董山曇(四)
持ってきてもらった理の写真をケータイに撮り、秘匿性の高い通信アプリで鈴架と臼井に送ってから、アイスコーヒーを一口飲んで、ソファーの背もたれに背中をつける。
思った以上に、未果さんと打ち解け合うことができた。彼女がトイレに行っている間に会計を済ませ、抱ける確率を上げていきたい所だが、そうはさせてくれないようだ。
遠くのテーブル席から、男二人組のうちの一人、オーダーメイドで仕立てたスーツをビシッと着こなした小倉克敏が、ランウェイを歩くようにこっちへ向かってくる。さすがにここで乱闘ということもないだろうが。董山は理の写真を懐にしまい、小倉克敏の不随意細胞に注意しながら、待つ……。
小倉は董山が座っている四人掛けのテーブル席まで来ると、内心ではピンとした緊張感が漂っているにもかかわらず、ファミレスで寛いでいるスマートなモデルが、今までこのテーブル席に座っていたんですとでもいうように、なんの違和感もなくスッと董山の前に座った。今まで未果さんが座っていた正面の席にモデルがいきなり現れてビックリ、という表情を小倉に見せる。
「こんにちは」と小倉は董山を見ながら低姿勢に挨拶すると、間を置かずに「いきなりすいません」と軽く頭を下げた。「決して席を間違えたわけではありません」
だろうな。
小倉は、危害を加える気はないという意思表示を示すために、左右の手の平をテーブルにつけてから、「貴方に『お話』があってここに座らさせていただきました」と、さらに『お話』の言葉も強調した。「わたくし」小倉克敏はつけていた手をゆっくり動かしてスーツの内ポケットを見せると、そこから名刺入れを取り出し、「こういうものです」と一枚抜き取った名刺をテーブルに置き、董山の手元までスライドさせた。
食器が片付けられているテーブルを横断してきた名刺を見ると、『財前企画 室長 小倉克敏』とある。それで? と小倉に目を向ける。
小倉はチラリとトイレがあるほうに視線を外してから、「手短にお話しさせていただきます」とまた董山を見た。「先程、地下駐車場の防犯カメラを確認させていただきました。貴方と接触した二人は、素人じゃありませんでした。素人相手にならまだしも、玄人相手にあんな容易に負かしてしまう場面を私は見たことがありませんでした。正直、脱帽しています。『リトルキャンディー』に貴方のような方がいらっしゃることも全く存じ上げませんでした。武力もさることながら身を隠す術にも長けている貴方にふさわしいゲームを紹介したくべく参りました。『宝島ゲーム』という名の、賞金獲得ゲームです。参加していただきますと、まず賞金総額を参加者で分け合います。そうなのです、参加するだけで賞金が手に入るのです。離島のジャングルで三十六日間誰とも接触せずに過ごすもよし、同じ参加者から賞金を強奪するもよし、奪い方にルールは一切ありません。殺」
「すいません」と小倉の話を途中で切る。「丁寧に内容までお話し頂かなくとも、なんとなく想像はつきます。雑魚と雑魚がお金を奪い合うんですよね? なんの興味も湧かないんですが」
「興味を持ってもらう必要はありません」小倉は雑魚という言葉に引っ掛かりを見せることもなく、「私は貴方に多額の賞金を手にしてもらいたいだけなのです」と続けた。「賞金総額はなんと四十億。そうです、参加者全員を倒せば四十億円が手に入るんです」
知ってるよ。
「さらにですよ、次回は三年に一度のボーナス回になっておりまして、参加者全員を倒した者にだけ特別にボーナスが支給されるのです。知りたくないですか? ボーナスの額」
それも知ってるって。
「驚かないでください。四十億円を手にした貴方にボーナスとしてさらに、六十億円が上乗せされます。足してみてください。四十足す六十、そうです、『百億円』が貴方のものになるのです。『百億』ですよ、『百億』」と小倉は『百億』を強調した。
──ひゃ、『百億』? わ、わかってはいたが、いざ言葉に出して『百億』と言われると、心がぐらつく。
