仙田未果(十)
物凄い衝撃音と同時に、部屋が一瞬揺れた。一緒に部屋の中央に立っている沙友里と目を合わせ、身体を寄せ合う。
……さっきまでごにょごにょ聞こえていた声が、一切しなくなった。ドアの向こうでなにかが起こったことは確か。今までの経験からして、もう決着がついたのかもしれない。
──磨りガラスがちょっと暗くなって、ガチャっとドアノブが下に動いて、開き戸がこちら側に開いていく。
「……あ、あの、三村さん。ほんと申し訳ないです。玄関の扉、壊してしまいました」
申し訳なさそうに身を縮めながら、董山さんが部屋に入ってきた。
やっぱりついたみたいと沙友里から離れて見ると、沙友里は董山さんを見たまま固まっている……。
気持ち的に毎日沙友里から董山さんの話を聞かされていたから、さっきとは違って、今は沙友里の気持ちがわかるような気がする。沙友里はたぶん、憧れの、董山曇。八年前、圧倒的な力で相手を捩じ伏せた董山曇。八年間追い続けてきた董山曇が、私に、直接話しかけている。うそ? うそ? うそ? 抱いて。って思っているんじゃないかな。
未果は、沙友里の腕をツンツンする。
ハッと気づいた沙友里は、未果を見た。未果は目で董山さんが謝ってるよ、と合図する。伝わったかどうか、沙友里は董山さんをまた見ると、ビクッとした。さっきも会ってるけどね。董山さんの言ったことが沙友里の頭の中に入ってなさそうだから、
「玄関の扉、壊しちゃったって」
と沙友里に囁く。
え? という感じで沙友里はぴくッとした。
「え?」
と自分で説明しておいて未果もぴくッとする。玄関の扉、壊した?
「あれ、なんですけど」
董山さんは身を縮めるようにしたまま開き戸を全開にした。
……う、そ。玄関ドアの真ん中に、大きな穴ぼこが開いている。言われてみれば、物凄い衝撃音だったし。けどえ? 玄関に穴って、開くんだね。
「すいません。もちろん弁償しますんで。フライパンは直ったんですけど」
う、うん。な、直った? そういえばさっき、フライパンを持ってはいたけど。
「……は、はあ」と沙友里は目前の出来事を受け入れられていないような声を出した。
わ、わかる。未果も董山さんが強いことはわかっていたんだけど。
「あ、で、でも、か、風通し、よくなっていいかも、というのは、じょ、冗談です。あは、あはははは、あは、お、お願いします」
いつも冷静沈着な沙友里が、挙動不審でちょっとおもしろいけど。
「ホントすいません、仕掛けといい、玄関といい」
董山さんは沙友里よりも身を低くして、ぺこぺこと頭を下げている。
「いえ、そ、んな、そんなに謝ら、ないでください」
沙友里は、首と手をぎこちなく振っている。
けどほんと、玄関に、穴って開くんだね。あんな大きな穴、岩がぶつかったって一回や二回じゃあんなキレイに開かなそう。あ、フライパンで開けたとか? ちょ、ちょっと待って。フライパンよりも、渡来とかいった人が見当たらない。てっきり倒れてると思ってしまっていたけど、どこ行ったの?「あの」と未果は声を発していた。「渡来という人は」
「あー」と董山さんはおでこに手をあて玄関を一瞥して、「あの男は、正直に言うと飛んで行っちゃいまして」とライオンヘアーを掻いた。「もうここに来ることも未果さんの前に現れることもないので、安心してください」
「そ、そうですか」飛んでいったんですか。もしかして、フライパンで開けたんじゃなくて、飛んでいった時に開いた穴なんですねきっとと未果がごちゃごちゃしている頭を整理していると、
董山さんは沙友里に近寄って、「三村さん喉、大丈夫ですか」と沙友里の首を覗き込んだ。「すごい痛かったですよね」
沙友里はピンと直立して、顔を赤くしている。
「あー、赤くなっちゃってますね」
あホントだ。手の痕がクッキリ。長髪の陰で全然気づかなかった。ごめん沙友里、ある意味自分にいっぱいいっぱいで。すごく痛そう。
「だ、大丈夫です、こ、これくらい」
「いやいや、いい薬があると思うんで」董山さんはお腹の部分にあるポケットをガサゴソして、中からコンパクトなチューブを出した。「すいません、ちょっと失礼します」と中身を指に取って沙友里の首に塗り始める。
董山さんの指が首に触れる度に沙友里はピクッとして、顔の赤さがどんどん増していき、首まで赤くなって手の痕との差がわからなくなってきた。
「……これで痣にもならないですから」と董山さんはチューブをポケットにしまった。
