると、血はついていなかった。「はい大丈夫です」痛みもありませんとうなずく。
「すいません未果さん、指一本触れさせないというお約束をしておきながら、ガッツリとむさい奴に触れられてしまった。もうこうすることしか」
「ちょっと待ってください」絶対土下座しようとした董山さんの肩を掴んで阻止する。い、意外とガッチリしてる。「別になんともないですし、危険な目に遭うと言われていたのでその通りになったなあという思いのほうが強いというか、全然怖くなかったですし」ほんと怖くなかった。「電車とか道とかで、人とぶつかっちゃったぐらいにしか思ってませんから」ね、だからやめてくださいという感じで、掴んでいた董山さんの肩を軽くポンポンとタッチする。
「……そ、うですか。ならよかったです」
なにかを詰まらせたような声を出した董山さんは、倒しかけていた身体をゆっくりもとに戻してくれると、ん? それは? と未果が手にしているものを見た。
あ、「これ」どうしよう。いざ面と向かって渡すとなると、ちょっと照れる。「……夕食、どうしてるのかなあと思って。カツサンド作ってみたんです」と紙袋の中に目がいくと、カツサンドが入っているペーパーボックスがペチャンコになっていた。紙袋もしわしわ。知らないうちに力が入って、潰しちゃってたんだ。もしよかったら食べてくださいの言葉を未果は飲み込み、「試食としてまず自分で食べてみようかなあって思って外に来たんです」我ながら、嘘っぽい嘘になってしまった気がする。
「自分でですか」ほらやっぱり。董山さんは未果の嘘に愛想をつかしたような笑みを浮かべ、「違いますよね? 僕に作って来てくれたんじゃないんですか? そんな流れのトーンでしたよ」
「いや、その」どうしよう恥ずかしい。未果は自分の顔を紙袋で隠す。
「ありがとうございます。ちょうどお腹減ってたんでうれしいです」
「え、ほんとですか」
紙袋の陰から顔だけを出して董山さんを見ると、未果が手にしていた紙袋の感触がバサッとなくなった。
董山さん? なわけない。董山さんは刃先が見えないようにナイフを持っているだけで、石段のほうを見ている。釣られて見ると、石段の一番上に人が一人、胡坐? を掻いて座っている。斜めに振った感じに頭が動くと、長い髪がふわりと持ち上がったのがわかった。ちょっと遠くて顔はさすがによくわからないけど、中のものを取って、カツサンドを食べたようなシルエット。
「……おいしい!」
ドキッとしてしまった声が聞こえたのと同時に、なにかプツンと切れたような感覚がした。
「コゥラア!」董山さんだった。未果とは比べ物にならないくらい大きな声量。「楢崎哲郎! それは俺のカツサンドなんだぞッ。未果さんが俺のために作ってくれたカツサンドなんだぞッ。それを俺に断りもなく食ってんじゃねえーッ!」
「……そんな大きな声しなくても聞こえるよ。悪かった。思いの外いい匂いだったからつい」楢崎哲郎は止まらない感じで食べてくれているような。「おいしいやほんと。火の通し加減が絶妙」楢崎の見えない笑顔が想像できてしまった。あ、ありがとうございます。
「そんなこと言われたら余計食いたくなるじゃねえかァアーア?」
董山さんはめちゃくちゃ怒っている。ちょっと怖い。
「だからごめん悪かった。もう一個あるから食べる?」
董山さんとは正反対の、落ち着いた声。
「い、いいんですか? さすが優しいボランティアさんですね」
あれ、董山さんは一変して穏やかな口調になった。ボランティア? ボランティアをしているのか。
「その前に一つ聞きたいんだけど、あんたはリトルキャンディーの董山曇でいいんだよね?」
「そうです」
董山さんはあっさり答えた。
「渡来樹生が音信不通になったのは、あんたたちが原因?」
「そうです」
それもあっさり認めちゃうんだね。
「やっぱりそうなんだ、へえー」
楢崎は感慨深げにカツサンドを手にして、口に頬張ったシルエット。あれ? ちょっと崩れちゃいそうだったから、二切れだったはず。
「楢崎哲郎くん、それを食べてしまったら、僕の分はないですよね? 正直に答えたらくれるものかと思っていました」
すごい董山さんの丁寧な言葉。
「そのつもりだったけど、もう食べられないと思ったら惜しくなっちゃって」
楢崎のシルエットがほんとにおいしそうで、照れるを通り越してちょっと恥ずかしい、どうしよう。
「おふざけが過ぎますね楢崎くん、食べ物の恨みはでかいですよ」
なんだろう、董山さんは怒っているのかいないのか、ちょっと拗ねたような感じもしている。あ、食べ終わったみたい。
「仲間をやられた恨みだって相当でかいよ。それなりの覚悟をしてもらわなくちゃ」
「プッ」董山さんはわざとらしく笑うと、身体の正面を楢崎に向けた。「覚悟? 自分に言ってるのかな? いつまで経っても水恐怖症を克服できず、親愛なるじいさんになにもしてやれなかったから」
プツンとまた、なにかが切れた感じがした。
「──ウルサイ黙れえッ!」
いきなり董山さん以上の怒号が鳴った。楢崎だ。思わず未果は身を竦める。
「おーこわこわ」董山さんは自分の身を抱え摩り、「痛いとこ突かれてすぐぶちぎれるのは、どうなのかなあ」と言うとチラッと未果を見て、大丈夫ですからと言うように、片腕を伸ばして未果を守る仕種をした。──ごりごりッ。
「んああああッ」
……え? なにがどうなってどうなったのか、嫌な音がしたと思ったら、石段の上でプツンと切れたはずの楢崎がプールサイドに横たわって、痛そうにもがいている。
──なに? あの赤いの……。




