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仙田未果(一)ニオイ編

「気を付けてね」

 玄関で靴を履き終えた理に、未果は心を込めた。夫の理は二、三ヶ月に一度くらいのペースで出張に出掛ける。理の帰宅をどんなに待ち侘びても、早く帰ってきたことはない。本当は本音をぶちまけて、行くのをやめさせたい。でも、本音をぶちまけた所で、理が出張に行くのをやめてくれるとは思えなかった。

「未果もな、戸締りとかちゃんとしてよ」

 心配そうな表情の理に、未果は微笑んでうなずく。

 籍を入れて、理が住んでいたマンションで新生活が始まろうという日の夕食時、「もし自分になにかあったら、生命保険には加入しているし、貯金は一生働かなくても今の生活がキープできるくらい充分ある。借金はもちろんない。家もすぐじゃないけど持ち家になる。リフォームする額だって充分ある。だから俺がぽっくりいなくなっても、なに一つ心配することはないんだからね」と理がステーキを食べながら言ったことは、これから一緒に暮らしていく上での報告というか、心構えというか、そういった心配はしなくていいんだよ。ということだと思っていた。結婚生活が始まって、理が最初の出張から帰ってくるまでは……。

 よく考えてみれば、それなりに栄えている駅から徒歩十分圏内の一画に、11LDKという近所にも劣らない豪華な家を建て、高級車が三台あり、庭には温水プールがあって、観光地で見かけるような広い庭園もある。そんな家を、二十代だった理がキャッシュで建てることができたのだから、そのことに関してもっと疑問を持つべきだったのかもしれない。

「ごめんな、また出張で」

 小刻みに首を横に振った未果は、「しょうがないよ、行かないわけにも、ね」と微笑む。

 夫の理とは、友達を通しての飲み会で知り合った。女性陣の職種はバラバラだったけれど、男性陣は皆、IT関係の仕事をしているということだった。未果にとってIT関係といえば、若いのに社長で、お金をたくさん持っているというイメージだったので、ないならまだしも、高いんだろうなと思わせる服や時計、車などを所有していた理に関して、初めて会った時からその時まで、なに一つ疑念を抱くことはなかった。

「今回はちょっと長いけど、四日後にはちゃんと帰ってくるからさ」

 理はその日を楽しみにしていてよという感じの、柔らかな笑みを浮かべた。

「うん」未果は理と波長を合わせるように笑みを浮かべながらうなずき、細かいことかもしれないけどとっても重要なことなので、「今回は三泊四日だから、三日後でしょ」と理の肩を指でツンツンと突っついた。

 え? と理は一瞬考えるように上を見て、「三日って言ったよ」と真顔で言った。

 結婚してから二年半程経つけれど、たまに見せるおっちょこいさを全力で隠そうとする理のことを、全然嫌いになっていない。「どっちにしてもそんなにいないとさびしいから、出張について行っちゃおっかな」とある程度の覚悟をして、真面目にも冗談にもとれるようなトーンで言うと、

「ダメダメ」と理は真面目な顔つきをさらに固まらせて、「今日久々に会えるって楽しみにしてたでしょ」と話題を掏り替えた。

「……そうだね」ついていけたとしても、自分の力だけじゃなにもできない。だから今日、沙友里に会いに行くんだ。

 結婚生活が始まって初めての出張から理が帰ってきた時、野性的な逞しさで未果を求めてくる理から、今まで感じたことのない底知れぬ愛を感じて、浮気でもしてきたのかと思った。でも、その勘は世間から流れてくる情報に影響されたもので、すぐに浮気じゃないと思い直した。ちゃんと自分で感じた勘を吟味すれば、理から感じた底知れぬ愛は本物で、結婚生活を始めた日に言われた言葉の本当の意味が、野性的な逞しさの中に隠れているような気がした、になった……。

 理の出張先は、いつも違っていた。理が勤める会社の社風なのか、出張先では仕事だけでなく、観光的なこともしているようで、夏に沖縄に行った時は、海岸の砂浜に埋まっている写真を送ってきたり、温泉で有名な観光地に行った時は、赤いお湯って珍しいという名目で温泉に浸かっている写真を送ってきたり、その都度これって浮気を隠すための偽装工作? と首を傾げたりもしたけれど、出張から帰ってくる度に理は強く未果を求め、理の底知れぬ愛を感じると、未果の疑問は真っ白に消え、違う疑問が湧くのだった。理をそうさせているのは、いったいなんなんだろうと……。

 会えない時間が愛を育み、理の愛情を強くしている。そう思ってしまおうとしたこともあったけれど、やっぱりセックスをしている時の理からはそれだけじゃ言い表せないなにかを感じる。それは結婚して一年が経って、今の豪華な家に住み始めてからも変わらないことだった。なにか変な薬でもやってるのかと思った時もあったけれど、それもそんな感じはしないとすぐに思い直した。

 理はいったいなにをしているんだろう。本当に出張に行っているのかいないのか、帰ってきた理に抱かれる度、知りたい思いが高まっていった。

「迎えに行けないけど、タクシーでも使ってよ」

 理のやさしさは、ずっと変わらない。そんな理に対して、出張に旅立った日に忘れ物をしたと嘘をつき、理の会社に電話をして真実を確かめるのも気が引けてしまう。黙って跡をつけてみるのも、こっそりケータイを見るのも、おんなじ理由で気が引けてしまう。

「うん、ランチの時間帯だし、大丈夫」

 未果は心配してくれている理に向かって微笑む。

 夫になってくれた理になんの不満も感じない。底知れぬ愛まで感じるようになった。私は今幸せ。だから気にするのはもうやめよう。

 そう思っていた時だった。理が右腕に包帯を巻いて帰ってきた。その痛々しい姿に、未果は嫌な空気を感じた……。

 どうしたの? と心配する未果をよそに、理は笑い話のように経緯を語った。

 出張先で夜、仕事仲間と食事をしたあと、近くに一年中やっているスケート場があるから行こうということになって、それなりに滑れる理は、できもしない三回転ジャンプをしようとしてできずに転倒、骨折してしまったのだということだった。

 その理由自体を怪しいと思わなかった。理は寒い所育ちでスケートはもちろんスキーやスノボも上手だった。独身の時一緒に行ったこともある。結婚してからは二人で行っていなかったし、理が友達と一緒に行ったという話も聞いていなかったから、久しぶりのスケートが楽しくて、つい羽目を外してしまったんだ、と、そう思うことができた。

 そう思うことができた……。できてしまった……。それが、未果の心に引っかかりを作った。夫の理が本当に仕事をしに行っているのか、それともそうじゃないのか、そうじゃなかったらなにをしに行っているのかよくわからない状況の中で、ちゃんとした理由の骨折……。そのことに理の痛々しい姿を加えると、掛け算のように嫌悪感が増大し、嫌な『ニオイ』という表現方法に変わる……。その、『ニオイ』という表現方法は、昔聞いた表現方法に影響されているのかもしれない。もしかしたら、未果が夫に対して感じる、『勘』というものも……。

「でも、なるべく一人にはならないようにね」

 うん、ありがとうという意味を込めて未果はうなずく。

 嫌な『ニオイ』。それは以前、未果が危ない目に遭いそうになった時と同じような『ニオイ』……、暴力的な『ニオイ』だった……。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 最高に面白かったです! [一言] これからも追ってまいりますので、執筆頑張って下さい!!!
2023/07/09 16:29 退会済み
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