仙田未果(八)
こんこんっ。というドアをノックする音の響きが少し変で、そろーっとドアが開くと、どう見ても動きの硬いカッチンコチンの沙友里が入ってきた。どうしたんだろう。
カッチンコチンの沙友里が未果の隣に座ると、この国の言葉をつい最近学び始めた人のような片言さで、未果を狙っている人間が浮気調査の依頼を装ってここに来る前に、沙友里と一緒に沙友里の家まで移動して欲しいと今、沙友里のケータイに董山曇から連絡があったことを話した。
それってもしかして谷川の時みたいに、偽物の人なんじゃないのって思ったりもしたけれど、長年董山曇を追いかけてきた沙友里のカッチンコチンさが本物を物語っているかとすぐ思い直した。
……ん? 沙友里が固まっている。自分であったことを説明して、どしんと現実味が出てきてしまったのかもしれない。
沙友里? と固まっている沙友里に呼び掛けても反応なし、お茶を勧めても全然ダメ、深呼吸を促してもおんなじ、もう沙友里いーと沙友里の身体を揺すったらちょっとほぐれたような気がして、揺すって揺すって揺すってたらどんどんほぐれてきたような感触があって、疲れてきたけど頑張って沙友里いーと揺らしてたら、いきなり沙友里の首がガクッとなってサラッとなめらかに自分の髪をかき上げた沙友里は正気に戻ったのか、「ごめんバッグ忘れた。これからすぐ電車で移動するから」と部屋を出ていこうとして立ち止まり、「車はすぐそこに止めたの?」と振り返った沙友里は未果に尋ね、そうだと答えた未果に、駐車代はうちと提携してるから心配しないで、と未果の心を見透かしているかのように言って、颯爽と部屋を出ていった。その割に、自分が固まっていたことは自覚してないみたい。こんな沙友里、初めて見た。ちょっとかわいい。
未果も沙友里に言われるまで三時間無料後の事なんて考えてもいなかったから、ちょっとは器大きくなったのかも。……ちょっと自分をよく見過ぎかも。
事務所から沙友里の家の最寄り駅まで、JR私鉄と乗り継いで約二十分、最寄り駅から歩いて約二十分の所に沙友里の家はある。
依頼主や調査対象者が調査結果によって逆恨みをしてきて、直接または間接的に危害を加えに来る虞もあるため、常に周囲を警戒しながら出歩かなければならないと沙友里は言っていた。特に帰宅時に尾行されて自宅を特定されてしまうようなことがあると面倒なため、帰宅時間や乗る車両を毎回変えたり、電車内で怪しい視線に気づいた時は全く違う駅に降りたり、最寄り駅に降りたとしてもすぐ改札には向かわずに、ホームの椅子に座ったり、エレベーターに乗るふりをしたりして怪しい人物を特定し、自宅に着くまでに撒いてしまうとも言っていた。
聞いただけでも大変だなあと思っていたけれど、いざ沙友里と一緒にやってみると、ほんとに大変だった。怪しいと思えば目の前に座った人も隣に立った人も降りていった人も乗ってくる人もケータイを弄ってる人もみんな怪しく見えてきてしまい、不審者とそうでない人との区別がつかない。沙友里はいつものことだからなのか、キョロキョロするわけでもなく、気を張っているような感じでもなく、未果とたわいもない会話をしながらなんともない感じで振る舞っていた。パンツスーツ姿の沙友里が探偵と知らなければ、電車で普通に帰るキレイなお姉さん、お仕事お疲れ様。としか見えなく、未果は車通勤で、普段出掛ける時も大体車で、混雑する時間帯の電車に乗り慣れていないから、それを隠しながらのたわいもない会話は、かなり大変だった。
「未果次第だけどさ、うちに泊まってくれてもいいんだからね」
一緒に最寄り駅の改札を抜けると、沙友里が思ってもみなかったことを言ってくれた。
沙友里は彼氏と同棲してるのに、「平気なの」と沙友里に尋ねると、
「彼氏? 平気平気。追っ払っといたから。あいつ生命力だけは強いの」と冗談交じりに微笑し、自分のケータイを出すと、「あとさ」とちょっと言いづらそうに、「おせっかいかもしれないけど、理に連絡してもいい? 未果を借りてるって。そうすれば、返事なくても少しは平気でしょ?」