「雑魚を倒して『百億』を手にする。悪い話ではないと思います」小倉は董山の心がぐらついたのを感じ取り、「一年に一億円使ったって使い切ることができないくらいの額ですよ、『百億』は」と畳みかけるように『百億』を強調してくる。「貴方ならなにに使いますか、『百億』を」
「『百億』を?」やばい、言い方が移ってしまった。「そうですね」未果さんとのデート費用に充てたいですね。と正直に答えたら気持ちがバレてしまうから、「避暑地に別荘でも構えますかね」とゲーム場を連想させる言葉を使う。
「それはいい」今にも手を打ちそうだった小倉は賛同し、「どこか好きな場所でもあるのですか?」と尋ねてきた。
「それはやっぱり、誰にも知られない地下なんかいいと思うんですけどね」
とさらに連想させる言葉をつなげる。
「地下なんて発想が素晴らしい」と小倉は感銘を受けたかのように、「どんな別荘が建つのかとても楽しみです」とにこやかに笑った。
「ええ、楽しみにしていてください」
「では参加していただけるんですね」
おっと、まんまと口車に乗っている。こいつ、こっちが撒いたエサになにも反応せず、逆にこっちの強さからくる自信を逆手にとってきやがった。さすが交渉慣れしている奴が相手だとすんなり行かないか。「参加するとは言っていません」見苦しいが、「『百億』をなにに使うかと尋ねられたから答えただけです。そもそも小倉さん、宝島ゲームは本当に開催されるんですか?」と今度は送り手として反撃の口火を切ろうじゃないか。
「はい、開催されます。日にちもすでに決まっています」
小倉は来月の日付をしっかりと口にした。
よしよし。「嘘はいけませんね」董山は大きく首を振る。「小倉さんの大好きな団体は少なくとも明日中には解散という形に追い込まれます。追い込むのは我々リトルキャンディー。あー一つ言っておきますと俺は予言者じゃありませんので、一種の天気予報みたいなものだと捉えてください。確率は百%。自信を持ってお伝えできる予報となっています」董山はテーブルの上にある名刺に目をやり、「財前企画は実体のない会社で、ゲームを主宰しているのは小倉さんも大好きで所属している『曲芸過激団』ですよね? 俺の予報が当たれば明日無くなる曲芸過激団が来月にゲームを開催できるとは到底思えないのですが」と二本指で押さえた名刺をくるりと反転し、スーッと小倉の手元まで横断させる。「実体のない会社の名刺を貰ってもゴミになるだけなので、お返し致します」
「さすがリトルキャンディー」と顔が引き攣って間を置くこともなく、目が泳ぐこともなく、小倉は名刺入れを出して手元に戻ってきた名刺を手に取り、名刺入れにしまった。「これで私共のことを知っていることが明白になりました」
……は? ……『百億』で誘い、簡単に処理できるゲーム場で死んでもらうことが目的じゃなく、董山がどれだけ情報を持っているのかを知ることが目的だったのか? それはちょっと聴いてない。
「きっともっとご存知ですよね? 私共のことをどこまで知っているのですか」
畳みかけるように小倉はテーブルの上で軽く手を組み、やや前のめりになった。
「……そうですね」ちょっとこっちが動揺しているじゃないか。不自然にならないようアイスコーヒーを一口飲み、間を取り、深呼吸し、董山もテーブルに腕をついて前のめりになって、「一言で言うと、小倉さんの知らないことまで全部知っています」と小倉の目を見据える。
小倉も董山の目を見据えてくる。
(……この感じ)
と思った小倉に防衛本能が働いて、感じた先を思い出せなくなった。
見据えてくるからだ。
(どこかで)
と無意識に心のダメージを受けたにもかかわらず、記憶を辿ろうとする小倉に、
「もしかしてなにか思い出そうとしていますか?」と水を差し、「小倉さんがここで発狂してしまうと厄介なので、思い出すのはやめたほうがよろしいかと」と忠告する。
辿るのが止まった小倉は、なんのことかさっぱりでいる。
「なぜ私が発狂するのでしょうか」
「小倉さんが駐車場での映像をご覧になった時、俺に絶望を感じたからです」