「あ、りが、とう、ござい、ます」
「未果さんは大丈夫でしたか」
「え、ん、あ、はい」とか言って、急に振られたからか、沙友里の影響でか、はたまた玄関の動揺でなのか、どれもある気がするけど、変な受け答えになってしまった。あの、「また助けてもらってしまって、なんてお礼を言っていいのか」
「いやいや」と董山さんは謙遜している。
でもほんと、董山さんという存在がいなければ絶対に連れ去られていた。あの時も、さっきも、そして今も……。動揺とかしてる場合じゃない。護衛のこと、ちゃんとしなきゃ。「あ、あの、董山さん、護衛をしてくれるための支払いをしたいんですけど、総額でいくらになるんですか」
「総額、ですか? 総額もなにも、特に請求するつもりはないですけど」
…………。董山さんの言葉は、未果が悩んでいた時間はいったいなんだったのかというくらい乾いていた。「ま、また無償ということですか」
「はい。あー。そうですよね、ちゃんと言ってなくてすいません。先程未果さんを危険な目に遭わせてしまったお詫びとしての、延長戦だと思っていただければ幸いです」
延長戦……。
「ファミレスで遭ったことも今遭ったこともそうです。我々は未果さんのご依頼を引き受けました。依頼内容を精査し、事実が確認できた時にはもうこうなることがある程度予測できていました。ですから未果さんをお守りするということは、未果さんのご依頼を引き受けた時点で発生する義務でもあるんです」
義務。そう言われると、義務教育のことが未果の頭に浮かび、義務教育だからしょうがないか、と自分でもよくわからない感情が湧く。
「大丈夫、時間はそうかかりません。曲芸過激団を撲滅し、未果さんの身の安全が保障できるまでを我々の責務とし、未果さんを大切に守らせていただきます」
「す、ごいですね」と今も赤さと固さが繰り広げられている沙友里が、感心するように入ってきた。「『リトルキャンディー』、噂には聞いていたんですけど」
「そんなことはありません」
「いえすごいです。うちにはそういった精神全くありませんから。ただ言われたことを調査するのみです。そのことによって発生した責務を全うすることはありません」
いきなりスラスラ話し始めた沙友里のことが逆に心配になりながら、未果はよく駐車場にある、『ここで起きた事故は一切責任を負いません』というような看板を思い出していた。リトルキャンディーは、駐車場を作ったのは我々だから、そこで起きたことに関する責務を全うするのは当たり前だと言っていることになる。確かに、それってすごい。
「他より料金が高めなのにも納得です。あ、別に高いって悪口じゃないですよ。私も探偵をしているので、他の事務所とかいろいろそういうの、気になってしまう質で」
「あーわかります」董山さんは親しげな笑みを浮かべた。「僕もそうですよ。アース探偵事務所。いい探偵事務所ですね。三村さんもいい仕事をされてらっしゃる」
沙友里のある意味血走っている目が真ん丸に見開き、誰が見てもうれしいという顔をした。
「名刺を持っていてくれたのも、三村さんなんですよね」
「そ、そうです」
「ありがとうございます。おかげでいい出会いが出来ました。と言いますか、とにかくありがとうございます。三村さんの行動のおかげで、渡来をここまで誘き寄せることが出来ました」
「いえそんな、私は董山さんの言う通りにしただけです。あの男に全く気づきませんでした」
目を見開いたまま沙友里は首を振った。
「そんなことはありません。僕が安心してここで待っていられたのも、三村さんの影響が大きいです。あー、ちょっと離れてる仲間からいろんな情報が入ってくるものでね。だから途中の駅からつけてきた渡来は余計に腹が立って、三村さんに手を出した。規律を厳守してきたであろう渡来に手を出させたんですから、さすがとしか言いようがありません」ホント、沙友里凄かった。「あ、玄関を壊してしまったから言っているわけじゃないですよ」と董山さんは苦笑した。
沙友里の顔色が、変な色に変わっていく。憧れの董山さんに褒められたんだもんね。そうなるよね。
「それでその件でもしよかったら、大家さんの連絡先を教えてもらえますか。僕から事情を話しますんで」
「あ、そ、れは、わ、私が、う、まいこ、と言って、おけば大丈、夫です、よね? 修、理代だ、け頂、ければ」
心配していた以上に、カタコト過ぎる沙友里が帰ってきてしまった。