そ、そんなことまで気にかけてくれているなんて。
まだ、理と結婚する前、失恋した沙友里にずっと付き添っていたら、終電を逃してしまったことがあった。ケータイも気にしていなかったから、理からの連絡も気づかなくて、いつもよりかなり遅めに、終電を逃しちゃったから沙友里の家に泊まるねとだけ理に返したら、理は沙友里の家まで未果を迎えに来た。その時沙友里はブチ切れた。さびしいのはお前だけじゃねえんだと。気が利かねえなァと。お酒で全部洗い流したかったのにィと、だいたいなッ、と沙友里は理の欠点を言いまくり、図星だったのか、理は相当ダメージを食らっていた。きっとあの時のことが脳裏をよぎるはず、という沙友里の目論見は、今の理でも外れないような気がする。
「それに、現にひどい彼氏だって知ってるしね」
沙友里は、自虐するように笑った。
「沙友里、ありがとう。泊まらせてもらいます」なにか心ばかりの手土産をと沙友里になにがいいと尋ねると、沙友里はじゃあコンビニにしか売っていないアイスが欲しいと言うので、二人で途中にあるコンビニに寄って買った。
街灯が灯る夜道の中、見覚えのある角にやってきて、沙友里の家が近いことがわかった。
就職してから何回か来たことはあったけど、未果が結婚してから沙友里の家に泊まるのは初めてになる。何度かリフォームされているからか、築数十年という気がしないオートロック付きのアパート。駅から徒歩二十分の立地を選んだのはしつこい尾行を撒くためにわざとそうしたとかで、その分家賃も安くなるから一石二鳥だし、家には帰って寝るだけの生活がほとんどだからちょうどいいとも言っていた。
アース探偵事務所からここまで、いつもより機敏に動いて筋肉をふんだんに動かしたりしたからか、すでに足のふくらはぎ辺りが筋肉痛のように痛い。それでも歯切れよく歩く沙友里に遅れをとらないようがんばって歩いていたら、やっと、『サニー』という二階建てアパートの前に着いた。
沙友里は暗証番号と鍵でエントランスの自動ドアを開けた。暗証番号を入力している最中も、鍵で開けている最中も、電車の時と同じで周りを気にする素振りも見せずに行った。ここは確か、隠しカメラとかがあったら沙友里が携帯している発見装置が鳴るとか言っていたような。鳴ることもなく、沙友里のあとをついて行く。
アパートの通路は街灯で道を歩いている時よりも明るく、エレベーターはなく、上に行ける階段は一つしかない。その階段もとても明るい。階段を上がって二階まで行き、通路を歩いて部屋を通り過ぎ、沙友里は206号室の前に来た所で、二つある鍵を開け、ドアノブを引いて大きく玄関ドアを開けた。
玄関から一直線に部屋の窓まで見渡せる1Kの間取りは、部屋に誰か潜んでいないか確かめるにもちょうどいいとか。部屋の中は真っ暗。通路の明かりは全然部屋まで差し込まない。沙友里はリュックのサイドポケットにあるペンライトを出し、室内を照らした。人影は見当たらない。部屋の死角やお風呂、トイレなどに隠れている可能性もあるので、未果も警戒を怠らない。
沙友里は部屋に入らず、ドアを開けたまま208号室まで続く左手と歩いてきた右手を見て、通路に誰もいないことを確認した。このアパートの住人の顔はすべて頭に入っているとも言っていた。明るい通路に遮るものはない。
沙友里はドアを支えながら玄関の敷居を跨ぎ、中に入った。ドアの支えを沙友里からリレーし、未果もドアを支えながら敷居を跨ぐ。
え? 支えていたドアの感触が急になくなり、ガバッと支えていたドアが勢いよく開いた。
──ゾワッと身体に寒気が走った未果は、身を竦めながら振り返る。
「……こんばんは」
未果の目の前に、知らない男が立っていた。
バッと新たな人影が未果の視界に入ってきて、ビチビチビチッと知らない男の二の腕にスタンガンを当てた。
沙友里だ。沙友里が知らない男にスタンガンを当てている。うそっ。