(はい?)と身に覚えのない感覚を言われ、小倉の眉間に皺が寄った。「私は貴方に絶望を感じた覚えはありません」
「小倉さんに覚えはなくても、今しっかりと、小倉さんに絶望の症状が出ているんです」
「どこに出ているというんですか。私はいたって普通です」
「ほお」と董山は視線を落とし、軽く手を組んでいる小倉の手を見る。「自分の手、見てみてください」
(手?)と小倉は自分の手を見た。(──な!)と小倉は驚いた。軽く組んでいる小倉の手が、ガタガタふるえている。
「ね、出ているでしょ、絶望の症状が。目に見える症状を自覚できないなんて、普通じゃないですよね?」
(なぜこんなにも手が……)
小倉はガッチリと手を組みなおし、ふるえる手を止めようとしている。
「映像でも絶望を感じてしまうほど、感受性豊かな小倉さんが、直接俺の目を見据えてしまったことが原因ですね。二度とも防衛本能が働いて、絶望は小倉さんの無意識の中に閉じ込められましたが、一日に二度の絶望は小倉さんの許容を超えていたんでしょう。身体に少しダメージが残ってしまった」
と言っても小倉は自分に一生懸命で全く聞いていない。
(なぜだ、なぜだ、なぜだ)と繰り返し、(この男から絶望を感じたからこうなったのか?)と董山が一つ前に行ったことを思い出した。(絶望を感じた? いつ感じたというのだ。この男が倉科と谷川を打ちのめした時、強いと思った……。強いと思った? 機械の不具合で少し映像が乱れていたのは覚えていても、一瞬で打ちのめした映像がハッキリ思い出せない。今の今まで覚えていたのに。なぜだ……。なぜだ)
それはな、身体にダメージが残った今、あの映像を思い出したら、隠した絶望が一気に放出され、手のふるえだけじゃすまなくなるからだ。小倉くん、君が見た映像も乱れてなんかいない。自分を保護するために記憶が書き換えられたんだ。
(……俺は確かに普通じゃないのかもしれない)小倉はふるえる自分の手を見つめている。(時間の感覚も失った)と小倉はトイレのほうをチラリと見た。(知りたいことは知れた。表の人間に顔を知られても特はない。普通じゃなくても、席に帰って、捕獲の指令を出すことくらいはできるだろう)小倉は、谷川たちよりも成績のいい団員らを送り込み、捕獲ついでにまたあの映像を見て、ふるえの原因を確かめる気のようだ。
「確かに、私は普通じゃないみたいです」と小倉は声を発した。「貴方の言う通り発狂してしまうかもしれない恐れはある。急ではありますがこれにて失礼させていただきます」と軽く頭を下げ、小倉はテーブルに手をつきながらケツを横にずらし、席を立とうとする。
「あー小倉さん」と中腰になった小倉を呼び止めながら背もたれに背中をつけ、「もう自宅で大好きなアロマは焚けないかもしれません」と残念なお知らせをする。「このあと小倉さんはぽっちゃりぎりぎりの男と出会って、改心する場所に連れていかれるでしょう。確率は百%。晴れた日なんかは百二十%に上昇するので気を付けてください」
中腰で静止した小倉の中に、臼井照明の姿が浮かんだ。小倉は臼井が大学まで相撲部に入っていたことまで掴んでいる。
「そうですか。ご忠告ありがとうございます」
と動き出し、もと居たテーブル席へと歩いていく小倉に、ランウェイ感はない。
八年前、未成年を含む男子六人が陰湿な事件を起こして世間を騒がせた。そのメンバーの一人である村井学が、建設企業として名高い『大正建設』の社長、村井清一の孫だということがSNSを通じて拡散し、大正建設が建てる家には盗聴器や盗撮器が仕掛けられているとか、ミスを犯した社員を監禁して拷問しているとか、ソープに売っているとか、家を建てる時にここぞとばかりに地中に死体を埋めているとか、あらぬ噂がいろいろ立って悪評が強まり会社の株も暴落、住宅関連の受注も減りに減って進行していたプロジェクトやエネルギー関連事業の資金が立ち行かなくなり、経営も一気に赤字に転落して社長の村井清一は引責辞任。