「そうですか、わかりました。では、これを」
董山さんはお腹にあるポケットから名刺を出した。
沙友里は、カタっとその名刺に視線を合わせた。未果も見る。さっきもらった名刺とおんなじだ。今の沙友里でもきっと、名前が入って謳い文句が変わったことに気づいたはず。
「ここに請求額と振込先をファックスで送ってください。番号同じなんで」
沙友里は、カタカタふるえながら名刺を受け取った。
「それと、さすがにここは物騒なんで、これからお二人ともホテルに泊まってもらう形でよろしいですか。もちろん、お二人の宿泊代もお支払いしますので」
確かに、あの穴から人入れちゃいそうだし。
沙友里は、カクッ、と切れ味鋭い感じで未果を一度見てから、カタッとうなずいた。ちょっとホラーっぽい。
「未果さん、そういう流れでいいですか」
とまたいきなり振られ、私? 流れ? と董山さんが言った流れという言葉の意味をよく考え、お代はいらないこと。ホテルに泊まること。と心の中で呟き、断る理由はどこにもない。「……よろしくお願いします」と頭を下げた時、本当にこのまま甘えてしまっていいのだろうかという疑問が湧いた。
「こちらこそ」と続けて頭を下げた董山さんがケータイを出し、「ちょっと電話してきます」と背を向けかけた時、
「──董山さん」と未果は董山さんを呼び止めた。二人からしたら足元にも及ばないことかもしれないけど、「あ、あの」今思ったことなんですけど。そうだ、それしかない。「ホテルじゃなく、私の家に来てもらうというのはどうでしょうか」
「……それは構いませんが、大丈夫ですか」
董山さんは未果のことを察してか、心配そうに未果を見つめている。自分で提案しておきながら、理のにおいが嫌でもするだろうあの家に帰って本当に大丈夫かどうか、自分でもよくわからない。でも、「董山さん、ホテルでもこういうことが起きるかもしれないわけですよね」
董山さんは一瞬目を逸らし、「そうですね。充分あり得ることです」と未果を見た。
敵に出くわす度に董山さんの強さが物凄く計り知れなくなってきているから、建物の被害だってこれ以上になることもあるんじゃないだろうか。これ以上、周りに迷惑かけちゃいけない気がする。するけど、どうかな、大丈夫かな。うん、大丈夫。涙も洟も全部出たし。そう思わないと。なんかダメな気がする。未果は董山さんの目に負けず、「……それは、避けたいです」とハッキリ伝えた。
ホラーっぽい沙友里が、自分のことで精一杯だろうに、未果のことをよく知っているからか、未果、それで本当にいいの? とでも言いたげな視線を感じた。
「大丈夫」と沙友里に笑顔を向ける。「沙友里が一緒なら全然」
じっと未果を見ていた沙友里は、「わかった。未果んちお世話になります」と言ってくれた。
「そうですか。わかりました。それでは僕の車でお送りします」
「えいいんですか」
沙友里が被り気味に入ってきた。
「はい。貴重品とか持てるもの以外、なにか大事なものはありますか? 一応玄関の応急処置は私共でさせてもらいますが、あくまでも応急処置なので、もしあるならうちの者がすぐ近くにいますので、一緒に運び出しますが」
「特にないです」
「わかりました。あとでなにか思いついたら遠慮せずに言ってください」
「はい」
被り気味に答えている沙友里はとってもうれしそう。
「それじゃあちょっと電話してきます」
董山さんは部屋を出て、玄関を出た所で話しているのか、臼井という名前とか謝っている感じの声とか監視がどうとかいう話の端々が聞こえてきて、帰ってくると、
「大変恐縮なんですが、うちの臼井がすぐに来られない状況にありまして、こちらとしてはさすがに穴をあけたままここをあとにするわけにもいかないので、ここで少し待機させてもらってもよろしいですか」
と沙友里に向かって言った。
「全然大丈夫です。あのもしよければ、男の同居人がすぐに来ますけど」とカタコトじゃない沙友里はケータイを手にした。「1Kの部屋ぐらい守れる防御力はありますよ」
「ほんとですか?」と意外な感じの董山さんに未果は同調する。彼氏に会ったことないけど、早く董山さんの車に乗りたいだけのような。少し考えるような素振りをした董山さんは、「……そしたらお願いできますか」と忝い感じで言った。
お願いするんだ。と沙友里を見ると、沙友里はうれしそうにケータイを弄って耳にあてた。




