董山曇(八)
未果さんは、廊下の開き戸を静かに閉めた。これで開き戸の小窓にへばりついて見たとしても、磨りガラスになっているためこちらの様子を詳しく把握することはできない。
三和土に立つ渡来樹生には、『力』がある。不随意細胞からも特有の微弱な振動が聴こえてくるから、気のせいということもないだろう。唱える『力』もあるようだ。
「いやーある意味うれしいね」董山は声量に気を付けながら、「渡来くんみたいな奴が出てきてくれて」とフライパンをパンパン左手に当て、うれしさを表現する。
「それは俺も」静かめに言った渡来は、まだ『決壊』はしていない。「おっさんでいいんだよなっ、倉科さんらをやったってのは」
「ああ、そうだ」
「なら、いろいろ聞きたいことあるんで、とっとと処理すっから」
処理ね。「処理する前に、いろいろ聞いてくれるなんて、俺に興味を持ってくれているのかな? だがすまん、俺はまったく渡来くんに興味がない」
渡来は、片方の顔を顰めながら、尖った髪の隙間を掻き、「あーのよ、別におっさんに興味があるわけじゃない」となにか言いたそうなニュアンスで止まった。
「そういえばそうだったな、興味があるのは寝ることと食うこととゲームすることぐらいだった。特にゲームができないとウワーって号泣するんだったっけか、ん?」
渡来は耳を穿ってから、「うるさいから髭のおっさん」とやや声が大きくなり、「知識ばっかひけらかしてっと、嫌われるぜ、髭のおっさん」と最後の言葉を強調した。
董山は自分の口髭の端っこをフライパンの側面で擦りながら、「髭を弄ってくれるのは渡来くんくらいだ、それもまたどうもありがとう」とお礼を言って髭を擦るのをやめる。
渡来の眉間に皺が寄り、「おいおっさん」と片方の目尻に皺が寄った。「人の忠告が誉め言葉に聞こえるなんて、前向き過ぎだから」
「前向き過ぎ?」董山は嘲笑する。「そうか? 格下で社会とのつながりも持たない年下の男から忠告されて、それを素直に受け入れられるわけじゃないから、前向き過ぎではないんじゃないのかな?」
「ハ? ちょっと待て、俺が格下だとッ?」
そっちのほうが気に障ったか。「違うのか? だからさっきから全然かかって来ないと思っているんだが、ああそうか、俺の縄張りに触れてしまうと、ショックで気絶してしまうのか、そうかそうか、それならしょうがない、うん」と董山はうなずく。
「なに一人で納得してんだ。おっさん、話通じねえよ」
「それはこっちもだ」苛立ってる渡来が、かかってくる気配はない。「だから俺がとっとと渡来くんを処理? してしまうけどいいかな?」
「いいかなじゃねえよ。とっととしてみろよ」
「じゃあ、お言葉に甘えよう」
董山は心の真髄で合掌一拝し、『決壊』と唱えた。『決壊』の響きに応えた阿阜里の地原産の特殊な構造タンパク質、キリクが小腸から肝臓へと流動し、類洞を通って心の真髄にまで行き渡ると、心の真髄に『金鼓』という名の臓器が創造される。
董山は培って作用性を増した、人間誰しもが持つ五つの原理のうちの二つ、『想』と『行』を織り成して金鼓をカンと一度打ち鳴らし、七仰二礼,《白智》爆轟と唱えた。大好きだったデリヘル嬢綾が本当の人妻になって店を辞め、抱きたいのにもう抱けない思いがズッコンと爆発し、大地を揺るがす精根,《白智》の礼へと身体が昇華する。
ズッコン、ズッコン、ズッコンと綾への鼓動を身に纏った董山は、社会への不安をゲームで埋め続けたい渡来の真髄を打ち砕くべく、スッと渡来に詰め寄る。渡来は棒立ちのまま。きっとなにが起きているのかも理解できていない。
董山は渡来のボディーに狙いを定めフライパンを振りかぶり、シュッとフライパンを振り抜くと、ズッコンとフライパンが渡来のボディーにぶち当たった。董山が纏う綾への鼓動がフライパンを伝って渡来の真髄に届く。刹那パリンッと渡来の真髄が打ち砕かれ、渡来はくの字型に折れ曲がってドカッと腰から玄関にぶち当たってベリッと玄関をぶち破って外へと吹っ飛んでいった。
ま、まずい。吹っ飛び過ぎだ。「……あーあ」やっちまった。と溜息交じりに吐いた董山の息は、白い。
董山は心の真髄で合掌一拝し、『堰壁』と唱え『決壊』を止めると、日常である七仰一礼,『建武』の状態に戻った。