一度失った信頼をまた取り戻すのは難しく、誰が社長に就こうとも歯止めがかからないだろうと思われていた中、代わって社長に就いたのが、次期社長と謳われていた板垣邦夫だった。『生粋の棟梁』とも呼ばれる板垣は決して人を裏切らず、陥れず、周囲の人間を持ち上げながら自らも昇進してきた異彩な人物で、他者からの信頼も厚く、相手の懐に入るのがうまいと評判の持ち主だった。
板垣邦夫は着任早々、犯罪のない街づくり、信頼と信頼でつながる街づくりを心から創造していくことをコンセプトに事業を進めていった。そこにこれといった目新しさはなかったが、人望の厚い板垣社長には充分威力のあるものになった。板垣さんが言うんなら、板垣さんのためなら、と消沈しバラバラになりかけていた社員らが一つになり始め、防犯のエキスパートや地質に詳しい者たちまで集まり、気持ちの籠もった新事業を推し進めていくと、大正建設に現れ始めた信頼という熱が顧客の目に留まり、評判が評判を呼び集め、悪化していた業績はゆるやかに上昇していった。もともと技術力に定評のあった大正建設に『信頼』という熱が加わり、新たなブランド力として生まれ変わると、人柄で会社を立て直した板垣邦夫の呼び名が変わり、『信頼の神』と呼ばれるようになった。
なかなか人の心を評価するのは難しいもの。それでも『信頼の神』と呼ばれるようになったのは、板垣邦夫の凄みだろう。ちょっとそこが、予想外だったんだが致し方ない。
今では気持ちの籠もった仕事ぶりが技術力をいっそう高め、宇宙事業にまで参入している。そこまでの軌跡に力を貸したのが、『リトルキャンディー』なのではないか、といった噂も小倉は掴んでいる。リトルキャンディーの情報力を板垣邦夫が駆使し、人の強み、弱みをここぞという時に突いて人を煽動すれば、新たな人材まで確保することなど容易だろうと。
板垣社長は村井社長のようなことがないように、役員から系列会社に勤める従業員、その家族まで全員の素行調査をリトルキャンディーに調べさせたとも思っている。
それはリトルキャンディーの調査力を板垣社長に示すため、最初にしたことなんだが、合っていると言ってもいいだろう。板垣社長にもかなりの貸しを作った。技術力のある建設会社を味方にしておくと心強いからな。
と董山は支払いを済ませるために席を立ち、レジに向かいながら小倉が帰っていくテーブル席を見た。小倉とは正反対に、だらしなくYシャツを着こなしている男が一人座っている。警備服から着替えたようだ。名前は、倉科健吾。その倉科と目が合った。
……ふへっ。
董山は右側の顔を重点的に崩して変顔をし、倉科をバカにする。お前弱いな。という意味を込めて。
(てんめえこの野郎ッ)
おもいっきり伝わった。君もなかなか繊細なのかな? 董山は真顔になり……、
ふへっ。
と今度は左側を重点的に崩し、変顔をする。
(ッチ──)
と怒り奮闘の倉科は気持ちを抑えきれずに席を立つと、ドンと料理を運んでいた店員さんとぶつかった。ガチャンと皿が床に落ち、ガヤガヤしていたファミレスは一瞬シンとなり、皆倉科に注目する。なにやってんだか、バカだなあとレジに着いた董山は、ベロベロベローっと倉科に舌を出して挑発する。
倉科はこちらに怒りを向けながらも、ペコペコと店員さんに謝っている。おお、謝れるのか。それなりに秩序はあるようだ。ランウェイ感のない小倉も加わり、ペコペコ謝りながら一緒に拾い始めた。
まあ許容範囲の目立ち方だろう。と董山はセルフの会計を済ませ、これでいつトイレから出てきても大丈夫だ。と安堵する。払っとくか払っとかないかでだいぶ印象が変わるからな。しかも未果さんの場合、トイレに行っている間にちゃんと払っとけよ。という心がこれっぽっちもない。せめてものお礼にランチ代は董山の分まで支払う心意気満々でいる。なかなかこういう人妻はいない。早く抱きてえなー。
またガヤガヤし始めたファミレスの中、女性が一人、トイレに入っていった。今のうちに臼井に連絡しておくかと、董山は懐からケータイを出した。




